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そのまんまで今を生きて/autobiography "HUG" vol.0【kato erika】



心を映すパーソナルストーリー
autobiography "HUG" 

vol.0として私自身のオートバイオグラフィー(自伝)を書いてみました。

autobiography "HUG" とは?

自分らしく生きたいと願う人の「半生」と「想い」を一つのストーリーにした自叙伝(=autobiography)。

どんな人も、どんな人生もすべて素晴らしく、価値がある。
ありのままの姿と人生を称賛し、ギュッと抱きしめる人生讃歌のような物語です。
過去を抱きしめ、自由に未来を描き、等身大の自分で今を生きるためのお守りとして、そして、「共鳴」や「光」を生むきっかけになることを願って。

▼ "HUG"の詳細はこちら


profile
kato erika (カトウ エリカ) 
1990年3月16日
滋賀県大津市出身・京都市在住
HSS型HSPの性質を持ち、集団に馴染めず生きづらい幼少期〜思春期を過ごす。中学生の頃にテレビで観た全日本バレーボールに魅了され、プロスポーツに関わりたいという夢ができたことで人生が加速し始める。大学でスポーツビジネスを学んだのち、生命保険会社を経てプロバスケットボールチームへ入社し、長年の夢を叶える。しかし人間関係の悩みで体調を崩し、1年という短さで夢半ば退職。その後、やりたいこと探しをしながらリクルート、大手不動産会社の人事・広報を経て、2022年1月にフリーランスへ。ライター業を中心に、自然体で生きたい人のきっかけを様々な形で創る活動を行っている。

maegaki


私自身の人生を私自身で描く、濃厚な自叙伝小説がようやく出来上がりました。「想い」の起点を社会生活・家族・恋愛など多角的に散りばめています。
一つの物語としてただ楽しんでいただきたいのはもちろんですが、この物語が様々なフェーズで生きづらいと感じる人にとっての小さな光になればと願って綴りました。


私の日常に、人生に、寄り添ってくれているような一曲とともに。

愛おしくて可笑しな物語の世界へ

Homecomings / Here


erika's autobiography


薄暗い教室の片隅でひとり泣きながら窓の外を見ていた。
無理やり着せられた水着を脱ぎたくて、今すぐ帰りたくて、仕方なかった。
小さく丸まりながら少し震える私の手を握り、先生は必死に説得をしている。
足だけでも浸かろうよ!
みんなで遊んだら楽しいよ?
何も耳には入ってこない。
緊張で胃とお腹が締め付けられるように痛い。
やりたくない。帰りたい。
なんでみんなあんなに笑ってるの?
なんであんなに楽しそうなの?

5歳の私は、悪戯なたくさんの笑顔とたくさんの水飛沫が上がるその異様な光景に、ただただ怯えていた。

繊細な気質を持って生まれた私は、物心がついた頃から極度に社会に対する恐怖があった。
家では天真爛漫で明るくお転婆な女の子だったけれど、マイペースな私には小さな社会の"みんなで"の空気や時間の流れについていくことが難しくていつも泣いていた。

じゅんこ先生、その言葉以外発した記憶がない程、小さな私の中で大きな存在の先生がいた。
当時流行りだったふんわりカールしたシースルーの前髪に長いポニーテールを揺らし、いつも笑顔で優しい大好きな先生。
じゅんこ先生にしか心が開けず、先生がトイレに行く数分でさえ、離れたら大泣きをしていた。
なんならトイレにまで着いていって、優しい先生をいつも困らせた。

年長クラスになった頃は、心を許せる親友のアキがいつもそばにいてくれたこともあって少し保育園が楽しくなった。
弟も入園し、身内がいる安心感もあったのだろう。
徐々にみんなの輪の中で笑ったり、運動会や発表会ではやたらと目立つポジションに立つことを望んだりと、本来の活発な女の子の姿で社会に馴染み始めた。

私はアキとともに、そのまんまの性格で小学校に上がった。
クラスの大半は幼稚園から上がってきた子達。
知らない子がたくさんいる中、同じクラスにアキがいるだけで、私の中にあの時のような恐怖が顔を出すことはなかった。
アキとは2年生でも同じクラスになり、本来の姿の私は自然と笑顔の輪の中に溶け込んでいた。
相変わらずマイペースで臆病な私も存在したけれど、アキと一緒なら毎日が平和で楽しかった。

けれど、アキが休みの日、そしてクラスが離れたときは絶望に近かった。
アキの代わりなんていない。
特定の誰かと仲良くなるわけでもなく、1人でいるわけでもなく、けれど、大きな寂しさを抱えながらも広い雑踏とした教室の中でただ生きていた。
そして、個性が乱立するその世界のルールやスピードに、やっぱりどこか置いて行かれていた。


