見出し画像

私達が生きているのは、偶然か、それとも必然か

私は、今日も生きているから、この記事を書いている。

あなたは、今日も生きているから、この記事を読んでいる。

人生の時間は誰にとっても不平等で、そうして私はその5分を使ってこの一部を書いて、あなたは2分を使ってこの一部を読んでいる。

この記事を読めない環境にいる、既に死んでいった(帰天した)ひとたちは、どこかで私達のことを見守っていてくれているのか、天国(神の国)で苦痛なく過ごせているのか、あるいは完全な無になっているのか、それとも「成仏」できずに苦しんでいるのか、それは誰にもわからない。

私はカトリック信者として一定の意見を述べることができるし、それが真実だと思っているが(信仰とはそういうものだろう)、それが本当であるという保証はない。仏教徒やムスリムが言っていることが実は正しかったと死後わかることになるかもしれないし、あるいは死後の世界などなく、ひたすら無になるのかもしれない。それは死んでみないとわからない。

現在のところ、死んだひとがまた地上に戻ってきたという事例はないし、あるいは死者の世界に旅行できるプランもないから、私達は宗教なり小説なり哲学なりで死とはどのようなものかを想像することしかできない。

死は不可逆的だ。一度「死んでみる」ということはできない。(自殺に限らず)死ぬとしたら、それは永遠に取り返しのつかないことだ。「死にたい」とは言えても、「死んでみたい」とは言えない。もちろん表現としては言えても、実際に「試してみる」ことはできない。そして、死んだひとが生き返ることも(少なくとも同じ名前と顔を持って同じ時代に生まれ変えることは)できない。だから、私達は死を崇めたり、怖がったり、正当化したり、かわいそうだと思ったりすることはできても、体験してみて実体験としてなにかを語ることはできない。

だから、死について語るとき、誰も本人の経験を語ることはできない。「思っていたより良かった」あるいは「悪かった」あるいは「良いも悪いも感じられない状態に行った」のかもわからない。

さて、話を戻そう。

あるひとが死んで、私達が生きているのは、偶然か、それとも必然か?

私は、限りなく偶然だと思う。

飲酒運転をしている車が目の前に来たら、私達は死んでしまうかもしれない。そこにいたのは私達ではなくほかの誰かだったというだけのことだ。

苦しんで、あるいは望まないまま、死んでいったひとたちに「あなたの死は必然だった」などと言うことは到底できない。

「それは神様の思し召しだから」と言う権利があるのは、遺族のひとだけであって、外部の人間が好き勝手言えるものではない。

「元気にならないとあのひとが悲しむよ」なんて言うことを言える権利は誰にもない。それを本人が思って本人が「じゃあ頑張ろう」と前を向くための起爆剤になるならいいのだが、そうではないひとが安易に励まそうとして言うから事態はもっと複雑なものかつ傷つく人が出てしまうものになる。

じゃあ、私達が生きているのは偶然か、必然かと問うてみる。

それもまた偶然だ。

心臓発作はいつ来るかわからないし、いつ災害や事故に遭うかもわからない。そんな中で、心臓発作があった誰かと、なかった私達を分かつものは、あくまでも果てしないほど大きいように見えて、実は限りなく小さな偶然なのだ。生かされていると感じるひとも、生きなければならないと感じているひとも、その生が続いているのはほんとうに小さな偶然によってだ。

留学資金などに使います。ご支援よろしくお願いします。 また、私が欲しい本を集めたほしいものリストも公開しています。 https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/9WBR0K7KWYX8?ref_=wl_share/