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骨が鳴る


こきり、と骨が鳴った。首をゆっくりと反対側に倒すと、こきり、ともう一度小気味良い音がした。かつての恋人は僕のこの癖を嫌がったものだった。
煙草を一日中吸っていた彼女はどうしているだろうか、と僕は思った。肺癌にでもなっていないといいが。彼女とは一年前に別れたきり会っていない。

ふと外を見ると、雨粒が窓ガラスを叩き始めていた。六月は雨ばかりで、湿気が多くて嫌になる。
僕は左手をぐっと握り、右手でそれを包むように押さえつけた。ぽき、ぽき、ぽきり。指の骨が小気味よく鳴った。音はそのまま薄暗い部屋に煙のように広がり、ふっと消えた。曇った窓の外では、赤い雨合羽を来た少女がバスを待っていた。

僕は窓から目を離し、黒猫に餌をやるために隣の部屋に向かった。旅行に出掛けた友人から預かっているその猫は、僕に少しも懐かず、部屋の隅でか細く鳴いてばかりでいる。

餌を警戒した目つきで眺め回す猫の横で、僕は自分のためにコーヒーを入れた。コポコポと音がして、香ばしい液体がポットへ落ちていった。その時、玄関でがさりと音がした。友人が早めに旅行から戻ってきたのだろうか。

僕はやれやれと首を捻ったが、骨は鳴らなかった。僕は玄関へ向かう扉を開けた。薄暗い玄関には、ぼんやりと人影があった。玄関扉のすぐ横の採光窓で逆光になり、人影は塗り潰されたように真っ黒に見えた。僕はその顔を見ようと近寄った。

次の瞬間、衝撃と共に胸が焼けるように熱くなり、僕は床に背中から倒れ込んだ。ゴツリと頭部が打ち付けられる音がした。薄れていく視界の中で僕は確かに相手の顔を見た。

僕は足の指に力を込めた。ぽきり、と骨が鳴る音がした。

ぽきり、ぽきり。



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兄はここでは名の知れた文筆家だった。洒落たアパートに暮らし、コーヒーを飲んで物憂げなため息を吐き、優雅な暮らしをしていた。親戚の集まりに顔も出さず、一緒に暮らしていた時でさえ俺を俗物と軽蔑した。

ある時俺が金を預けていた会社が夜逃げした。会社の船が沈んだらしい。俺は多額の借金を抱えた。妻は俺を詰り、このままでは一家もろとも路頭に迷うと嘆いた。俺は兄に一生の頼みだ、と金の無心をした。兄はそれを鼻で笑った。身から出た錆だ、都合のいい時だけ頼らないでくれよ。

その時俺の脳裏に浮かんだのは、どうしてか兄の部屋で埃を被った金のメダルだった。兄の十歳の誕生日にお袋が買ったものだった。俺はそれがあんまりに羨ましくて、少しでいいから貸してくれと何度も頼みこんだ。兄は対して気に入ってもいないだろうに、頑として首を縦に振らなかった。自分で買えばいいだろう、と冷たい目で吐き捨てた。

家に借金取りが押しかけた日、俺は金物屋へ足を向けた。店長から一番よく切れる包丁を勧めてもらい、ツケ払いで買った。

次の日の朝、俺は昔の手紙を漁り、兄の住所を割り出した。全てが滞りなくすすんだ。バスに乗って兄のアパートの二つ前のバス停で降りる頃、雨がぽつりぽつりと降りだした。俺はそばの売店で黒い傘を買った。顔が一層隠しやすくなり、天が自分に味方しているぞ、と俺は傘の下で微笑んだ。

玄関前で鉢合わせた兄は、昔と少しも変わらず、澄ましたなりをしていた。俺は怪訝そうに近づく彼の胸に包丁を突き立て、力一杯押した。彼は後ろ向きに倒れた。ゴツリと頭部が打ち付けられる音がした。兄は何が起こったか分からない、という顔をして俺を見た。