そんな私たちは5年生でまた同じクラスになり、その嬉しさから私の個性は爆発した。
若くて爽やかな担任の先生は、生徒全員をあだ名で呼んでくれるような、親しみやすい大好きな先生だった。
なんて呼ばれていたかは覚えていない。
けれど、アキともう1人、仲良くなったユリカと3人まとめて「いつもの3人さん」と呼ばれることがとても嬉しかった。(私たちは先生のことをキヨセンと呼んでいた。)
いつもの、というのは毎日3人で放課後遅くまで教室に残って遊んでいたから。
とんだ迷惑だが、私たちだけの世界になるその時間がとても心地よく、大好きだった。
3人でそれぞれ好きな人を追いかけてはしゃいだり、当時大ブームだった少女漫画のマネをしてオリジナルのマンガを作ったり、独創的な遊びをいつも考えては毎日遅くまで楽しんでいた。
そんな私たちにも先生は本当に優しかった。
もちろん私たちにだけでなく、先生はクラスの一人一人をとても大切にしてくれた。
いじめも仲間はずれもスクールカーストもない、クラス全体が一つになるとはまさにこのこと。
先生との印象的な出来事は本当にたくさんある。
人前で食事をすることが苦手で給食が大嫌いな私に寄り添い、いつも気遣いながら楽しい食事の時間を作ってくれたこと。
内弁慶でみんなの前で意見やアイデアを伝えられない私が、先生にはいつでもなんでも伝えることができ、しかもそのアイデアをいつもみんなに紹介してくれたこと。
物語を作る授業では私の作品を褒めてもらい、その物語はクラス全体でバズって私は一躍スターになったこと。
アキとユリカと先生のおかげで、クラスの中でも私が私でいられる、とっても楽しくて心地良い1年間だった。

この時期は学校だけではなく、家族とも楽しいことがたくさんあった。
優しくおっとりした父、厳しくしっかり者の母、無口でやんちゃな弟、無口で大人しい妹、そしてもう1人弟が生まれ、私は明るくひょうきんなしっかり者のお姉ちゃんだった。
おもしろい独創的な遊びを思いついてはきょうだいや近所の子を大勢引き連れて毎日暗くなるまで遊んでいた。
秘密基地を作ったり、街を探検したり、知らない家に行って出てきた人にサインをもらったり。(?)
よくわからない遊びが最高に面白かった。

家族旅行も大好きだった。
夏休みは決まって海水浴と大分のおばあちゃんちへの帰省。
1週間の田舎でのスローライフはとても新鮮で、五感で触れるすべてが最高に心地良かった。
帰る時はいつも寂しくて心が締め付けられるように辛く、それからの数日は物思いに耽っては涙を流している程だった。

そんな最高に楽しかった5年生が終わり、味気なく過ごした残りの一年を経て中学生になった。
隣の小学校と同じ中学に通うため、うちの中学は県内で一番のマンモス校だ。
知らない子がクラスに半分もいる中で、アキは別の中学へ、ユリカをはじめ一緒に遊び回っていた子は別人になった。
気がついたらルーズソックスにお化粧、スカートは短く、髪も染めているようだった。

私はまた孤独な時間を過ごすことになった。
話せる友達は数人いたし、仲間はずれにされるわけでもなく、いじめられるわけでもなかった。
でも、強烈な個性を主張し合うこの世界で、そのパワーに圧倒された私の個性はどこかえ消えた。
個性どころか、この教室に自分は存在しないんじゃないか、担任の先生にすら認識されていないんじゃないか。
小さなアイデンティティさえ失った感覚だった。

楽しそうに派手にはしゃぐ女子、イキリながら大きな声を出す男子、そんなクラスメイトを横目に、なんとなく違う世界を生きているような感覚で数日を過ごし、気がついたら部活見学の最終日になっていた。
入りたかったバドミントン部の見学は終わってしまい、友達について行った卓球部を見学してそのまま入部した。
その安易な決断が、存在感の薄い私をさらに透明にさせた。

そんな半透明な私でも一丁前に恋愛はした。
入学早々、別の小学校だった斜め後ろのクールな男の子に一目惚れをした。
ひょろりと背が高く、頭が良くて運動もできる。
彼にはすぐに学年中の女子が群がった。
劣等感の塊の私は話しかけることさえできず、まだ数人しか登校していない早朝の教室で彼の存在を近くに感じたり、部活でバスケットボールを軽快に弾く彼をネット越しに見ているのが精一杯だった。


相変わらずで2年生になり、誰も仲のいい子がいないクラスに絶望していたとき。
私の前の席にリナという転校生が来た。
卓球部の子いる?と恥ずかしそうに尋ねられたときには、孤独な私に光が差した。

リナはとても卓球が上手くて、明るく面白い性格の子だった。
私たちはすぐに仲良くなり、部活でもダブルスのペアになった。
相変わらずクラスでは半透明人間だったけれど、リナのおかげで寂しい学校社会でもどうにか立っていることができた。


家では、勉強ができない私に母はいつも厳しく接した。
悪さをして怒られている弟とは違い、何も悪いことをしていないのに私だけいつも怒られたり、お弁当を残す弟や妹とは違い、完食しているのに私だけお弁当を作ってもらえなかったり、母のストレスの吐口にされているような、そんな接し方をされていた。
私だけ本当はお母さんの子じゃないのか、そんなことを思っては誰にも吐き出せず、離れのおばあちゃんの家でよく過ごした。
学校でも家でも毎日がモノクロだった。
それなりに笑ったりはしていたけれど、心は全然笑えていなかった。


