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また一つあなたを忘れる 後編

昨夜私は十年ぶりに街に戻った。街には昔と同じように雪が降っていた。
私はどうしてこの街に戻ったのだろうか。降る雪に乱される切れ切れの思考で考える。
きっと私は確かめたかったのだ。私のことを覚えている人がまだいるのか。誰かまだここで冬と闘っているのか。

私は街を練り歩き、宿を変え、思い出の場所を巡った。幼い弟と手を繋いで歩いた丘。泊まり込んだ学校。夏になるたび硬貨を握り締めて向かったジェラート屋。遠い街の画家に手紙を出した郵便局。街で一番美味しいパン屋。目の覚めるようなエメラルド色の絵具や繊細な筆を売る画材屋。

店主も街ゆく人も、しかし、誰一人私を覚えていないようだった。皆がよそ者を歓迎するように、朗らかに、丁寧に私を迎えた。
最後に私は図書館に辿り着いた。そこは私にとっては忌まわしい場所だった。文字は人の記憶を食う。書き残したものから順に記憶は虫に食われていく。私は本が嫌いだった。

私はしばらくそのギリシア風の正面玄関を眺め、それから踵を返した。ふと背後から、私の名を呼ぶ声がした。私ははっと振り返った。そこには背が伸び、大人になった幼なじみが立っていた。紫苑、と私はその名を呼んだ。彼は昔のように焼き立てのパンの包みを抱え、傘もささずに立っていた。彼はふわりと微笑んで言った。
「おかえり、葵」
彼は手帳など見もせず、私の名前を呼んだ。私の瞳から溢れた涙が、睫毛についた雪を溶かしていった。

紫苑の叔母は偉大な作家だった。叔母は彼の名付け親であり、忙しい両親に代わって彼を育てていた。彼女の死後、皆が彼女を忘れたが、彼女の本はいつまでも読み続けられた。紫苑だけが彼女自身を覚えていた。
叔母が亡くなってから、紫苑は彼女の絵を描いた。自分がいつまでも忘れないように。叔母が愛した人たちが、彼女のことを思い出すように。
叔母の笑った顔、物憂げな横顔、後ろで束ねた髪、耳元に揺れる琥珀色のピアス、彼は叔母の輪郭をなぞり続けた。

紫苑は私を家に招き入れた。家には美術室と同じ大きなガスストーブがあった。私たちはその前に座ってコーヒーを飲み、パンを食べた。そしてぽつぽつと話をした。
紫苑は母校で美術の教師をしていた。私たちのように、冬と闘う生徒が彼の元に集っているそうだった。けれど彼は目をそっと伏せた。
「僕は外には行けなかった。僕はどうしたってこの街の人間だから。でも君はそうじゃなかった。二人で並んで絵を描いている時だって、僕はずっと君がいつかここを離れるって知ってた」
私は黙って彼を見つめた。彼の薄い茶色の髪を見つめた。ここの街の人の色。私にはない美しさ。そうだ、と私は一人頷く。父も昔住み慣れた街を離れてこの街に来た。何より母を愛していたからだ。けれど、年中日の照る故郷が忘れられず、やがて私たちを置いて行ってしまった。人は生まれた街に縛られ続けるのだ。

紫苑は立ち上がり、私をアトリエ部屋に案内した。午後の光が雪に反射し、部屋を柔らかく照らしていた。そこには大小様々な絵が所狭しと並べられていた。
老人、子供、青年、少女、私の知っている人たち、知らない人たち。この街の人々の中で、私はよく見知った顔を見つけた。絵の中で、私はこげ茶の目を細めて笑っていた。今にも語り出しそうに。それから、美術室を背景に熱心に絵を書く真剣な横顔。パンを口に含んでシマリスのようになった頬。降りしきる雪を後ろに振り返る、コートを着た少女時代の私。
私の絵だけ、濃い茶色の絵具で丁寧に着色されていた。紫苑の方を見ると、彼は緩く微笑んでいた。私と絵を見比べ、よく似てる、と切なげに言う。
「ずっと羨ましかったよ、その綺麗な焦げ茶の髪」
私は何も言えなかった。目蓋がまた熱くなった。こんなにも待っていてくれた、と思った。紫苑は、一人でこんなにも待っていてくれた。

