アドバンス・ド・蜜の味 5
数日後――。
葛藤している。僕とあやまさんは同じ地元の人間だったということが発覚して以来、何度か二人off会をするような関係になっていた。
今日も八事のロイヤルホストで彼女と会っている。しかし気がついたら僕はあやまんさんのことを女性として意識するようになっていたのだ。彼女は僕より4つ年上の24歳。彼氏なし。
Twitterではよく自分のことを卑下してるけどきっと自己肯定感が低いだけなんだろうなあ。大学の同年の女どもに比べたら大人っぽくてユーモアがあって配慮もできて女性として何倍も魅力的だ。本当に素敵な女性だと思う。
だからといって僕のガルル・ド・覚王山ちゃんへの愛はこゆるぎもしないが……。
むしろそれは澄みわたった湖のように一点のよどみもなく僕の心の深淵部に横たわっている。まるで世界がはじまった瞬間からそこにあるような純然たる想いだ。
たとえば今この場所にプライベートのガルルちゃんが現れたとしても僕はきっと無視をするだろう。何度もチラ見したり声をかけたりなんてことは絶対しない。なぜなら僕がそんなことをしてしまえばせっかくプライベートを満喫しているガルルちゃんの迷惑になってしまうからだ。僕に言わせればチラチラ見たり声をかけたりするようなやつはファンでも何でもないチンポ野郎である。もしくはクソビッチだ。もはや僕にとっては彼女の幸せが僕の幸せなのだから!。
しかしであるならば万が一、僕とあやまさんがそういう関係に発展してしまったらそれはガルルちゃんに対する背徳行為になってしまうのだろうか。
古代ギリシャでは恋愛関係といえば即ち同性愛を意味した。しかもそれは男と男の間でしか成り立たないものであって男と女の間で成り立っていたものはただの婚姻関係のみ。それは子孫を残すという生物的な目的のみで成立するビジネスライクな関係だったのである。
そもそも「結婚が恋愛のゴール」なんていう現代の恋愛至上主義に基づくクソみたいな風潮が、人間の本質をまったく無視した一夫一妻制という欠陥だらけの婚姻システムを生んでしまっていることにほとんどの現代人は気づいていない。人類のY染色体は一夫一妻制のせいで絶滅するかもしれないと訴える科学者もいるくらいなのだから。人類のオスは昔よりも確実にメス化しているのだ……。
……おーい、黒川くーん。おーい!
気がついたら僕はコーヒーカップを見つめながら、またもや熟考にふけってしまっていた。綾目が呆れたように「今度はなんて書いてあったの」聞いてきた。もちろん、まったくの無地……。
「ねえ、黒川くんって別の世界にトンじゃってるとき何を考えているの?」
「はい。もちろんガルルちゃんことです」
「愚問でしたな、失礼しました~」
そう言って綾目は殿様にひれ伏す平民たちみたいなポーズをした。どこかのテーブルの客が呼び出しボタンを押す。番号表示が点灯し店内にチャイムが響き渡る。厨房からはガチャガチャと絶えずせわしない音が聞こえてくる。さっきから同じ中年の店員さんがテーブルの間を行き来している。どうやら今夜は必要最小限の人数で回しているようだ。10分くらい前に注文したきびなごのフリットがまだ来ない。
すると綾目が何やら下世話な話をしてきた。
――そういえばガルルちゃんに「男の娘」疑惑あるよね?。
まったく語る価値のない【デマ話】ですね。たしかにガルルちゃんはスレンダー体形で胸部のふくらみもほとんどありませんが、どう見たって女の子じゃないですか。それに万が一彼女が本当に男の娘だったとしても僕の愛はこゆるぎもしませんよ?。
男が男を愛して何が悪いんです?。たとえば戦国時代は衆道という男色趣味が武将たちのあいだで当たり前のように嗜まれてました。織田信長にだって森蘭丸という小姓がいたではないですか。そもそも男の娘の起源は倭建命という……。
――うわぁ、はじまった。
なに、引いてんすか!
