見出し画像

Wish we'd met earlier,

夢を見ていた。
空は茜色に染まっており、幼い私は草原に座ってそれを眺めていた。秋の涼しい風が私の前髪をふわりと浮かせた。辺りは虫の声と草のこすれる音で満ちていた。背後には鬱蒼とした森が繁っていた。とても寂しい場所だった。私はそこに座って一生懸命何かを考えていた。

がさり、がさり。背後で草をかき分ける音がした。振り返ると、一人の男の子が立っていた。男の子は私を見て微笑んだ。私も微笑み返した。私は立ち上がり、乾いた草を踏んで男の子に近づいた。男の子は手を差し出した。熱く、柔らかい手だった。私たちは手を繋ぎ、背後の森に入って行った。

森の中は薄暗く、奇妙にまがった木々が立ち並んでいた。私は怖くなって男の子の手をぎゅっと握った。木のうろが人の顔のように見えた。目が合うと、うろは不気味に微笑んだ。木々は葉を揺らして、しきりに何かを囁いていた。私がそれを言うと、男の子は怖い顔をした。
「木の声を聞いてはだめ。帰れなくなるよ」
その瞬間、木々たちは一斉に囁いた。
「どこへ?」「どこへ?」「どこへ?」

男の子は私の手を引いて木々の間を走り出した。薄暗い地面のあちらこちらに木の根が盛り上がっていて、走りながら何度も足を取られそうになる。二人の足音は、一つになったり三つになったりして、まるで誰かがひっそりと後を追ってきているようだった。どこからか笑い声が聞こえた。

息が上がってきた頃、前方に開けた明るい場所が見えた。そこは丸い切り株だらけの広場だった。切り株の一つには黒いマントのフードを被った人がひっそりと座っていた。男の子はぱっと足を止めた。

その人はフードを下げ、こちらを見た。現れた老婆の顔は、見覚えのあるものだった。奇妙に胸がざわざわとした。老婆はゆっくりと手を上げ、曲がった人差し指で私たちを指した。
「逃げられないよ、お前たちは」
老婆の声はしわがれ、重々しく、まるで決して避けられない予言のようだった。男の子が私の手をぎゅっと握った。その横顔はひどく強張っていた。私は手を握り返し、そして叫んだ。
「そんなことない!」

老婆はふっと笑った。それから瞬きのうちに消えた。私たちはしばしそこに立ち尽くした。森は一瞬しんと静まりかえり、それからまた囁き出した。
「ほんとに?」「ほんとに?」「ほんとに?」
私たちはまた駆け出した。老婆が私たちの後ろ姿ををずっと見つめているような気がした。

やがて視界が急に開けた。森の終わりだった。先にはまた別の草原が広がっていた。木々の囁き声が完全に聞こえなくなってから、私は足を止め、手を離した。私たちは肩で息をしながら、顔を見合わせ、にっこりと笑った。安心が胸の内で大きく膨らんだ。

男の子は弾んだ声で言った。
「この草原のずっと向こうにはね、港があるんだ。僕たち船に乗ってどこまでも行ける」
それはひどく魅惑的な響きを持っていた。私は大きく頷いて、それから思った。
どこまでもって、私たちどこまで行くんだろう。

草原を歩き続けると、農家がぽつりぽつりと見え始め、やがて村に行き着いた。村は人気が無かった。井戸端には、たった今まで誰かがいたかのように水瓶が取り残されていた。金物屋の屋台車が道脇に置かれていたが、屋台主はいないようだった。どこからか鶏の鳴く声がした。秋風が一瞬鋭く吹き、風見鶏がくるくると回った。私たちはきょろきょろと辺りを見回し、村の真ん中の広い道を降って行った。

扉の閉まる音がした。一瞬の静寂の後、赤ん坊の泣き声が途切れ途切れに聞こえ始めた。低い話し声が密やかに続いている。私は男の子の袖を引いた。私たちは立ち止まって耳を済ませた。けれど、音はただ空から落ちてきているようで、出どころは分からなかった。男の子は呟く。
「大丈夫だよ。ここに住んでいた人の記憶だ」

ふと何かに呼ばれた気がして、私はふいと横に視線をずらした。それは道脇の煉瓦造りの家だった。窓には黒いカーテンがかかっていて、中の様子は見えない。私は近寄り、重たい石の扉を押した。扉は軋みながら開いた。男の子が肩越しに部屋の中を覗き込む。
中には女の子が座っていた。

