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夜の犬


その犬は夜を喰って生きていた。鼻先を宙に向け、生暖かい空気を嗅ぎ、ばくばくと口を動かして夜を喰っていた。黒目はしんとして艶めき、鋭い牙の間からは血のように赤い舌がちろりと見えた。彼は夜と生きていた。


その犬は鋭い孤独を身に馴染ませていた。薄汚れた白い毛を闇夜に逆立て、彼だけの生を生きていた。恐ろしくも悲しくもなかった。ただ身を削るような孤独とひりひりとした生の感触が纏わりついて離れなかった。その慣れ親しんだ痛みに彼は身震いした。

夜は真夜中に向けてその闇を濃くし、夜明けに向かってその闇を溶かした。
その犬は夜明けを恐れた。墨を流したような空が濃紺へ、深い藍色へ、白けた群青へ、ゆっくりと変わっていくのが恐ろしかった。日が昇る前に彼は川沿いの草地をがさがさと歩き、身を休める暗闇を探した。


ある時一人の少女がその犬を見つけた。彼女は暗闇から犬を抱き上げ、家に連れて帰り、薄汚れた体を丁寧に洗った。白色灯で照らされたリビングで、彼は毛を逆立てた。目に映るものすべてが恐ろしかった。少女は彼を優しくなでた。


少女はその犬を大切に世話した。綺麗な赤い首輪をつけてやり、山盛りの餌を皿に出してやった。彼が遊べるように、ボールや音の鳴るぬいぐるみを沢山買ってきた。犬はふかふかのマットレスの上で眠った。
空気清浄機の微かな振動音と冷蔵庫の立てる音以外は、何も聞こえなかった。白く綺麗な部屋だった。


ある日その犬は自分がひどく乾いていることに気がついた。どれほど水を飲んでも、内側の焼けつくような乾きはちっとも癒えなかった。犬は自分の尻尾を噛もうとぐるぐると回った。毛を噛みちぎっては空に投げた。
真っ白な毛は、綿毛のようにゆっくりと落ちていった。


少女は犬をひどく心配した。彼を長いこと車に載せて病院に連れて行き、首の周りに立派なカラーをつけた。これでもう大丈夫ね、と少女は犬の頭を撫でた。

その晩犬はマットレスに丸くなり、静かに目を閉じた。まぶたの裏に懐かしい夜空が見えた。彼はいつの間にか外にいて、生暖かい夏の夜の空気を嗅いでいた。心臓がどくどくと脈を打った。足の裏に感じるざらざらとしたアスファルトすら心地よかった。彼は息をすっと吐いた。戻ってきた、と思った。

それから犬は思いっきり闇夜を駆けた。全てを振り切るように、口から漏れた息すら後に残してひたすら駆けた。体を覆い尽くすような闇と、ざわざわと揺れる草と、遠くで静かに流れる真っ黒な川と、全てが身に馴染んで美しかった。時折彼は足を止め、口を大きく開けて夜を喰った。鮮やかな舌が涼しい夜の空気をかき混ぜた。彼は独りで闇を見つめた。ひどく美しい夜だった。


翌朝少女はマットレスの上で動かなくなった犬を見つけた。少女は涙を流して悲しんだ。冷たくなった犬を車に載せて長いこと走らせ、彼女は犬を共同墓地に葬った。きっと寂しくないわよと少女の母親は少女の髪をそっと撫でた。それから少女は墓地を離れ、次第に大好きな犬のことを忘れていった。














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