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ノックは二回 

その晩、窓がノックされた。コンコン、とはっきりと音が響いた。電気も点けずにぼんやりしていた僕ははっと窓を振り向いた。子供部屋には小さなベランダがあり、女の子がそこに立ってひらひらと手を振っていた。

僕は心臓がばくばくと鳴り始めるのを感じた。夢かと思った。それから、こんなに鮮明な夢があるはずないと思い直した。
女の子は朗らかに笑っている。早く開けてよ、と言いたげな素振りで女の子は鍵を指差す。
僕はなんだか怖がる気持ちも無くなって、窓に近づいてガチャリと鍵を外した。
女の子は窓をすいとずらして、ありがとう、と微笑んだ。それからまるで友達の家に遊びに来たように、お邪魔します、と言って窓の桟を乗り越えた。
靴は律儀にベランダに置いてあって、白い靴下を履いた足で女の子は僕の部屋にとんと降りた。

女の子は見慣れない制服を着ていて、背中には茶色い革のリュックを背負っていた。
「シリツの学校に行ってるから制服なの、可愛いでしょ」
女の子は僕の視線に気づいて言う。
「僕もシリツだよ」
僕はかろうじて答えた。壁際にはハンガーに掛かった制服が置いてある。いかにも坊ちゃんという感じの制服が僕は嫌いだった。

何でベランダから来たの、も君は誰、もなんだか馬鹿げて聞こえるので、僕は黙って突っ立っていた。同い年の女の子に馬鹿だと思われるのは、僕ら小学生男子が一番避けたいことだった。
女の子はそんな僕に気づかず、屈託無く聞いた。
「君は誰」
僕はぶっきらぼうに言った。
「石山要」
女の子はにっこり笑った。
「かなめくん、私はゆいか。結ぶのユイに、お花のハナ」
それが僕と結花の出会いだった。

結花は決まって夕方に来た。コンコン、と窓を叩いて薄闇を背後に笑ってみせた。
結花はいつでも来れるのに、僕は結花のとこに行けないのはずるい、と僕は一度言った。結花はキョトンとして、私もいつでも行ける訳じゃないよ、と言った。

結花と僕は、僕の部屋でずっと話をした。部屋から出ることは出来なかった。下の階には両親がいる。
ゲームもお菓子も無かったから、女の子とずっと一緒に遊ぶなんて無理だろうと僕は思っていた。けれど結花は遊びを見つける名人だった。僕らは自由帳に絵を描いたり、物語を作ったり、ベランダに出て遠くを走る車の数を数えたりした。そのうち結花はお手製の人生ゲームを作りだし、その難易度と理不尽さに僕たちは何度も大笑いした。結花はゴール前にこんなコマをいくつも作った。「火事で全財産を失い、一回やすみ」

僕は結花にずっと居て欲しかったけど、結花は僕が眠りに落ちるといつの間にかいなくなってしまう。ベッドに二人で潜り込んで、手を繋いで眠りについても、翌朝僕は一人で目を覚ます。結花のつくる人生ゲームみたいだな、と僕は思う。

結花のいない部屋でのろのろと支度をして、制服を着て、行きたくない学校に行く。教室について、朝の会が始まるまで僕は机に突っ伏して寝たフリをする。

ごっと鈍い音がして僕の机がずれた。顔を上げると、榊原と坂城がこっちを見下ろしてにやにや笑っていた。
「ビンボーニン、学校来んなよ」
榊原が言う。教室は僕らの様子を伺い、ざわざわと揺れる。
「うるせえよ」
僕は目に力を込めて言う。
「こっち見んな、ビンボー菌が移るだろ」
言いながら坂城はワザとらしくのけぞり、騒ぐ。石山のビンボー菌が移ったあ。
それから近くで友達と話していた女子の肩を叩き、石山菌、と笑う。女子は顔をしかめ、ちょっとやめてよ坂城、と言って肩を払う。僕は榊原より坂城よりむしろその反応に傷つく。
石の山にしか住めないビンボーニン、石山くん、と背後から男子たちが節にのせてからかう。

悔しいことや悲しいことがあるたびに、僕は、結花の名前を心の中で呼んだ。ユイカ、という響きに僕はほんのりと安心する。そしてそういう夜には決まって結花が来てくれる。暮れていく空を背後に手を振ってみせる。それで僕はなんだか大丈夫になってしまう。
それでも僕は結花に学校の話をしなかった。いじめられていると知られたら、結花に軽蔑されるかもしれないと思った。結花と話す夕方すら無くなってしまえば、僕は本当に一人ぼっちになってしまう。

