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When You Were A Dog

犬みたいな感じだったのよ、と彼女が言う。それで私も想像する。薄暗い部屋にいる、白い小さな犬を。 犬はお腹を空かせている。細い尻尾をぱたぱたと振る。飼い主のそばによっていって、上目遣いで見上げる。愛をください、飼い主は笑って、冗談みたいに餌をくれる。愛にとてもよく似ていて、だけどぜんぜん違うもの。 犬はそれを喜んで食べる。お腹が空いているから。そうして少し元気になって、ぱたぱたと動き回る。暗い部屋の中を。そのうち飼い主が起き上がって、冗談みたいに犬を殴る。犬はキャンと鳴いて

    • 覚え書き

      あなたは今ここで、この画面を見ている。あなたの水晶体が光を集めて、網膜に当たった光は小さな電気信号になる。イオンが細胞を出たり入ったりして、シナプスの間を神経物質が流れていき、身体中で化学反応が起きている。あなたの小さな体は今もばちばちと光っている。そうやってあなたはこれを読んでいる。そうやってこの文章もいつか書かれた。 あなたが生まれた日から、運が良ければあなたは100年より長く生きる。次の世紀を見られるかもしれない。だけどどうしたって死ぬ。先のことは分からなくとも、それ

      • 溢れないように

        「悲しくないと書けない」と彼女は言う。好きな人と付き合い始め、仕事も上手くいっている。もう悲しくない。だから文章が書けないと彼女は言う。 「それなら、書かなくていいんじゃないの」その言葉を飲み込む。代わりに彼女の次の言葉を待つ。 「私が一等悲しかった頃、書くことしかできなかった。書かなくなったら、私が私じゃなくなるみたいで怖い」 彼女はテーブルを見つめたまま呟く。私は頷く。彼女に見えていないのは分かっているけれど、頷く。私は、彼女が悲しくないことの方がずっと重要だと思う。

        • 望郷

          違う国の大学寮の一室に住んでいる。一人で歯を磨いて目覚ましをかけてぬいぐるみを抱いて寝る。人々が異国の言葉で仲良くなったり恋人をつくったり喧嘩をしたりしているのを眺める。私も異国の言葉で友達を作ってときどき喧嘩をして泣いたりする。 それでも夢を見る。私が選ばなかった全てのものの夢を見る。それは例えば私の故郷の海であったり、地下鉄であったり、高校の制服を着た友達であったりする。あるいは家族や、兄弟や、自分の国の言葉で友達を作って喧嘩をする生活であったりもする。 ここにはその

        When You Were A Dog

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          35本

        記事

          生きている

          また一年が経った。言葉もないような寒く孤独な冬が過ぎて、春になり、夏が来た。また季節が巡った。ちっぽけだった私はちっぽけなまま二十歳を迎えてしまった。 時間に追われ、睡眠を削り、ただ理想像と現実を埋めるためだけに走った。苦笑いでごまかし、失敗を憂い、時々どうしようもなくなって泣いたりした。一年が過ぎてしまった。 ちっぽけなままここに座って、キーボードを打ち続けている。私はこの場所で何を見て、何を知ったのだろうか。なにも、と私が言う。何も気付けないまま、何も見えないまま、無様

          生きている

          手放す

          フォルダを整理していて、元恋人との動画が出てきた。二人ともそれは楽しそうに、それはもうくだらないことに声を上げて笑っていた。夏の気配が満ちる芝生の上で、日の照りつける駐車場を歩きながら、海辺で、ホテルの一室で、山の中腹の展望台で。二人だけの暗黙の了解のようになった掛け合い、笑い過ぎて揺れるカメラ、私はぼうっとなってそれを見た。 あなたも私もあんまりいい顔で笑うから、もう大丈夫になってしまった。なんだ、私こんなに幸せそうだったんだ、と思った。関係を終わらせる時にはいつだって大

          手放す

          見るとは微かに愛することであり、

          高校一年の冬、よく晴れた日の午後だった。最寄駅の本屋である詩集を見つけた。一編の詩が目に留まった。雪の降る描写が淡々と続く詩だった。 雪が降っている、 とおくを。 ・・・ それから、 日が暮れかかる、 それから、 喇叭(らっぱ)がきこえる。 それから、 雪が降ってゐる、 なほも。 詩は突然終わり、私はその本をそっと閉じた。それから目を瞑った。瞼の裏にまだ雪が降っていた。私はマフラーを巻き直して歩き始めた。 その詩を読んだ日から、私のずっと深いところで雪

          見るとは微かに愛することであり、

          また一つあなたを忘れる 後編

          昨夜私は十年ぶりに街に戻った。街には昔と同じように雪が降っていた。 私はどうしてこの街に戻ったのだろうか。降る雪に乱される切れ切れの思考で考える。 きっと私は確かめたかったのだ。私のことを覚えている人がまだいるのか。誰かまだここで冬と闘っているのか。 私は街を練り歩き、宿を変え、思い出の場所を巡った。幼い弟と手を繋いで歩いた丘。泊まり込んだ学校。夏になるたび硬貨を握り締めて向かったジェラート屋。遠い街の画家に手紙を出した郵便局。街で一番美味しいパン屋。目の覚めるようなエメラ

