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理屈と情理

採用部門の担当者として年間の目標採用人数を採用していく必要があるわけですが、おそらく世界で一番の人材紹介会社数を誇る日本においては、高騰し続ける採用単価の問題はあるものの、それでも費用をかけさえすれば採用自体は何とかなるものだと思っています。

というか何とかしないといけないのですけれどもね。

ところが問題は、人を採用できるかどうかよりも、人を増やせるかどうかという方にあります。

当たり前ですが、流出していく退職者を止めなければ、どのような規模感の組織でどれだけ採用予算が潤沢にあったとしても、人を増やすことができません。

それでは、人はなぜ辞めていくのでしょうか。

人それぞれに理由はあるかと思いますが、今回は、というかいつものように独断と偏見で人が辞めていく経緯について綴っていきたいと思います。

よく拠点や部署でありがちなのが「まさかあの人が」と思っていたような人が、ある日いきなり退職意向を示して、あっという間にいなくなってしまうなんていう出来事。

周囲の人たちからしたら「ある日突然の退職意向」なわけですが、おそらくは当人にとってはコップの中の水が少しずつ満たされていくように、組織や、主に上長に対してのマイナス感情が溜まっていっており、それがいつもと同じように与えられているストレスだったとしても、コップの縁ぎりぎりの表面張力で保たれていたところに最後の一滴が加わった時に、溢れ出た想いがご本人の中での決断に至らせるのだと思います。

コップの水で例えてしまいましたが、最終的な決断への引き金は、多くのところ「組織や上司への失望」でしょう。

これまで積み重ねてこられた理不尽さへの失望でもあり、これから先も変わらずに積み重ねられていくであろう理不尽さへの確信からくる失望とでも言えばいいのでしょうか。

もっと言えば、「この組織は、この上司はこのままずっと変わらないだろう」という絶望感とあきらめ。

なので反対に、組織や上司にとっては、社員や部下にそのような想いを抱かせないような日頃の関わり方やメッセージの発信がとても大切な要素となりますよね。

自分で意識したことは全くないのですが、同じ組織に長年いると、いつしか「プロパー社員」なんてレッテルが貼られたりします。

特に途中から参画してこられた人からすると、まあ区分けすれば確かに私みたいなのは意識しようとしていまいとプロパー社員なのでしょう。

不思議なもので、こちらの立場からすると相手のことを「外様」なんて思うことは一度もないですし、むしろいつになったら何年経ったらそうした自らを客観視した関わり方から、より踏み込んだ関わり方に変わるのだろうかという相手のスタンスの方が気になるところです。

譜代大名(プロパー)と外様大名という社員の区分けも見方のひとつだとは思いますが、むしろ大きく分かれてしまっているのは、理屈と情理のどちらに比重を置いて仕事をしているかという姿勢の違いから生じる関係性の在り方ではないのかなということ。

「情理」とは、「人情」と「道理」のこと。

「人情」とは、人間にそなわる自然な心の動き。
人らしい情や思いやりのこと。

「道理」とは、物事の正しい筋道。
人として行うべき道徳的な正しさのこと。

組織が大きくなるにつれて感じているのは、情理の姿勢を押し出してやってきたところから、内部統制が必要になってきて管理をしないといけなくなって、少しずつ理屈とか理論を含めたルールをたくさん設けなければならなくなってきたということ。

決してそれは悪いことではないですし、様々な問題に向き合うためには情報を理路整然と分けて対応していく必要も出てきます。

ただ、この分けて対応していく情報の中に、「生身の人間」がいるのですよね。

当社の方針書の中に「情報は情けに報いられるという意味」という文言があります。

まさに人間関係そのもののことです。

ある脳科学者は、その著書の中で次のように述べています。

脳は意欲で働くのである。特にわれわれは、人から受け入れられ、人からわかってもらうことで意欲があがり、知が働くように作られている。

松本元「愛は脳を活性化する」

また、陽明学を唱えた王陽明が弟子に与えた手紙の中に、「天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず」という言葉があります。

つまり、「いかに生きるか」ということは、「いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかということである」と謳っているわけです。

この中で、間違えていけないのが「怒」について。

この場合の怒りというのは、相手を傷つける感情としてそのまま外に向けて発するものではないようです。

自らの在り方を憤り、自らを奮い立たせる。

怒りの感情を自ら律し、咀嚼して「憤」という感情に昇華させることが大事だということですね。

脳科学者も昔の人も口を揃えて言っている、「人は論理ではなく感情で動く」という原則。

情理を伴わない理屈や理論は、一方的に詰められる側からすると単なる圧力でしかないですし、行動する原動力につながるような向き合い方ではないのです。

ここを見誤って、情理よりも理屈を優先させるような向き合い方をし続けていくと、結果としてその理屈は周囲の人たちの中にある「憤」の要素を無くしていき、そこからくる失望感や虚しさが、ある日突然と思わせるような退職を生むのではないでしょうか。

ようは、理屈と道理とのバランスなのですけどね。

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