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随筆(2022/12/16):自由と呪縛_6.自由意志と社会の接続としての「承服」と各種「服従」(後半)

6.自由意志と社会の接続としての「承服」と各種「服従」(後半)

6.1.自由意志による社会規範の受容のための、自由意志による服従のプロセスを無視してはならない

前回、
「自由意志で服従することはありうる」
「というか、自由意志を意識的に枉(ま)げて服従することは服従の1類型に過ぎない」
「無意識を枉げられて自発的に服従することはありうる。これは本人は自由意志でやっているのだが、自由意志を操縦されているから、やはり危うい」
「個人への信奉や、説得の受け入れや、利益の算盤勘定や、ふつうに賛成することによって行われるものとしての服従は存在し、その時はその服従はなんと掛け値なしの自由意志で行われている」
「これは政治学の講学上の分類であり、直感に反するが、実際にそういう分類をせねばならない事態が存在するから、このようなものの見方が必要になる」

という話をしました。

何でこんな話をしているのか。
自由意志
を持つ人間が、既にある何らかの社会規範を受け入れるために、自由意志による社会規範の受容はどうしたって欠かせないのです。
そしてその過程では、信奉や納得や利益や同意などの、自由意志による服従のプロセスが、通常働いている。それを無視してはならない。という話がしたいのです。

「好きなようにやって他人に妨げられない自分」の感覚、自由意志がある」
「それは「これは自分のやったことだし、他人のことではない。たとえその結果が自分にとって不都合なことであろうと、やはり同じ」という行為上での責任感のきっかけになる」
「その責任感があるから人は責任を引き受ける」
「責任が引き受けられることによって、約束や取引は信用に足るようになる
「信用に足る約束や取引によって、約束事である社会規範と、安定した豊かな経済は発展する」
「社会規範と安定した豊かな経済によって、おそらく都市同盟や領域国家レベルの高度社会がようやく成り立つ」
「ほとんどの場合、個人主義で考えられている個人は、それなりに栄えている都市での生活を送る広義の商工業者であり、都市同盟レベルの社会の構築を無視したらまるで成立しない」

だいたいこういう話を考えています。

6.2.「自由意志が尊く、社会規範など笑止」という価値観

もちろん、

「自由意志が何より尊いのであり、自由意志そのものではない、不自由な参入障壁の一環でしかない社会規範など、反発する以外の選択肢、あると思うか?」

という価値観は、あります。
自由意志が尊いのは否定しませんが、これを貫いて、社会規範に抵抗して、これを拒絶して生きていく以上、
「社会規範の一環であり根幹の一つである取引安全を、自分の都合のためにないがしろにして、一方的な取引によって他人や社会からリソースをふんだくった上で、相手への報酬を不満足なもので済ませて踏み倒す、訴訟されるリスクの高いなんらかのブラックリスト入り業者」
になる可能性は非常に高いと言えます。
というか、そんな事業者、たくさんいるでしょう。

彼らは報酬を払う際に、しばしば
「仕事分より報酬が足りないだと? いいからガタガタ抜かさず黙って働け!」
威嚇によって操作しようとしたり、
「そんなカスみたいな仕事ぶりでよく人並の報酬を受け取ろうと思ってるよな。そんな話が通る訳ねーだろ」
侮辱によって操作しようとします。
上は、(物理力に訴える「最狭義の暴力」ではないものの、)恐怖によって相手を折れさせる「狭義の暴力」。
下は、相手を折れさせるために羞恥心などの強い感情を使う「広義の暴力」です。
これではまともな説得やまともな取引とは言えません。

***

本当は、これらの暴力に訴えない、まともな説得や取引をしなければなりません。

もちろん断られる可能性が半々くらいあるのですが、
「相手の自由意志は、同意させるためのお題目とか道具とかではなく、ちゃんとあるものである」
「同意させるために断る意思決定をへし折ろうとすることは、相手の自由意志を破壊しにかかった、ということにしかならない」
「相手の自由意志を破壊しにかかったら、ごく当たり前に相手は反発する」

ということは、意識せねばなりません。

***

え?
「自分は成功している社長であり、踏み倒せるから大丈夫」?

今、日本等の社会がギリギリ認めている暴力は、広義の軍事系と司法系に限られます。
なぜかって?
軍事系については、
「占領を妨げるものがないと、安全で豊かな社会が占領によって壊滅する可能性がある」
というのは決定的に重要な理由となりえます。
(あまり言いたくありませんが、かなり最近ウクライナで見たはずです。できれば台湾でそれを見たくありません。2022/12/16はそのような国際情勢であったということを申し添えます)
そして、司法系については、安全で豊かな社会を成り立たせるための取引安全を阻害するようなはたらきがあれば、これを止めなければ、安全で豊かな社会がやはり壊滅するからです。
取引を踏み倒す場合、結果的には差し押さえ等があり得ます。

***

「大事なものの優先順位がおかしい。
個人が大事なのである。
社会が大事なのではない。そんなものはどうでもいい」?