そんな毎日が変わったのは2年生の秋だった。
テレビで見たバレーボール中継に私はひどく興奮した。
当時、何が流行っていたかなんて全く知らなかったけれど、私にとってメグカナ(元日本代表 栗原恵選手・大山加奈選手)はモーニング娘。以来のアイドルだった。
こんな風にバレーをやってみたい…
私は生まれて初めて強い憧れを描いた。
そして、女子バレーの次は男子バレーの選手にもハマり、試合や雑誌、チームのHPを身漁る日々を過ごし、バレーボールの世界に浸った。


家族旅行でも印象深い出来事があった。
2003年、阪神対ダイエーの日本シリーズで熱狂した家族全員の希望により、初めてプロ野球の試合をドームで観戦した。
初めて足を踏み入れた瞬間、まるで異次元の世界に入ったかのような感覚に陥った。
大観衆の熱気とドーム内の肌寒さ、聞いたことのないほどの大音量で流れるアナウンス、すべてが刺激的で、全身に鳥肌がたった。
テレビで見ていた選手達が目の前でバットを振っている。
観客では、応援団をはじめ球場全員が一体となって声援を送り、メガホンを叩きながら選手ごとの振りをみんなで踊る。
7回には風船を飛ばし、必勝祈願。
ファールボールが来ないかとハラハラし、試合後の勝利の花火は私たちにとっても勲章だった。
試合だけじゃない。
お祭り騒ぎのドーム周辺にテンションは最高潮。
大量に並べられたグッズに心は踊り、キラキラと輝く軽食やドリンクはご馳走で、家族みんなで夜遅くまで観戦しているその状況にも興奮した。

こんな世界、あるんだ…

生まれて初めての壮大な感動を味わい、プロスポーツへの心の高鳴りはさらに増していった。

生きる活力を見つけた私は3年生になった。
同じクラスにはリナと、そして1年の時から片思いをしている彼がいて、心はさらに舞い上がった。
相変わらず彼の周りには常に女子がいたけれど、興味なさそうに男友達と連んでる姿が好きで、それを遠目で見ているだけで幸せだった。
そんな風にひっそりと恋をしたり、リナと2人だけでしょうもない話をしている陰キャラ生活も悪くはなかったけれど、やっぱりどこか寂しかった。
みんなの前だと家での自分のように笑えないし、声が出せないし、意見なんて言えないし、目も合わせられない。
怖いから?恥ずかしいから?卓球部だから?
わからない。
ただただ普通に笑い合っているみんなの輪に入りたいだけなのに…。

イベント事はさらに苦痛だった。
体育祭や文化祭でももちろん裏方だ。
みんなと一緒に舞台に立ちたかったけれど、陰キャラにはそんな権限はないとはなから諦め、華麗にマツケンサンバを踊るみんなにスポットライトを当てていた。
みんなと一緒に楽しみたかったし、素の自分でみんなとただ笑っていたかった。
そんなシンプルなことが叶わなかったことが、とても寂しかったし、悔しかった。

文化祭も終わり、受験モードが漂い始めた秋頃。
進路なんて全くイメージができない私は、また社会に置いてけぼりにされてしまうのではと不安で仕方なかった。
なんでみんなそんなに先のことを考えているのか、なんでそのために今勉強なんか頑張っているのか、私にはさっぱりわからなかった。
けれど、どうもやらないとダメらしい。
何か決めなきゃ。何か見つけなきゃ。
私の起爆剤はバレーボールくらいだ…

そう考えた時、考えたこともなかった未来がどんどん鮮明に浮かんできた。

高校ではバレー部に入って脱・陰キャラ!
勉強も頑張って、大好きなバレーチーム"JTサンダーズ"の拠点がある広島の大学に行こう!
たくさん試合を観にいって、就職はJTにしよう!
そのために何が何でも高校に合格して、自分らしく生きる道を開拓する!!

それからは、大の勉強嫌いだった私が塾にも行かないでひとり黙々と勉強をし始めた。
スイッチが入った私は止まらなかった。


冬になる頃には思ってもみない展開も訪れた。
勉強のことではない。
席替えで片思いの彼と同じ班になったのだ。

リナのアシストもあり、私たち3人は急に仲が良くなってよく話すようになった。
と言っても、私たちは彼にいじられているだけで、まともな話はしていない。
けれど、3年間全く話したことがなかった彼と普通に話せる時が来るなんて、大躍進だ。
英語の少人数授業でも、頭がいい子が集まるクラスに無理矢理入り、彼と一緒の時間を過ごした。
三人称単数もわからなかったのは、そのクラスで私だけだろう。
名前順で座る理科室でも、今まで目の前に彼がいても話せなかったのが嘘のようにたくさん話せるようになった。
その甲斐あってか、彼が私のことを気になっているという噂が流れはじめた。
リナは何度も告白しなと言ってきたけれど、半透明人間の私にそんな権利はない、と土俵に立つことすら避けていた。
群がる女子の目や、こんな陰キャラがとバカにされるのが怖かった。
彼にも迷惑じゃないか、むしろ何勘違いしてるんだと本人から揶揄されることが何より怖かった。
それに、彼は同じクラスのめちゃくちゃ可愛い子と付き合っていたのだ。
そんな噂、信じられるものか。


中学生活最後の席替えでも彼と同じ班になった。
相変わらず私は毎日のようにいじられている。
どうせ、こんな陰キャラの私をおもしろがっているだけだ。
むしろ罠なのか?油断させて、好きにならせて、こっぴどく振ろうとでも思ってるのか?
そうか、バカにされてるのか。
そうに違いない。