女の子は私だった。正確に言えば、もう少し幼い頃の私だった。女の子はしゃがんだまま、上目遣いにこちらを見た。黒く奥行きのある瞳だった。小さな口と、ツンとした鼻が可愛らしかった。どうしたの、と私はゆっくりと聞いた。女の子は小さい声で言った。お母さんを待ってるの。

その時、小さな違和感が胸をよぎった。何かが焦げるような匂いが鼻先を掠める。男の子が通りの先、歩いて来た方を振り返った。小さく見える家々が勢いよく炎を上げて燃え盛っていた。濁った白い煙がもくもくと空へ立ち上っている。火事だった。

風はこちらに向かって吹いていて、焦げ臭い匂いを運んできた。炎は遠方で生き物のようにゆっくりと家を飲み込んでいる。早く行こう、と男の子は言う。幼い私は首を振った。お母さん、待ってなきゃいけないの。お母さんは後で探そう、と私は言った。女の子は黙ったままだった。逃げなきゃ、と私は畳みかけた。女の子は口をぎゅっと結んで黙っていた。私たちの言葉に、幼い私は頑として首を縦に降らなかった。空気が熱くなる。煤っぽい煙が流れてきて、視界が悪くなる。炎が近づいてきた。

私は跪き、女の子と視線を合わせた。そして言い聞かせるように言った。
「お母さんね、もう迎えにこないのよ」
女の子の黒い瞳にみるみる涙が盛り上がった。
「そんなことない!」
女の子は私と同じ声で叫んだ。私は黙って女の子を見つめた。

男の子が叫ぶ。もう時間切れだ。そして後ろから私の腕を引く。よろめくように立ち上がった私の前で、石造りの扉は音を立てて閉まった。男の子は私の手を引いて、炎とは逆方向に走り出した。埃っぽい道を一目散に駆けながら、男の子は言う。
「振り返っちゃだめ!」
けれど私は何かに引っ張られるように振り返る。幼い私を残してきた家は、いままさに炎に飲み込まれようとしていた。私は前に向き直った。今見た光景が目に焼きついていた。心臓がばくばくと音を立てていた。煙にやられて目も喉も痛んだまま、私たちは走り続けた。

村はずれの門をくぐると、見晴らしのよい丘のようになっていた。二人はそこで足を止めた。下にはずっと山道が続いていて、その先の街も遠くに見える。二人は手を繋いだまま、息を切らして、眼下の光景を茫然と眺めた。

長い沈黙の後、男の子は向き直り、黙ってTシャツのそでで私の頬をぬぐった。男の子の顔も煤まみれだった。男の子は真剣な顔をしていて、その茶色がかった瞳がひどく美しかった。私は黙って顔を拭いてもらいながら泣いた。瞳が熱くなって、涙は後から後から湧いてきた。助けられなかった、と私は言った。男の子は何も言わず、涙を煤と一緒に拭いてくれた。拭っても拭っても涙は止まらなかった。

やがて二人はまた手を繋ぎ、山道を降り始めた。泣きすぎたせいか頭がすっきりと軽かった。男の子は低い声で知らない歌を歌い始めた。異国の言葉だった。子守唄のような調子に、心がしんとしていった。胸をかきむしりたくなるほど懐かしかった。気がつけば私もその知らない歌を口ずさんでいた。声と声が混ざり合って夕方の空気に溶けていく。
そういえばここはいつまで経っても夜にならないな、と私は思った。空は先刻と寸分も変わらずに茜色だった。

道はどんどん広く緩やかになり、やがて広い野原に行き着いた。原の所々には石造りの建物の基礎が残っていて、草に埋もれていた。
「失われた王国」
私は呟いた。ここに昔来たことがある気がした。男の子は瞳を陰らせた。冷たい風がざっと吹き、雲が勢いよく空を流れていった。夕方の匂いがした。遺跡の合間を抜い、私たちは野原の真ん中に行き着いた。子供の背丈くらいのぼろぼろの石柱が草の中に立っていた。男の子は屈み、草の中から何かを拾い上げた。それは幅広い石造りの腕輪の欠片だった。

男の子の顔がさっと青ざめた。一瞬目を見張った男の子は、そのままよろよろとしゃがみ込む。頭を抱えるその手から、腕輪がぽとりと落ちた。私は恐る恐る手を伸ばし、その輪に触れる。その瞬間、誰かの叫び声が頭の中で鳴り響いた。幼い日の男の子の声だった。声はぐるぐると反響し、頭が割れるように痛む。視界が歪み、地面の感覚がなくなる。血管がずきずきと脈打つ。私は弾かれたように手を離した。