コーヒーを一口すする。
デマ話といえば実は僕には高校一年のとき人生で唯一奇跡的に彼女と呼べる存在がいました。名前は鶴里憧子さんといってあまり目立たないグループに属する女の子でした。僕たちは公園で話をするだけというとても健全なお付き合いをしていたわけですが、あるときそんな彼女と豊川稲荷の話になったんですよ。
5年前――。
豊川稲荷は日本三大稲荷のひとつだ。昔から神社仏閣巡りが趣味だった僕はそこへ行ってみたいという話を鶴里さんにしてみたのだが、彼女はそれをデートの提案だと受け取ったのか「豊川稲荷でデートしたカップルは別れてしまう」というジンクスがあるとしてこれを却下。なんでも、ダキニテンという狐の女神様がカップルの女に嫉妬して別れさせてしまうからだという。僕はさっそく反論をした。
バカバカしい。そんなものは語る価値もないデマ話だよ。だったら吒枳尼天様は男と付き合ってくれないとおかしい。別れさせるだけなんて道理が合わないじゃん。女神様だろうが天女様だろうが責任をもって付き合うべきだよ。むしろ僕は吒枳尼天様と付き合えるなら喜んで豊川稲荷へ行くよ?。
得意げに弁舌をふるっていると予想外のことが起こった。なんと彼女は目を真っ赤に腫らして泣いてしまったのだ。
どうやら僕の放った「ダキニテン様と付き合いたい」という趣旨の発言が彼女にとっては不適切だったらしい。僕は慌てて弁解&謝罪をしたのだが鶴里さんは「私という彼女がいながらダキニテン様と付き合いたい」というのは明らかな浮気の意思表示だとしてこれを拒否。なんと僕たちはそれがきっかけとなって別れてしまったのだった……。
豊川稲荷へ行ってもいないのに吒枳尼天様の話をしただけで別れさせられたカップルなんて、おそろく僕たちぐらいのものでしょうね。図らずも僕は「語る価値もない」とバカにしていたジンクスを自ら証明してしまう結果となってしまったわけです。当然、吒枳尼天様はそんな僕とは付き合ってくれませんでしたけどね!。
すると綾目はフフフと笑って「かわいい」とだけ言った。
どこがかわいいんすか!。せっかく今まで誰にも話したことのない甘酸っぱい青春エピソードを披露してあげたのに。おかげで僕はこの年まで童貞なんですよ?。言いかけてやめた。店員さんがきびなごのフリットを運んできたからだ。
僕は店員さんにコーヒーのお代わりをお願いして話を続けた。ちなみに豊川稲荷が祀る吒枳尼天様は芸能の神様でもあるんです。だから僕はガルルちゃんの芸能活動を祈願をするため今度の日曜日に豊川稲荷へ行ってみようと思ってるんです。そう言うと綾目は「黒川くん、お参り好きだねえ」と目を細めた。
そういうデマ話は信じないのに神様は信じるだねっていう皮肉だろうか?。なんだかバカにされてる気がする……。すると綾目がつづけてこう言った。
――じゃあ、私も連れてってよ?。
何を言ってるんですか。そんなことしたら別れちゃいますよ。
――え、私たち、付き合ってるの?。
気まずい沈黙……。
そ、そういう意味じゃなくて、その、何ていうか……。思わずしどろもどろになっていると「フフフ」あやまさんは余裕の笑みを浮かべている。完全になめられているようだ。もしかして僕の信仰心を試しているのか?。
あやまんさん、そういうのやめてくださいよ。訴えると彼女は観音様みたいな顔をして「綾目でいいよ」と言ってきた。一気に距離をつめてくるじゃないか。じゃあ綾目さんとお呼びします。
綾目さん、何度も言ってますが僕はガルルちゃん以外の女の子には興味がないんですよ。キッパリ言ってやったのだ。すると今度は「へ~え、黒川くんって私のこと女の子として見てくれてるんだ?」と来たもんだ。あんた、ああ言えばこう言う選手権の世界チャンピオンか!。
あのですねえ、言いかけたとき店員さんがコーヒーのお代わりをもってきてくれた。ふと窓を見ると外はもうすっかり暗くなっている。時刻は20時35分。このまま綾目にペースを握られっぱなしにされるわけにはいかない。反撃開始だ!。
コーヒーを一口すする。
たしかに24歳のレディに対して僕みたいな若造が女の子というのは少々語弊があったかもしれませんね。でもまったくそういう意味ではありません。どちらかというとガルルちゃんに引っ張られた形で女の子と言ってしまっただけであって、べつに綾目さんのことを女の子として見ているというわけでないのですよ?。