どこまでも臆病な私は、自分を守るための被害妄想で頭の中はいっぱいだった。
リナがどんなにそのことを否定しても、頑なに認めなかった。
けれど、もしかしたら本当にこんな私のことを見てくれているのかもしれないと、心の片隅にあるその優越感に近い感情で私のアイデンティティを守った。
陰キャラの私にはそれで十分だった。


結局、何もないまま卒業式を迎えた。
帰りの校門では女子達が男子に群がっている。
ボタンのない学ランを着た彼もいた。
声かけなよと、もどかしそうなリナをよそに、私はその光景をただ遠くで見ていることしかできなかった。

もう帰ろう。
そう思った時、彼が私の方を見ているような気もしたけれど、そんなはずはないとそのまま最後の校門をくぐった。


モノクロの毎日と淡い想いは卒業と共に胸にしまい、受験で得た小さな自信を頼りに私は勝負の日に集中した。

絶対に陰キャラの影は出さない。
もう過去の自分なんかこの世にはいない。
そう誓って挑んだ入学式、下駄箱で出会った同じクラスの可愛らしい子に話しかけて仲良くなり、お昼休みにはバレー部志望の子たちと一緒にご飯を食べた。

勝った。
第一印象をクリアしたら、もう勝ちは決まったようなもんだ。

真面目な進学校だったのもあり、イキった派手な子はほとんどいなかった。
話しかけやすい子ばかりですぐにクラスに馴染め、私は計画通り高校デビューに成功した。

文化祭でも舞台に立ち、学級委員にもなった。
部活も憧れのバレー部に入り、初心者ながら必死に食らいついてレギュラーの座も勝ち取った。
勉強も全ての教科でずっと成績上位だった。
意中の人とは付き合ったし、友達も多かった。
中学時代の面影なんて感じさせないほど、明るくて普通の文武両道の子。
何度もイメトレした理想的な人物を謳歌した。
この頃になると厳しかった母も落ち着き、とにかく平和な3年間を過ごしていた。


けれど、こんな夢に描いていた通りの生活なのに「味わう」という感覚は全くなかった。
作り上げた理想の自分の生活を、毎日必死に頑張っていた。

勉強や部活を頑張るのは、大学進学という夢を叶えるため。
友達をたくさん作るのは、中学の頃みたいに半透明人間になって舐められないため。
恋愛も自分から積極的にアプローチできたのは、中学の頃みたいに何もできずに後悔しないため。
必死に頑張らなければ、社会の普通のレールから外れるだけでなく、また価値のない存在すらしない自分に後戻りしてしまう。
昔の自分には絶対に戻らない。
私はちゃんとここに存在するし、存在する価値のある人間だ。
勉強、運動、友達、恋愛、全てのピースを理想の状態にして完璧な自分でいること、そして未来に夢を掲げることで、周囲に有無を言わせず自分を示したい。

劣等感に負けないために、描いた未来を実現するために、脇目も振らずに己の道を突き進んだ。
けれど、普通の道に乗る自分の強さや凄さ、完璧さ、そしてそんな自分が描く高らかな未来を見せびらかすことが何よりも大切だった私は、全てあるようで、どこか孤独だった。

受験が近づいた頃。
ずっと広島の大学に拘っていたのに、いざ近くなるとなんとなく一人暮らしのイメージができず、家の近所でスポーツについて学べる大学に行くことにした。
好きなチームをいつでも側に感じたい、そう思って志望していたけれど、いっそのことチームに就職すれば誰よりもそのチームの近くにいられる。
拠点の近くに行けないなら、チームで働けばいい。筋は通っている、大丈夫だ。

まるで武士のようなその頑なな一本筋の精神で、普通から逸れないために、もう昔の自分に戻らないために、ただ未来だけを見て朝から晩まで必死に勉強した。

そして無事志望校に合格。
計画通りの3年間を過ごしきり、なんとか戦い続けた高校生活は幕を閉じた。

大学は驚くほど自由で伸びやかな場所だった。
目当てのスポーツビジネスの授業が始まるまで1年半の期間があった。
今まで張り詰めていた糸は切れ、バイトに遊びにサークルに、自由な生活を存分に飛び回った。

バイトは4年間で10種類以上は経験した。
接客業を掛け持ちして転々としながら、目的があるわけでもなくストイックに働いた。

掛け持ちはバイトだけではない。
サークルもいくつも入り、それぞれのコミュニティで自分の居場所を育んだ。
メインで活動していたのは、友達に誘われて入ったフットサルサークル(という名の飲みサー)。
同学年だけで構成されたそのサークルは、ギャルとギャル男の集まりだった。
メンバーは本当に個性豊かで、空気を読んでいるのがバカらしくなるくらいみんな自由だった。
でも、それが私を安心させてくれた。
こんなに大きな輪の中で腹の底から笑ったのはいつぶりだろうか。
とんでもないアホな集団だったけれど、みんなが自分を生きていて、なんだかんだそれでよくて、それが面白い。