春休みに入り、父の転勤で遠い街に引っ越すことになった。隣の隣の県で、ここと同じくらいの大きさの街だった。僕はもうあの大嫌いな学校に通わなくていいんだ、と心の底で安堵した。
私立に通わせようとする両親に、中学受験をするから、と無理を言って公立小学校に通わせてもらうことになった。

一つだけ僕を不安がらせたのは、新しい家だった。家族で下見に行った家の子供部屋には、ベランダはついていなかった。それを見た瞬間、僕は結花が来れない、と思った。早く結花に言わなきゃと僕は焦れた。それなのに結花はなかなか来なかった。
毎晩僕はベランダで遠くの光を眺めながら、結花がどこからともなく現れるのを待っていた。結花が来たらすぐ遊べるように、お手製の人生ゲームを床に引いておいた。それでも結花は来なかった。結花にあげようと思ってつくったガンダム兵士のプラモデルは、机に飾られて動かされないままだった。

引越しの日の晩、僕はベッドに寝転がったまま、結花を待っていた。頑なに来ようとしない結花に僕は怒っていた。
どうして来ないんだよ、僕のこと忘れたのかよ、と僕は子供部屋の暗闇を見つめて何度も繰り返した。厚い羽毛布団は三月の夜には熱く、僕は足で布団を蹴っ飛ばしては寝返りを打った。
夜の闇がゆっくりと引いていった。子供部屋が朝の光で薄明るくなるころ、僕はようやく悟った。結花はもう僕のところに来ないと決めたみたいだ。
僕の知らないところで、何らかの原因で。

転校はあっけなく上手くいった。初日こそ遠巻きに見られていたもの、学校で流行っているマンガを全巻持っている僕は、マンガの貸し借りですんなりと輪に入っていった。僕は誰からも要と呼ばれ、僕を変なあだ名で呼ぶ奴はいなかった。休み時間は机にトレーディングカードを並べ、放課後は校庭でサッカーをした。教室で存在を無視されているのは、僕よりもずっと根暗で貧乏そうな生徒だった。僕は胸を撫で下ろした。

新しい部屋に慣れ、新しい学校に慣れ、僕は結花のことを忘れていった。時折窓ガラスをぼんやりと眺めることはあっても、連日遊びまわっている僕はすぐに眠りに落ちてしまった。
それなのに、ある日の夕方、僕の名を呼ぶ声を確かに聞いた。
「かなめ」
結花の声だった。僕は窓に近づき、外を透かし見た。夕闇が広がっており、その先に遠くの家の光が見えるだけだった。どの街の景色も僕には同じだった。ベランダがあるかないかの方が僕は遥かに重要だった。結花に会いたい、と僕は心底思った。

窓はコトリとも鳴らなかった。それでも僕は長いこと、結花が窓をノックするのを待った。それから僕は引き寄せられるように右手を上げ、窓ガラスをそっとノックした。コンコン、とはっきりとした音が響いた。

僕はいつの間にか見慣れないベランダに立っていた。五月の夜の生暖かい風が髪を揺らした。僕がノックした窓の向こうで、女の子が目を丸くしてこちらを見ていた。結花だった。僕は笑って手を振った。来られた、と思った。
結花は走りより、窓の鍵をガチャンと外した。僕は窓をすいと開けて言った。
「久しぶり」
結花も微笑んだ。
「久しぶり、かなめ。来てくれてありがとう」

僕と結花は久しぶりに向き合って座った。けれど結花はどうして僕を呼んだのか、それは僕と同じ理由なのか、僕は聞けずに黙っていた。代わりに他愛ないことをたくさん喋った。
「結花の部屋も同じくらいの大きさだね、何で来てくれなかったんだよ、パパの仕事で引越しが決まったんだ。学校も変わったけど毎日上手くやれてる、でもベランダがないんだ」
結花は僕の話を熱心に聞いて、頷いたり笑ったりした。

僕は急に言葉を切って、それから結花の話をしてよ、と言った。結花は黙って、それから言った。
「要に会いたかった、だから呼んだの」
「会えたよ」
僕は急いで言った。結花はしばらく黙って床を見た。
「また会いたいな。二人でカードゲームをしたり、家出計画を立てたり、ベランダで星を見たりしたい」
僕は頷いた。それなのにお別れの気配がした。
「でももう子供じゃないから会えないね」
結花は言った。

僕はあれから毎日窓ガラスをノックした。けれど僕は一度も結花の部屋に行けなかった。僕はやがて窓ガラスをノックするのをやめた。それでも風で窓が鳴る度、僕はびくりと窓を振り向いた。

結花ももう大人になっただろう。僕は今でも時折結花、と名前を呼ぶ。僕の名前が同じように彼女の胸を温めてくれることをずっと願っている。

















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