個人自由意志尊いのは、個人にとっては
「邪魔されず自分のやりたいことをやれる、ほかならぬ自分自身は、かけがえがない存在だから」

でしょうが、約束や取引をする他人や、約束事を共にする社会にとっては
「自分のやったことに対し、「これをやったのは自分である。人のせいにできない」という形で責任を取れるから」

です。
責任を踏み倒して残るのは、前者の理由だけです。
踏み倒した側の自由意志の価値を、しかも他人や社会を相手に訴える?
それは、無理な話なのでは?
だって後者の理由は責任を取る者にとってこそ意味があるのだし、そこの理由を正に踏み倒しているんだから、論外なのでは?

6.3.社会規範に対する信奉や納得や算盤勘定や賛成を、「所詮は服従だから邪悪」と罵るの、良くないですよ

さて、信奉や納得や算盤勘定や賛成による物事の受容は世に多く、良識的な人々は公序良俗や当事者同士の約束事に従い、そうして人々は自由と他者性や社会性をすり合わせているのです。

***

気に食わないかもしれません。

「いんちきだ。
これらは要は服従であり、フルセットの要求は通らなかった、自由意志が一方的に通りはしなかった、妨げられた妥協妥結ではないか。
自由意志に抵触しないように工夫した操作とやらは、要は自由意志の操作に他ならない。
そんなものが真正な自由意志であるとは認めない」

しかし、何度も言いますが、この信奉や納得や算盤勘定や賛成は、自由意志と整合的に成立するものです。
そこに恐怖や認知バイアスによる操作は存在していませんし、だからそれを受容した意思決定は、文句なしに自由意志の構成要素です。
それすらも悪し様に言うのは、曲がりなりにも自由意志で現実に成した、信奉や納得や算盤勘定や賛成に対し、口先三寸で「呪っている」だけです。
そんなのは彼らへの侮辱にしかならないだろ。

***

妙な話ですが、個人の実践レベルで、
「問題解決した後で生ずる
「でもあれは諦めざるを得なかった」
とか
「得られたものは自分のニーズのフルセットから程遠い」
とか
「それにしては払ったコストやカロリーが多すぎる。こんなはずではなかった」
とかの不平不満」
は、よくあることです。
それらはもちろん後で何らかの手当をしなければなりません。
そして、それには問題解決した時の手段は向きません。
というか、それをやった「からこそ」不平不満が生じているので、それをやればやるほどこじれるでしょうね。

まして、他者が関わる事柄においては、
「自分だけの都合で全部うまくいけば、現実世界はそれを通してくれる」
という話にはまずならない
のです。
相手にも自由意志があるのだから、反発されることは半々くらいであり得ます。

ここで
「反発した! あいつは自分の自由意志を妨げようとしているのだ!」
などと思わないで下さい。
何で反発したのかというと、相手が相手の自由意志を妨げられようとしたからです。
しかも、この、自分によって。
こういうことは、自分にも相手にも自由意志がある限り、あって当たり前だと思って下さい。

まして、
「自分の自由意志のために、相手の自由意志をへし折るべきである」
という話が、自由意志のテーブルにおいて正当化されると思わないで下さい。

自分の自由意志自分のものです。
が、自分の自由意志に多大な権限を与えている、「自由意志というもの一般には価値がある」という価値のテーブルは、万人が囲んでいるべきものです。
自分だけのものではありませんし、もちろん誰か他人だけのものでもありません。
こうでなかったら、自分はいつ締め出されてもおかしくなくなるから、その瞬間、自分の自由意志は一切顧みられなくなるし、何なら利用し尽くされて捨てられます。
だから、テーブルそのものは尊重すべきですし、それは一般性を持つもの、つまり自分や他人や万人で囲むものでなければならない、ということです。
そこは覚えておきましょう。

***

そして、「自由意志というもの一般」や、「他人の自由意志」を侵さないことにした場合、自分と他人の自由意志は、必ずしも両立しません。
というか、する方が珍しいでしょう。

自由意志が一方的に通ると、自分は爽快でしょう。
ですが、それでは他人を巻き込んだ時に、たいてい相手の自由意志は通ってない、不自由な状態な訳です。
これは大きな反発の元になりますし、たいていこれで自分が恐怖を覚えることとなります。

相手の自由意志を損なったことで相手の反発があるから恐怖して
「自分は恐怖によって狭義の暴力を振るわれた」
と言いたくなる
のはよくあることです。
が、もちろん
「じゃあ恐怖を覚えないで済むように反発されるような仕打ちをやめるか、反発されようがやって恐怖に耐えるか、これらのいずれかでは?」
という話になってしまいます。