ただ、もれなくギャルと化した私は、今までの鬱憤を晴らすかのように調子に乗った。
恐ろしいくらいお酒を飲み、時間の概念もなく遊びやバイトをし、浅はかな恋愛もたくさんした。
実に痛々しい若気の至りだ。

そんな忙しない大学生活を謳歌しながらも、目的は決して見失わなかった。
2年の後期、待ちに待ったスポーツビジネスの授業が始まった。
授業だけでなくゼミやインターンシップ、ボランティアと、様々な形でプロスポーツに関わった。

憧れの世界に初めて入ったのは2年の夏。
短期のインターンシップでJリーグチームの運営に携わった。
夢だった世界を少しだけ覗き、もっともっとこの世界を見てみたいと感じた一方で、なんとなく拭えない鈍い疲労感や違和感があった。
それでも描いた夢を叶えるため、その後は地元のプロバスケチームで運営ボランティアを始めた。

仲良くなった2個上のミナさんとは波長が合い、プライベートでもよく遊び、他チームの試合観戦に行ったり、クラブデビューまでさせてもらった。
ミナさんは選手と仲が良く、ミナさんと一緒にいると選手と顔を合わせる機会も増えた。

プロチームのスタッフをしながら選手とも知り合える、なんて幸せなんだと毎日心が躍った。
ミーハー心からのスタートではあったけれど、スポーツビジネスやバスケの魅力に気づいた私は、もっともっとこの魅力を広げたいと、長期インターンも始め、勉強のために全国各地の試合を観に行くようになった。
会場の作り方や演出の仕方、ファンサービスなど隈なく学び、将来に活かすんだと心を躍らせた。
その中で知り合った選手に恋をしたりもしながら、ずっとずっと思い描いていた世界に近づけたような気がして、卒業までみっちりチーム運営に関わり、着実に夢の実現に近づいていることを感じた。

卒業後はすぐにでもスポーツチームで働きたかったけれど、"普通"の道の上には新卒で入社できるスポーツチームなんて存在しなかった。
JTはエントリーシートで即落とされ、いくつか受けた会社も全滅。
どの道に進めば良いかが全くわからなくなった。

就活はやりたくない。でもやらないとだめ。
また取り残され、バカにされる。
長年描いた夢が叶わなくなる。
あの時の劣っている自分に戻ってしまう…。

盲目の私を苛むこれらを拭うことができず、唯一内定をもらったミナさんが勤めていた生命保険会社に入社した。
保険の意味すらわからなかったけれど、営業さえできたら絶対に即戦力で取ってもらえる。
実務経験でそう確信し、3年で営業スキルを身につけてプロスポーツチームに転職すると決めた。


けれど、そこはとんでもない世界だった。
同期がどんどん成果を上げる中で、一向に成果につながらず、お客様から門前払いされる日々の中で毎日上司に詰められ、みんなの前で罵倒され、同期からも嫌がらせをされ、入社半年でもう辞めてしまいたいと思った。
同期は既に半分以上退職していたため、この流れに乗ろうと決めていた。

でも、そう思っては「私はこんなところで足踏みしている場合じゃない、ずっと描いてきた計画が断たれてたまるものか。」そんな想いが何度も現れ、3年後の未来のために必死で食らいついた。

そして入社して半年、ようやく初成果が上がり、それからは順調にお客様が増えていった。
同期は一人も残っていなかったけれど、大好きなお客様に支えられ、3年目からは常にトップセールスとなった。

計画通り3年で自他共に認める営業スキルを得た。
転職しよう。
そう思っていた矢先、プレイングトレーナーとして部下の育成をしてほしいと打診された。
何度断ってもお願いされ続け、1年だけと条件をつけて引き受けた。
新卒の部下4人を見ながら自分の数字を上げ、会議に採用活動にと忙しい毎日だったけれど、波に乗った毎日は楽しくて充実していた。
けれど、数字は上がっても初めてのチームマネジメントはボロボロだった。
1年の間にメンバー全員が退職してしまい、私は立ち直れないほど心にダメージを負った。
逃げてもいいのだろうか、そんな葛藤もあったけれど、お世話になっていた社長に「今すぐ辞めてやりたいことやった方がいい」と言われ、翌日には退職届を提出した。

この4年間で得たものは営業スキルだけではない。
ビジネスの基本はもちろん、大切なお客様とのつながりや、社会において大切なこと、そして頂いたお給料で美味しいものもたくさん食べたり好きな旅行や音楽フェスにたくさん行ったことで世界は大きく広がった。
一人暮らしを始めたことでお金との付き合い方や家族のありがたさも身に染みてわかったし、大好きな人や大切な親友もできた。
そんな日々や周りの大切な人から、夢のために今を犠牲にする生き方じゃなく、今を生きることの大切さも学んだ。
夢のための足枷のつもりだったけれど、たくさんの経験を通してたくさんのものを吸収することができ、たくさんの感謝の気持ちを抱えながら、私は次のステージへと進んだ。

長年の夢を叶える舞台に選んだのはバスケ。
大学時代のつながりのおかげで、志望していたBリーグのチームにすんなり入社することができた。

今までの経験を活かせるスポンサー営業とボランティア、ファンクラブの担当をしながら、シーズン中は試合運営も行う。
憧れの球団職員として企業を訪問することに胸が高鳴り、球団のロゴが入ったポロシャツを着てイベントをするのが誇らしく、球団の一員としてファンや関係者の人に挨拶をするのが最高に気持ちよかった。
シーズンが始まり、初めてのホームゲームの試合会場の熱気を感じた瞬間は涙が流れた。
努力してきた日々が報われた瞬間だった。