絵の中の私を見ながら、ふと、家族はどうしているだろうかと思った。
私の後をついて回る、幼い弟。彼の栗色の髪と瞳が陽光に煌めいて、私はそれを昨日のことのように思い出した。もう二十歳を超えた頃だろうか。
それから、母。彼女はもうきっと私のことをすっかり忘れてしまっただろう。美しいひとだった。
紫苑は黙ってしまった私を見て、優しい声で言った。
「葵の家に寄ろうか。楓に切手を届ける約束をしていたから」
私はその名前を随分久しぶりに聞いて、目頭が熱くなった。楓。秋に生まれた私の弟。楓の名も私と同じように父がつけたものだった。

煉瓦造りのアパートの二階にある私の家は、昔と何も変わらなかった。雪の積もった急な階段を上ると、見覚えのある玄関扉が私を出迎える。私は小さく息を吸って、呼び鈴をならした。カランと乾いた音がした。その音さえ息が詰まるほど聞き覚えがあった。
やがて階段を降りる足音が近づき、それから扉が開いた。背の高い、栗毛の青年が顔を出し、それから私を見て目を見張った。姉ちゃん、と言う声は記憶より低くなっていた。懐かしさが胸いっぱいに溢れた。楓だった。私は聞いた。
「楓、私の名前覚えてる?」
楓は手帳など見もせず、眉をひそめて言った。
「忘れてるとでも思ったの。葵」
その顔が幼い彼の拗ねた顔にそっくりで、私は思わず笑ってしまう。

「母さんは」
と聞く声はやはり震えてしまった。楓は小さく、寝てるよ、と言った。
それから首を振り、静かに付け足した。
「けど多分姉ちゃんのこと覚えてないと思う」
私は大した衝撃も受けずに、そうだろうなと思った。ここの雪は全てを奪っていく。忘れたくない記憶も、大切な人との結びつきも。それを受け入れた人しかここに住めない。
「母さんはこの街の人だからね、仕方ないよ」
私は情けなく笑う。それは違う、と楓の声が遮った。
「俺は覚えてるよ、姉ちゃんのことも父さんのことも。この街の人はみんな何も見ないんだ。ただ楽な方に流されてくだけで」
私はそっと手を伸ばし、自分より高い彼の頭を撫でた。その言葉が彼の冬との闘いを静かに物語っていた。彼もまた生まれた街との繋がりを切れずに揺らいでいた。それが夏の街と冬の街の間に生まれた私たちだった。
「忘れないでくれてありがとう」
私はそっと言う。泣き虫だった楓は泣き出しもせず、黙って唇を噛み締めていた。

私と違って、紫苑も楓も、やはり雪が降ると何かを忘れてしまう。彼らが私を覚えていてくれたのは、彼らが抗い続けたからなのだ。自分の性質を呪い、忘れていく人々に憤り、さよならも告げずに居なくなった私に恨み言を呟いただろう。けれど彼らはきちんと心の隅に私の場所を作っていてくれた。


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やがて私は生まれ育った街を再び後にした。絵具を持って、旅をしながら絵を描いた。夏の絵だけではなく、凍えるように寒く美しい故郷の絵も、燃えるような夕焼けも、深い緑の森も、世界中の絵を描いた。
どの街も皆誰かの故郷だった。誰もが街に縛られ街を愛して街を憎んでいた。
いつか私の絵は積み上がり、一冊の本になり、街角で売られるようになる。やがて画集は船に乗り、列車に積まれ、あの雪降る街に辿り着く。そこにはきっと私や紫苑や楓のような子供たちがいて、硬貨を握りしめて本屋に向かうだろう。
その希望が、故郷から遠く離れた私を灯台の明かりのように照らしていた。




「楓」    … 「大切な思い出」「美しい変化」
「紫苑」 …「追憶」「君を忘れない」






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