ぽきり、という小さな音が聞こえた。ぽきり、ぽきり。それを最後に、兄は目を開いたまま静かになった。磨き上げられた床に赤黒い血だまりがゆっくりと広がっていった。

俺は財布の中身、そこら中に放ってある現金、金目のものをみなポケットに入れた。隣室で黒猫がにゃあにゃあとか細く鳴いていた。後で飲むつもりだったのか、テーブルの上には湯気の立つコーヒーポットが置かれていた。曇った窓の外では、赤い雨合羽を来た少女がバスを待っていた。
それから俺は湿った雨の匂いのするその部屋を後にした。外に出ると雨は激しさを増しており、俺は黒い傘を差して通りを渡った。


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次の土曜も朝から雨が降っていた。俺は妻と連れ立ち、あの黒い傘を差して葬式に出向いた。お袋は泣き崩れ、人々はひそひそと事件の話をした。俺は黙って窓に打ち付ける雨を見ていた。陰気な日だった。

薄暗い葬儀場から出ると、雨の降る六月の正午は目に眩しかった。人々は傘を差して帰っていき、近しい家族だけが車で火葬場に向かった。車すらも真っ黒に塗られており、俺はあの猫はどうしただろうかと思った。

灰色の雨空にもくもくと煙を出す煙突の下で、兄は焼かれて骨になった。お袋は箸で大きい骨を拾い上げ、壺に入れた。妻に促され、俺も仕方なく横に座り、箸で骨を拾い上げた。俺が拾う骨はみな脆く、つまむとぽきりと柔く折れた。小さな壺に収まった兄を見て、家族は皆泣いた。俺も目を瞑り、泣いているそぶりをした。目蓋の裏の暗闇はどこまでも暗かった。


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次の朝もまた雨が降っていた。会社に行くバスで眠りこけた俺は、ふと微睡の中であの音を聞いた。ぽきり。骨が鳴る音だった。ぽきり、ぽきり。どこから聞こえているか分からない音は、俺の両肩に重くのし掛かった。

飛び起きると、音は止んでいた。俺はバス停を二つも寝過ごしていた。

会社の同僚が、俺に陽気に話しかけてくる。
「よう、聞いたか。町外れで有名な作家が殺されたんだと。出版社が懸賞金をかけて犯人を探してる。なんでも連載途中の新聞小説で大損くらったんだそうだ」
そうか、と俺は曖昧に相槌を打った。横から別の同僚が口を挟む。
「絶対女絡みだよ、そういうのは。作家先生は女遊びが激しいと昔っから相場は決まってる」
俺は逃げるようにその場を後にした。

その晩もよく眠れなかった。夢の中で何匹も猫が喧嘩をし、にゃあにゃあと泣き喚いていた。俺は辺りがまだ薄暗い内に目を覚まし、煙草に火をつけて窓辺で一服した。雨は降っていなかった。
その時、また背後から聞き覚えのある音がした。ぽきり。骨が鳴る音だった。俺はぞっと寒気を感じて振り返った。ただ薄暗い部屋があるだけだった。何の変哲もない、馴染みのある俺の部屋だった。

次にその音が聞こえたのは、会社の資料室で書類を探している時だった。部屋には俺以外誰もいなかった。俺は無心で書類をめくった。
突然静寂を破り、背後から、ぱきり、と聞こえた。俺はゆっくりと振り返った。やはり、何の変哲もない灰色の資料室が広がっているだけだった。俺は首を振った。
疲れているんだ。今日は早く帰って酒でも飲んで早く寝てしまおう。


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ぽき、ぽき、ぽきり。

ぽきり。



俺は狂ったようになって、家を飛び出した。通りをゆく人を押し除け、突き飛ばし、必死に走った。背後からは変わらずあの音が聞こえる。ぽきり、ぽきり。ひっそりと俺の後をついてくる音は、決して俺を離そうとはしない。
誰かに見られていたのか、いや、猫だ、猫が全部悪いと俺は思う。黒い猫なんぞみんなひっ捕まえて燃やしちまえばいい。

その時、通りの反対側のバス停に、赤い路線バスが停まっているのが目に入った。
助かった。あれに乗って家に帰ろう。帰って嫁を抱いて酒を飲んで寝てしまおう。


俺は通りを無我夢中で走り、次の瞬間猛スピードでやってきた路面電車に跳ね飛ばされた。

激痛に眩む世界で最後に聞いたのは、俺の骨が車輪に踏み潰され、巻き込まれ、ぽきり、ぽきりと折れていく音だった。





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