***

こういう時、双方に精神的余裕があれば、第三の選択肢として
「話し合いで妥協点を擦り合わせる」
ということがありえます。

が、それで
「お互いが完全に納得する理想的な状態」
はまずなく、ふつうは
「お互い、何らかの不平不満を抱えて、それでもその決定を当面受け入れる」

ということになります。

自由意志の擦り合わせの果てに、自由意志とはかけ離れているが、それはそれで必要な営為がなされる。
妥協とか妥結とかは、そういう自由意志の「後の」世界の事柄である。
もちろんそこで自分が合意したことの責任は取らねばならない。
これを反故にするやつとの合意など維持できる訳がない
し、それでは実効的な約束はおよそできなくなる。

***

合意約束にはたいへんな価値があります。
というか、一人で何でもかんでもやるよりはるかに便利になります。
合意して約束した他人が責任をもってやってくれるのだから。
ダメだったら何らかの代償を払ってくれるのだから。
そうでないやつの合意や約束は最初からしなくていいのだから。

合意や約束のテーブルは、自由意志のテーブルとは、関係するが別のものとして、大いに有益な代物です。
何なら自分も既にその恩恵にあずかっているし、それがなかったら自由どころか生存すら危ういことも多々あるでしょう。
(自分の生計給与に拠るものなら、給与に関する契約と内規は非常に重要になってきますし、取引によるものなら、支払いを踏み倒されないことはもちろん決定的に大事です

***

そして、
「それを蹴っ飛ばしてでも、自由意志のテーブルだけに依拠した方が、自分にとってはしっくりくる」
というからには、
「後でそれを取り戻したい時には、「テーブルを蹴っ飛ばした人」という猛烈な悪印象のハードルを乗り越えねばならない。
それは自由意志に対する暴力のレベルの話とは最早違い、まずは合意や約束に対する不信のレベルの話である。
だから自由意志のレベルで何を主張しても効果は薄くて当たり前なのであり、「まずは」合意や約束が成り立つよう、信用を構築せねばならない。
それが嫌なら、取り戻すのはまず無理である。泣いても笑っても現実はそうなる」
という話には、いつかは直面せざるを得なくなるでしょう。
泣いても笑っても、それは何とかせねばならないし、今までの自由意志でのやり方はそこでは向かないどころか、やればやるほどこじれる形で効く。

***

たいてい、社会規範に対して、信奉や納得や算盤勘定や賛成をしている人は、上記の話を人生経験か常識によって「ざっくりと」程度には「知っていて」、そういう選択をしている訳です。
ここまで呑み込んだ上での選択なのです。

これを、なおも「所詮は服従だから邪悪」と言えば、それはかなり限定的な、解像度を落とした見方でしかありませんし、当然その視座も「他の視座も」広く持っている相手は、そういう一面的な話に対して聞く耳を持たないでしょう。

「んなあこたぁ分かっとんねん。
それで?
情報量増えてねーじゃん。
だからそれで思考や意思決定を変える訳がねーんだよな」

そして、「相手を邪悪行為者として罵った」という事実だけが残る。
それは侮辱だから、自由意志を歪める呪術=ブラックメール=広義の暴力に他ならなくなる。

それで相手が変わらなかった場合、「相手が折れた」という成果は得られず、「広義の暴力を振るった」という事実だけが残る。

で?
ある種の暴力を振るったその時点で、相手が反発するのは、ごく当たり前です。
だって相手にとって邪魔極まりないんだから。
いかなる手段をもってしても止めたいし、服従を選ばないんなら、後はかなりの確率で反発になるんだよな。
黙殺の可能性もあり、それで止まればいいけど、そうじゃないことも多いので、最終的には反発されるのは、まあしゃーないわな。

***

「こういう成り行きになる」という説明をしました。
現実をどうこうするためには手を動かさなきゃならないので、手を動かす人にケチをつけることで現実をどうこうしないでほしいのです。
ケチをつける人にとっては、「無」よりは効率的ではあるでしょう。
ですが、手を動かす人にとって、途方もなく非効率的で迷惑な話です。
罵るのを止められないのも、反発されて途方に暮れるのも、本当に良くないですよ。

「社会規範を呑み込め」とは言いません。
どうしてもそれが自由意志の感覚に反し、自由意志より先の領域に価値を認められない
なら、それを呑み込むのはおよそ無理な話でしょう。
ですが、じゃあ、社会規範の果実を手に入れられるのは、「誰かが自由意志で気紛れに果実をくれた時」か、「盗んで対価を払わなかった時」だけになります。
それはおよそ入手の方法として安定的ではありません。
不平不満がたくさん出て来るでしょう。
安定的に手に入れて満足したいなら、ちゃんとテーブルにつきましょう。
全てそこからです。

(次回うまくいけば最終回)


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