時間の概念なく働き、とてつもなくハードな毎日でも、この世界に立てているだけで幸せだった。
小さなトラブルはたくさんあったけれど(社用車で3回も事故をしたり、選手を乗せた車を脱輪させたり、オフシーズンのイベントで私服姿の選手に「練習生ですか?」と声をかけてしまったり…。その選手はのちの旦那だ。)、大変なんて感じたことないほど毎日が最高に楽しくて幸福に満たされた毎日を過ごしていた。


練習生事件の選手とこっそり付き合いながら仕事に打ち込む毎日はあっという間に過ぎ、試合も残り少なくなったころ。
初めて試合の企画運営を任されることになり、平和な生活は一変した。
その試合は私が担当する大口スポンサー様の協賛試合で、こだわりが詰まった過去にないほど力の入ったものだった。
球団のために出し惜しみせず全力でいい試合にしたいスポンサー様と、前例のない無茶な運営に難色を示す社内の間で板挟みに合い、どう進めていいのか、何が正解か、全くわからなかった。
けれど、社内のメンバーは私を助けるどころか、むしろ石橋を叩くために批判を繰り返した。
さらに協賛やファンクラブ入会の数字も伸び悩み始め、上司の態度も変わった。
みんなの前で罵倒され、みんなと違う態度を取られ、全てを監視され、疑われ、批判された。
今すぐ全部投げ出したかった。
でも、そんなことはできない。
最後まで必死に食らいつき、その試合は最高収入、最高入場者数を記録し、トラブルなく大盛り上がりでなんとか終えることができた。
けれど、上司からは「失敗だ」と言われた。

私はその頃から体調を崩し始めた。

大学生の頃に感じた違和感はこれだった。
幼少期から特定の人としか関係を築いてこなかったように、チームプレーが苦手で人間関係がうまく築けない自分には向いていないんじゃないか、心のどこかでずっとそんなふうに思っていた。
けれど、どうしても描き続けた夢を叶えるため、そんな不安をかき消そうとただ目の前のことに全力で取り組み、努力でカバーしようとしていた。
でもやっぱり、ここで躓いた。
私の心と身体は限界だったけれど、そんなことよりもチームワーク重視のこの世界は自分に向いていないんだと認めざるを得なかったことがショックだった。
そして何より、そもそもこんな酷い世界で人々に夢や希望、光を与えることはできるのだろうかという悲しさでいっぱいだった。

応援してくださる方や頑張る選手のためにもっと頑張って最高の舞台を作りたい。
中学の頃に救われたように、その舞台を通して活力や勇気、希望、夢を届けたい。
そして、私の生きる希望となったプロスポーツの世界でもっともっと自分の力を発揮して、この世界に恩返しをしたい。
でも、もうこれ以上は耐えらる気がしない。


いろんな感情が渦巻く中で、彼の岩手県への移籍が決まり、これが潮時だと悟った。

何年も追い続けて必死に努力してここまで辿り着いたのに、こんなにもあっけない結末で終わるなんて…。
そんな想いは心に封じ込め、たった1年で終わった夢を置いて、私は遠い東北の地へ行った。


岩手県に住んでからは、条件だけでリクルートのフリーペーパーの営業と編集の仕事に就いた。
やりたいことなんてないし、もうあとは結婚するだけだから安定した収入があればそれでいい。
夢を失い、抜け殻の状態だった。

毎日街中の飲食店を周っては、広告の営業をして記事を作っていく。
クライアントさんや一緒に働く同年代のメンバーはみんないい人だった。
狭い街なのですぐに馴染むことができたし、美味しいお店もたくさん知れたし、奨励旅行にもたくさん行けた。
初めての東北の観光地もたくさん巡った。
休日は試合を見に行って、彼が遠征に行っている間は副業も始めた。
特に大きな不満は何もなかった。

けれど、どこか満たされない毎日がただ過ぎていくだけの日々だった。
ただただ働いて、仕事終わりに飲みに行ったり休日を楽しみに過ごす毎日。
仕事も目的なんてないし、無駄に培った営業スキルでそれなりに成績を上げてそれなりにみんなとうまくやる毎日。
それなりに楽しいけど、夢がない人生ってこんなにつまらないのかと感じた。

自分のやりたいことや夢を見つけるためのワークをやったり、本を読んだりもしたけど、これからの夢や目的は全くもって見つからない。
むしろ自分は本当は何がやりたかったのか、何が得意なのか、もはや自分は何が好きでどんな人間なのかもわからなかった。

好きや憧れで描いた未来の地図を握りしめ、地図通りに必死に走り続けてきたけれど、いつしかここまで歩いてきたんだから、ここまで努力してきたんだから、ずっと公言してきたんだから、今ここで諦めたら一貫性もなくなるしみんなに認めてもらえないし、やりたいことなんてないし、もう後には引けないから絶対に地図は離さない。
そんなふうに、ただ道が途絶えることへの恐怖を消すためにプロスポーツという夢にしがみついていただけだったことに気がついた。
そして、人生をかけて追いかけ、信じ続けた夢というものが無意味だったことに絶望感した。

