見出し画像

溢れないように

「悲しくないと書けない」と彼女は言う。好きな人と付き合い始め、仕事も上手くいっている。もう悲しくない。だから文章が書けないと彼女は言う。

「それなら、書かなくていいんじゃないの」その言葉を飲み込む。代わりに彼女の次の言葉を待つ。

「私が一等悲しかった頃、書くことしかできなかった。書かなくなったら、私が私じゃなくなるみたいで怖い」
彼女はテーブルを見つめたまま呟く。私は頷く。彼女に見えていないのは分かっているけれど、頷く。私は、彼女が悲しくないことの方がずっと重要だと思う。言葉を綴れるかどうかより。それでも、

「あなたの心の中にこんな湖があって」
私は紙ナプキンに楕円形を描く。
「そこから悲しみが溢れる度に、あなたは書く」
彼女はその絵を見つめる。小さな楕円形。彼女の悲しみの湖。
「だから、書かなくなっても、湖はある。静かに凪いで、あなたの気持ちが流れ込んでくるのを待っている」

「そういう事にしたらどうかな」
私は迷いながらそう結ぶ。彼女は目を離さないまま聞く。
「その湖、深い?」
「深いとも。底の見えないくらい」

彼女が少し微笑む。それを見て私も嬉しくなる。私の心の中にも湖があって、彼女が笑うたび細波が立つ。音さえ飲み込むような、深い、しんとした湖に、波紋が広がっていく。

彼女の向かいに座って、私も微笑む。湖を抱えて笑う。

サポートありがとうございます!