自分を探して見つける時期は大事だと思う。でも掘り下げ続けるのはもったいない。 「時間」はたくさんあるようで限りがある。探し求めて迷い続けていたら、いつの間にか体は老いて、心は時間が止まったまま。 自分の時間を流さないといけないんだよ。 それにね、人間は変わっていけるものなんだ。
実は学問も同様で、「学」とつくものを学ぶ時は必ず師から概論をまず学ぶ。 定義や認識が共通でなければこれもなにかおかしなものに変じていくし、そもそも師がいなければ学ぶスタートラインに立てる機会もない。
全てのものは縁という関係性によって成り立ち、我もまた然り。その我を自己観察にこだわり凝視すれば、たやすく迷妄の道に迷い込むだろう。そこで生じるのが、我と仮定された妄想たる我と、観察者と仮定された仮初の私だからだ。我を知りたくば、日常で隣人との間に起きる事象を観察しなければ。
「生命における真の創造物を「ちょっと狂った系の芸術作品」とか「日記みたいなナニカの文」ですとかいったふうに、偽装して、ゆっくりとバラまいていけばいい。」 『tVC【創造者の基本】洞窟壁画を遡るアルス』 https://note.com/gengo_type_meme1/n/n6959e4a0abe4?magazine_key=me897839b73a6 朦朧と微睡、酩酊と冥福を
理不尽なアドバイスには、 その教訓を得るに至る体験談が欠けている。 アドバイスは待機説法的な対話形式でなければならない。 記されたアドバイスは「ルール」になり、 象症候群を引き起こす場合が多い。 プロセスとは生滅である。 アドバイスはプロセスするが、 ルールはプロセスしない
ノーメイク: なんと精密な構造! なんと高尚な風貌! もはや存在が偉業!! 共存: いま2つの御魂がここにある。 「いる?」ー「いるよ」 「いるね」ー「いるよ」 これ以上の喜びがあろうか。 これ以上の幸運があろうか。 時空の共有、共鳴、共存。 あらまほしきこと。されど、妄想。