          また一つあなたを忘れる 後編

          ノックは二回 

          その晩、窓がノックされた。コンコン、とはっきりと音が響いた。電気も点けずにぼんやりしていた僕ははっと窓を振り向いた。子供部屋には小さなベランダがあり、女の子がそこに立ってひらひらと手を振っていた。 僕は心臓がばくばくと鳴り始めるのを感じた。夢かと思った。それから、こんなに鮮明な夢があるはずないと思い直した。 女の子は朗らかに笑っている。早く開けてよ、と言いたげな素振りで女の子は鍵を指差す。 僕はなんだか怖がる気持ちも無くなって、窓に近づいてガチャリと鍵を外した。 女の子は窓

          ノックは二回 

          骨が鳴る

          こきり、と骨が鳴った。首をゆっくりと反対側に倒すと、こきり、ともう一度小気味良い音がした。かつての恋人は僕のこの癖を嫌がったものだった。 煙草を一日中吸っていた彼女はどうしているだろうか、と僕は思った。肺癌にでもなっていないといいが。彼女とは一年前に別れたきり会っていない。 ふと外を見ると、雨粒が窓ガラスを叩き始めていた。六月は雨ばかりで、湿気が多くて嫌になる。 僕は左手をぐっと握り、右手でそれを包むように押さえつけた。ぽき、ぽき、ぽきり。指の骨が小気味よく鳴った。音はその

          骨が鳴る

          夜の犬

          その犬は夜を喰って生きていた。鼻先を宙に向け、生暖かい空気を嗅ぎ、ばくばくと口を動かして夜を喰っていた。黒目はしんとして艶めき、鋭い牙の間からは血のように赤い舌がちろりと見えた。彼は夜と生きていた。 その犬は鋭い孤独を身に馴染ませていた。薄汚れた白い毛を闇夜に逆立て、彼だけの生を生きていた。恐ろしくも悲しくもなかった。ただ身を削るような孤独とひりひりとした生の感触が纏わりついて離れなかった。その慣れ親しんだ痛みに彼は身震いした。 夜は真夜中に向けてその闇を濃くし、夜明けに

          夜の犬

          また一つあなたを忘れる 前編

          雪が外の地面を白く染めていく。私は寝過ぎて痛む頭で、ぼんやりとそれを眺めた。 「雪が降ると、何かを一つ忘れる」 私が生まれ育った街の言い伝えだった。私はあの街を愛して、憎んで、もう二度と帰ってこないつもりで飛び出した。それなのにまたこの雪の降る街に引き寄せられた。 祖母は雪が降る度に何かを忘れ、そうして何もかも忘れて死んでいった。それでも最後まで夫のことは忘れなかった。優しく微笑むように眠るその顔を見て、祖母はこの街の人なんだと実感した。祖父も、母も、弟も皆この街の人だっ

          また一つあなたを忘れる 前編

          Wish we'd met earlier,

          夢を見ていた。 空は茜色に染まっており、幼い私は草原に座ってそれを眺めていた。秋の涼しい風が私の前髪をふわりと浮かせた。辺りは虫の声と草のこすれる音で満ちていた。背後には鬱蒼とした森が繁っていた。とても寂しい場所だった。私はそこに座って一生懸命何かを考えていた。 がさり、がさり。背後で草をかき分ける音がした。振り返ると、一人の男の子が立っていた。男の子は私を見て微笑んだ。私も微笑み返した。私は立ち上がり、乾いた草を踏んで男の子に近づいた。男の子は手を差し出した。熱く、柔らか

          Wish we'd met earlier,

          永遠に出されない手紙

          拝啓 お元気ですか。私は元気です。 愛してるの意味が分からなくなって随分経ちますね。あなたは今どこで何をしていますか。 あなたと飲んだサイダーの味が忘れられません。きっともうあなたは忘れているのでしょうね。堤防の上に置き忘れた瓶が、砕けて海に洗われていればいいと思います。 蝉時雨に包まれる季節になると、あなたのことを考えてしまいます。幸せや暖かさは振り返ってみないと気づけないのでしょう。 お元気ですか。私は元気です。どうか幸せになってください。 敬具

          永遠に出されない手紙

          夜明けの鍵

          朝焼けがどうしても見たくて、車のキーをポケットに入れた。クーラーが効きすぎた一人の部屋では、私以外みんな死んでいる。あの人が脱ぎ捨てていった服だけが、まだ生き物の暖かさを残していた。冷め切ってしまう前に、新しい日を見に行かなきゃ。 夜明け前の浜に腰を下ろすと、砂はほんのりと暖かかった。それだけで縮こまっていた心が解けた。目を瞑ると、身体が潮の音で満たされていく。寄せては返す音、まるで心臓の鼓動のようで、私はじっと耳を澄ませる。 水平線が白く発光する。夜空を染めていた黒が濃

          夜明けの鍵

          あなたもそこで息をして

          夜景のどこが好きなの。屋上のガラスに張り付いて、夜の街を見つめる私に彼は聞いた。 一つひとつの光が誰かにとって意味を持っているところ、と私は答えた。 自分から見た世界は一つで、この無数の光は私にとっては何の意味も無い。けれど、あの光は誰かが帰り道寄るスーパーの明かりかもしれないし、マンションの踊り場の電灯かもしれない。それを見て毎日安心したり、悲しくなったり、嬉しくなったりする人がいる。そう思うとき、自分の世界の中には、誰かの無数の生活が存在していると感じられる。私は自分

          あなたもそこで息をして