見出し画像

△2 「死にたい」は色とりどり?

「死にたい」なんて口にするのはおかしい人のすること、と思っていた。

今は一日のどこかで必ず、「あぁ、死にたいな」ってつぶやいてしまう。

本当は、身体で支えきれないほどの重さをもった、口にするのもはばかられる言葉のはず。
いつからこうなったんだっけ?


死にたさには、濃淡があるようです。

希死念慮は、美術の教科書に載っていた「色相環」みたいな、グラデーションで表現できるような気がします。

「死にたい」は色とりどり、その濃さもまちまち


チープな死にたい


例えば、和紙みたいに裏が透けるほどぺらっぺらの「死にたい」。

昔の嫌なことがフラッシュバックしてきた瞬間、口をついて出てくる、「あぁ、死にたいな」という言葉です。

チープな死にたい、と呼べるかもしれません。

これの裏側には、特に含みがありません。奥行きがないのです。
深く考えず、ただ、不快な感情を和らげるために生じるものです。


ディープな死にたい


反対に、ディープな「死にたい」もあります。
言葉がぎっしり詰まった分厚い辞書の表紙に書かれた、「死にたい」です。

ロジックで考えに考えた上に導き出される死にたさです。
何で死にたいのか、どうしてそういう考え方に至ったのかが、明るみに引きずりだされた上で生じるものです。

鬱になるときは、いつも「チープな死にたい」からスタートします。
何となくつまらない、楽しくない。
だからいま、ここから逃げたくて「死にたい」。


それがだんだん、時間経過とともに深まっていきます。


「こんなことがあったから死にたい」
「未来はこうなると思うから死にたい」

後付けの理由がたくさん浮かび上がってきて、死にたさの彩度が上がっていくのです。


心の天気に左右されない人っているのかな?



どちらも結局、命を絶ちたいという気持ちではあるけれど


いくら「死にたい」の解像度を上げたって、死にたいものは死にたい。
そういう考えが頭を離れないのは、すごく苦しい。


それでも、自分の内側にある希死念慮への理解が深まっていけばいくほど、人に相談しやすくなるのは確かだと思います。

なぜなら、主治医にでも、信頼できる人にでも、
「こういう理由で私は死にたいんだ」と伝えられるから。
紙に書いたり、パソコンで打ち込んで渡しても良い。


言葉にして自分の外側に吐き出すだけで、すっきりすることもある。
思わぬ返答が返ってくることも、たまに、ある。



だからやっぱり、チープな死にたいに囚われている時間は、短ければ短いほど良いのです。
はやめに脱出できると、ディープな死にたいを経て、フラットに戻っていくから。



なんか偉そうなこと書いてしまったなあ。
専門家でもない誰かのアドバイスって正直うざいよな。メンタルに関して。
「そんなん知ってるわ!できてたらとっくに治ってんだよ!」って思うよな。



とにかく、「死にたい」なんて微塵も思わない、
健全な人生の方が良かった。


「今日は生きますか?それとも、飛び降りますか?」なんてことに考える時間をとられているの、たぶんけっこう、もったいない。



こんなことばかり自動的に浮かんでくる人生、いい加減もう飽きたよー。

もう現世はお腹いっぱいです。
来世はイージーモードにしてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?