未来は途切れ、先は全く見えなくなっていた。
深い森の中を歩いているような感覚だった。
目的地もない中でどうやって歩けというのだ。
どうやって楽しめというのだ。
どうやって生きろというのだ…。
どんなに考えても道なんか見えない。
目的地なんかもっと見えない。
とりあえず一歩踏み出してはみたものの、彷徨いながら歩く毎日は生きている心地がしなかった。

悶々と過ごしながらも、岩手に来て1年が経った。
プロポーズを期に彼はバスケットボール選手を引退し、2人で私の地元へ戻ってきた。
次の仕事を見つけるまでにお互いの両親に挨拶をしたり新しい家を見つけたりと、モノクロの日々は結婚という一つの節目に救われ、色づいた。

けれど、リスタートするこれからをどう生きたいのかと考えても、条件が良くて長く安定して続けられる仕事をしながら家庭を育む…
それ以外、何も浮かばなかった。
OLも経験したいしなぁと自分を納得させ、不動産会社の本社事務で人事の新設部署に入社した。

リクルートで培った書くスキルが使えると採用広報の担当になり、半年後には中途採用の責任者にもなった。
けれど、新設部署だけあって部内は無法地帯。
どんなに自動化・効率化・分散をしても次から次へと降ってくる仕事に追われ、1ヶ月ほどして私は軽いパニック障害を発症し、暫く休職した。
復職しても相変わらずのその環境は、私の体調をさらに悪化させた。
それでも最低育休を取るまでは絶対にやめないと決め、吐き気を我慢しながら毎日出社した。
そんな中で妊娠し、計画通りしつかり育休をとって経営企画部の広報に異動して復職した。

けれど、会社員を長く続けるつもりはなかった。
毎日パンパンのスケジュールをこなし、お金稼ぎのための仕事をしながら0歳の娘を保育園に預け、余裕がないことで優しい旦那さんや娘に当たってしまう自分にうんざりしていたが、こうなることは予想通りだった。
育休中に参加した自己啓発や自分探しのためのセミナーでこれからの働き方について考えて、フリーランスになることを決めていたのだ。

これといったスキルややりたいことはないけど、毎日を消耗して過ごす人生はもう辞めよう。
何より、私がこんな状態だったら絶対に家族は幸せにならない。
そう感じて、何が何でも変わろうと心に誓った。

そして、フリーランスになるため、本格的にやりたいこと探しや自分探しを始めた。

自分は何者なのか、本当は何がしたいのか。

そのシンプルな質問の答えはなかなか出てこなかった。
ありのままの自分を生きず、自分の心に嘘をついて無理をし、他人の目を気にしてそれを基準に選択して、大事な今を嘘の未来のために犠牲にしてきた私には、とても難しい質問だった。

今この瞬間、自分の心、自由に望む未来
大切なこれらを一番後回しにして生きてきた結果がこの有様だ。

社会にしがみつくために作り上げた妥協と虚勢の賜物である私の半生に意味を付け、価値を見出すには何ができる?
いや、そんな半生だったからこそ、これからをどう生きる?
たとえ夢がなくても今この瞬間を味わい尽くすことで幸せな人生を送ることはできる。
自分の意識の向け方次第で現実も未来も変えていくことができる。
周りも、過去も、常識も、何にも関係ない。
誰の人生も、本当はものすごく自由で、ものすごく楽しいものなのだ。

そんな人生、何を望む?



自問自答の末、数ヶ月かけてようやく辿り着くことができたのは、小学5年生の時のような、みんながそのまんまの自分で笑い合っている、そんな世界で自分を生きることを愉しみたいという想いだった。
大きな夢を叶えたり凄いことをしたいなんて、周りに自分の存在を示すための戯言だった。
私はただ、へんてこりんな世界を妄想しながら大好きな人や美しいものに囲まれて、みんなで綺麗だね、面白いね、可笑しいね、素敵だねって想いをシェアしながらみんなで笑い合っていたい。
そのまんまの自分で、ただ生きるということを愉しんでいたい。


本当の自分と社会の狭間で苦しんだ幼少期。
劣等感を抱えながら過ごした中学時代。
自分を守るために剣を振り翳し続けた高校時代。
夢にしがみつき、すり減らし続けた10年間。
夢が絶たれ、暗闇を彷徨った5年間。

どこを振り返っても苦しくて、孤独で、いつも一人で自分が作り上げた何かと戦っていた私は、そんなシンプルな想いすら見逃していたのだ。
本当は幾度となくあったその瞬間を、そのまんまの自分で味わったことはあっただろうか。


これからは大切な家族と幸せに生きるために、そのまんまの自分で今を味わいたい。
純粋に心を震わせながら、みんなで笑いながら、自由に自分を生きていたい。


2022年1月

「自然体の自分で幸せに生きる」をテーマにしたサービスを提げて、私はその想いを叶えるべく念願のフリーランスになった。
迷いながらも一歩ずつ前に進み、半年が経った今、ストーリーライターとして物語を紡ぐ仕事をしている。
日々アップデートしていく中で当初の形からは随分と変わったけれど、心に忠実に動いた結果だ。

