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ある画家の話


 綺麗なキャンバスは、夕日を受けた温かみのある色になって、画家は今日も、そっと布をかぶせる。


きみを包むビロードたちよ、
朝まで守りたまえ、その美しき白を。

 

 次の日も、そのまた次の日も。
キャンバスは、いつまでも白いままだった。
画家はその白を、ほかの何より愛していた。



 この世には、数えきれない白がある。
月の白、白鳥の白、雪の白、陶器の白。
漆喰の白、クリームの白、肌の白。
卵の白、百合の白、聖壇の白。
 キャンバスの白は、柔らかな白だった。



 画家は、その白を汚すことを、ひどく怖れた。
キャンバスを前に窓辺に腰かけ、風景を見渡す。
本来の画家なら、この風景をキャンバスに映しとるだろう。
光をのせ、影をのせ、様々な色が重なるだろう。
でもこの画家は、そうしなかった。
そうするつもりは微塵もなかった。
画家は、この白いキャンバスに光が移ろってゆくのを、ただじっと見つめていた。


 この画家がどうやって暮らしているのか、誰も知らなかった。
絵を描かない画家など、画家とはいえない。
誰もが、画家のことを変人、奇人と噂した。
昔は普通の絵を描いていたらしい、と言う人もいた。


 画家はたしかに、昔は絵を描いていた。
空を、川を、草木や花を。
しかし、画家にとっては、どれも本物ではなかったのだ。
空を渡る風も、揺らめく光も、緑の匂いも、そこにはなかった。
画家は、何もかも、本物と同じに描きたかった。
目を上げれば窓の外に、
下を見ればキャンバスの中に、
まったく同じ、寸分違わぬ光景がなければ意味がない。
 ところが、描くそばから光は移ろい、葉は落ち、雲はちぎれてゆく。
それは、画家にとって残酷だった。
そこに喜びはなかった。
苦しみと狂気だけが、画家に絵を描かせた。


 描いては失望し、失望しては、真っ黒に塗りつぶした。
その黒は、奈落の底を見下ろすようだった。
自身で塗ったものとは思えないほど、ぞっとする闇の色だった。
画家は塗りつぶした絵を、二度とは見れなかった。
壁に後向きに立てかけ、何枚かごとに、裏庭で燃やした。

 画家の家はいつも、煙と灰の匂いがしていた。
色あるすべてが、灰色になっていった。
燃え残りの灰が、草木の養分になることだけが、救いだった。



 ある朝。
画家は、焦点の合わない眼で、朝日に反射するキャンバスを見ていた。
そして気がついたのだ、その白の美しさに。
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
ここに何かを描き出す必要があっただろうか。
そこにあるものをそっくり映しとって、何の意味がある?


 美しいものは、それ自体で、充分美しいのだ。
自分などが手をふれて、台無しにしてしまうくらいなら、すべて一切、やめてしまおう。
そこにそれがある、その事実に、変わりはない。


 それから画家は、絵を描かなくなった。
かわりに、白を愛した。
キャンバスは、いつでも白いままだった。
ときおり、水を含ませた筆で光をなぞった。
水の木や、水の空や、水の花を描いた。
それは画家だけに見える、一瞬の風景画だった。
しばらく痕を残すが、すぐに乾いて見えなくなった。



 夕日が沈む。

画家は、白く汚れなきキャンバスを前に、深く安堵する。
それから、すべすべしたビロードで包みこむ。

 夜の闇は、きみには危険なのだから。


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