私は立ち竦んだまま、腕に顔を埋めた男の子を見つめた。風が二人の間を通り過ぎて行った。
「大丈夫だよ」
長い静寂の後、私は言った。男の子は顔を上げた。その瞳はいつもと変わらず茶色く美しかった。
私は一拍置いて、それから息を大きく吸ってもう一度言った。
「大丈夫」

私は手を差し出した。男の子はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。二人は手を繋いだまま、石柱の横を通り過ぎた。足元に転がる石輪のことは二人とも口にしなかった。あちらこちらに散らばる石の遺跡を横目に、私は歩き続けた。空は先ほどと寸分も変わらなかった。

野原の外れの石造りの井戸は、古びていたがまだ使えるようだった。私たちは交代で硬いレバーを押した。ギィギィと耳障りな音を立てながら、手押しポンプは水を組み上げた。私たちは蛇口から流れ出る冷たい澄んだ水を手に受け、乾いた喉を潤した。水が体の隅々まで行き渡るような気がした。男の子は顔をざぶざぶと洗い、こちらを見上げて笑った。私もつられて笑った。それから私たちは濡れた手を繋ぎ、野原から出る緩やかな道を降って行った。夕方の風が顔に涼しかった。

道を降りきると、そこはもう街のはずれだった。街は村の様子とは打って変わって賑やかだった。魚を売る屋台、骨董市、花売り、靴磨き、それらのお客で大通りは混雑していた。
はぐれないようにね、と男の子は手をぎゅっと握った。私は頷いた。どこからか船の汽笛が聞こえた。物悲しいようなその音が、一瞬雑踏を行き交う人々の喧騒を圧倒した。私は男の子に尋ねた。
「船に乗って、どこに行くの」
男の子はすぐさま答えた。
「どこにだって行けるさ」
それから一拍置いて付け足した。
「香辛料の沢山取れる遠い国や、一年中日の沈まない氷の大陸や、狼たちが遠吠えする世界一高い山の奥深くだって。どこにだって行ける」

私は黙って続きを待った。けれど男の子はそれきり口を開かなかった。街の上空を燃えるような夕焼けが染めていた。長い沈黙の後、私は言った。
「どこへでも行けるのは、どこにも行けないのと同じだね」
男の子はぱっとこっちを見た。二人は黙ってお互いを見つめた。随分長いこと、二人はそうしていた。やがて男の子は前に向き直り、視線を下に落とした。石畳がどこまでも続いていた。

「家を探そうかな、ここで」
男の子は言った。私は頷いた。二人ともそれが無理なのは分かっていた。子供で、お金も身寄りもなく、世界にたった二人だけ。今夜泊まる場所さえない。日が沈まない街で、私たちはただ手を繋いで歩き続けている。子供はいつだってあまりにも無力だ。私は男の子の耳に口を近づけて、囁いた。

「ねえ私たち、こうやって一緒に逃げたかったね」

泣き笑いのような表情を浮かべた男の子は、瞬きの間に見慣れた二十過ぎの青年に戻った。彼の瞳に映る私も同い年の女性になっていた。周りの景色が急速にぼやけ始め、喧騒が遠ざかる。どこかでまた汽笛が聞こえた。物悲しいその音色に被せるように、青年は言った。
「でも、生きててくれてよかった」
「あなたも」と私は言った。私たち、生きて会えて本当によかった。そう思うと同時に、私の意識は薄暗い闇の中に沈んでいった。



「ねえ、起きて」
柔らかい声と私を揺する手が私の意識を引っ張り上げた。目を開けると見慣れた恋人が覗き込んでいた。茶色がかった瞳は昔と同じように美しかった。
「夕食前に起こしてって言ってただろ」と恋人は言う。私はありがとう、と微笑んで告げる。
「夢を見てたの」

どんな夢、と聞く彼には答えず、私は尋ねる。
「ねえ、もしどこでも行けるとしたら、香辛料の沢山取れる遠い国や、一年中日の沈まない氷の大陸や、狼たちが遠吠えする世界一高い山の奥深くでも、本当にどこにでも行けるとしたら、どこに行きたい?」

彼は少し考えて、答えた。
「この家かな。君と一緒にいるこの家が一番だ」
私は微笑んだ。私たちは正しい場所にたどり着いたのだ。















サポートありがとうございます!