どうやら私は妄想のシーンを現実世界に表現することや物語に乗せて伝えることが好きらしい。
そして願わくばその世界をシェアし、みんなで心を震わせ合って愉しんでいたいのだ。

小5のときに漫画のパロディストーリーを書いて遊んでいたこと、授業で書いた物語がバズったこと、中学の時に音楽から連想した物語を作っていたこと、夢を手放してから偶然書くという仕事をしていたこと。
思えばストーリーを書く場面にとても心が躍っていて、きゅんと震えた心をシェアするのが嬉しくて、ミーハーな私の心が一番喜んでいた。

それがたまたま繋がり、今こうして心のままに物語を紡いでいる。


誰に笑われても、誰からも理解されなくても、心のど真ん中のやりたいことをやる。
何を選んでも正解だし、枠や強制も何もない。
他の誰かや見えない何か、そして未来の何かに縛られることなく、ただ目の前のことを見て、感じて、その想いを基準に選択して、変化を厭わずマイペースにオリジナルの道を歩めばいい。
その目の前のことを存分に味わい、幸せになるんだと決めればそれでいいのだ。


繊細ゆえ社会の恐怖に怯え劣等感に苛まれていた少女は、この社会で生きるために強くなり、夢に向かって走り続け、道を探し続けていた。

生きるということに全力で向き合い続け、今もなお自分を生きることに必死だ。

でも、だからこそたくさんの物語を紡ぐことができ、この世界に光を届けることができるのだ。

なんてことない可笑しな物語が、誰かの日常をほんの少しだけ彩ったり、小さなお守りになったり、人生を動かすきっかけにだってなる。
目の前の人、会ったこともない人、想像もできないほどのたくさんの人と、物語を通じて心を震わせ笑い合える未来も必ずやってくる。

自分が自分で生きているから、望む未来がやってくるのだ。


誰だってそうだ。
色々な半生の旅を経たからこそ今の自分があり、それが価値になり、未来へとつながる。
等身大の、今その瞬間の心が何よりも尊いものを創る。

誰だって、自由でいい。
誰だって、なんだってできる。
誰だって、そのまんまで幸せになれる。

これからも、そのまんまで今を生きて。


ASIAN KANG-FU GENERATION / 今を生きて


-- fin. --



service & philosophy


私の屋号はhanameと言います。
日本語で花芽。
蕾になる前の新芽を意味します。
花芽は必ず花を咲かせます。
私自身の開花までの道のり、そして花を咲かせようとしている誰かを応援したくて、この名前をつけました。

プロスポーツという光が私の人生を加速させてくれたように、私の活動が誰かの小さな光となりますように。

自分として生まれた生を、すべて価値あるものに。
そして価値循環を通して、この世界の可能性を無限に広げていく。
みんなが自分を生きることで還元し合う世界を目指して。


そのために、私は私で生きて価値を循環し、世の中に還元していきたいと思っています。

⚫︎パーソナルストーリーHUG
自分の人生を肯定し、これからの未来を自分として生きていく人を応援する自伝小説です。
HUGを通して価値循環ができることを願って。
※HUG執筆のご依頼は随時受付中です!

⚫︎創作
エッセイやシナリオ、短編小説をnoteで創作しています。
私の創る可笑しな物語の世界で、日常の愛おしさを再確認してもらえたら幸せです。

⚫︎nature meditation
"自然と、自然に生きる"をテーマに、自分に還るワークや対話、呼吸、自然と触れ合う体験などを通して、今この瞬間の自分を感じるnature therapyを準備中です。
大切なあなたとシェアできる時間を最高のものにしたい、その想いでお作りしています♪

各詳細のお問い合わせなどはこちらから


atogaki


とってもとっても長いストーリー。
ここまで読んでくださり本当にありがとうございます!
自分のために振り返ってまとめた物語でもあり、いろんなフェーズの人の「生きる」に寄り添う物語だと思っています。

人生には本当にいろんな悩みがついて回りますが、全てに意味があって、それを唯一無二の価値として世の中へ還元するために目の前に現れているものだと思っています。

それも含めて、そのまんまの自分で今を生きて。

そんなメッセージを込めました。
何かを感じていただけたらとても嬉しいです。


それにしても、私の人生、本当に被害妄想ばっかりですね。笑
繊細な自分を守るため、人生をきちんと生きなきゃと頑張りすぎていたんだなと思いますが…。
それにしても盲目すぎる。笑

そして、記憶というものの曖昧さにも改めて触れました。
ほんの少しフィクションも混ぜましたが、いかに都合良く人生を解釈していたことか…。
けれど、それで良いんです。
人生なんて、その人だけの物語。
好きに咀嚼し、好きに紡ぎ、好きに未来に繋げれば良い。
だからこそ、今この瞬間が可笑しくて愛おしいものであってほしい。

これからもHUGでたくさんの人の物語を紡ぐお手伝いができればと思いました。


最後にひとつだけ。
みなさま、この物語に残された未消化の想いにお気づきでしょうか…

それは、中学の時の片思いです。笑
彼とのその後のエピソード(!)は、恋愛HUGのストーリーに乗せてみなさんに楽しんでいただき、成仏させたいと思っています。笑

次回、恋愛HUGお楽しみに!



(2022年7月1日 / kato erika )

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