僕はあくまでも紳士的にかつ冷静に否定してみせた。しかし綾目はまったく話を聞いておらずひたすらきびなごのフリットを口に放り込んでいる。
くそぉ、もてあそぶなぁ。僕が童貞だからってもてあそびたい放題じゃないか。挙句の果てに綾目はきびなごが口に入ったまま喋りはじめたのだ。
――そういえばさあ、もぐもぐ……。
食べながら喋らないでください。女性がみっともないですよ?。
嫌味を言ってやったが彼女は構わず話をつづけてきた。
――例の炎上してるネット記事見た?。なんか蜜メンの個性を「令和の見世物小屋」だとか言って批判してるやつ。もぐもぐ……。
ああ、どっかの無名ライターが書いた女性誌サイトのコラムですよね。もちろんチェック済みだ。その内容は聖痕と呼ばれる蜜の味メンバーが生まれながらにしてもっている身体的特徴、すなわち……。
・スフィン・ド・本陣の緑色の瞳。
・ジゼル・ド・東別院の蛇舌。
・ガルル・ド・覚王山の白睫毛。
・クロエ・ド・六番町の第六の指。
・モカ・ド・星ヶ丘の狼牙。
・オパール・ド・平安通の尖耳
それぞれをフェイクと断言した上で本当にそういう病気をもったひとたちの差別につながるものだと辛辣に批判した記事だ。
綾目がきびなごを一匹口へ放り込む。
まったく正鵠を射ていないトンチンカンな指摘ですね。彼女たちの聖印は間違いなく本物だし、だからといってそれを売りにしていない。百歩譲ってそれがプロモーション機能を果たしていたとして何がいけないというのです?。逆なんですよ。彼女たちの個性を差別してるのはこういう記事を書くやつなんです。
綾目がきびなごを一匹口へ放り込む。
古来、日本ではそのような子はむしろ大事にされてきましたからね。日本神話には蛭子伝説という話があります。天照大神のご両親である伊弉諾と伊弉冉が最初に生んだ子どもが蛭子という手足のない子どもだったので葦舟に乗せられ流され、それが福をもたらす恵比寿様として民間信仰の対象になるんですよ?。
綾目がきびなごを一匹口へ放り込む。
そもそも差別だ何だって騒ぎ立てる奴らは自分のなかの「正しさ」について極端に潔癖症で少しでも自分の「正しさ」から外れた芸能人や有名人など攻撃しやすいターゲットを見つけると火の玉みたいにヒステリックな批判を始めるんです。
綾目がきびなごを一匹口へ放り込む。
こいつらの共通点は致命的なまでに歴史的視点が欠落していること。だからすぐに特定のイデオロギーに染まってしまうし、自分が染まっていることにすら気づかないんだ。
ここで綾目が「黒川くんは、さあ」割って入って来た。
――満たされた人生を送ってるの?
も、もちろんですよ。僕の人生はこの世にガルルちゃんが存在するという事実だけで満たされるのですから。
「へーえ、そういうもんかねえ。もぐもぐ……」
「だから、食べながら喋らないでくださいってば」
すると綾目は頬杖をつきながらまるで珍しい生き物でも見るかのように僕の顔をジッと観察してくるではないか。さっきからあからさまに年上のお姉さんムーブかましてきやがる。しかし次の瞬間あろうことか綾目は腕をテーブルのうえに組み少し前のめりの大勢になったのだ。
当然のごとく僕の目に飛び込んできたのは若草色のワンピースの隙間からチラ見する淡いブルーの欠片。そして豊満な谷、谷、谷!。
即座に目をそらす。
ふう、あぶない。並の童貞だったら死んでるぞ?。
どういうつもりなんだ、このたぬき女……。
臨・兵・闘・者……。僕は心を落ち着かせるため印を結びはじめた。すると綾目はそんな僕の悲しい行動を見透かすように「ぜんぜん満たされてるようには見えないけど?」顔をほころばせたのだ。
――だって黒川くん、さっきから不満ばっか言ってるじゃん。
不満じゃないですよ。世の中の真実をあげつらっているだけですけど。
僕がそう言うと綾目はテーブルのうえに組んでいた腕を解除して姿勢を改める今までとは少し違うトーンで「君が少しうらやましいな」と言った。
――私は満たされたことなんてないから。人生が満たされているかどうかなんてのは自分がそう思っているかどうかなんだよね?。その考え方がどんなに稚拙だったとしても、どんなに誤謬があったとしても、本人がそう思っていて納得してるならそれはもう真実なんだよね?。私はそんな黒川くんがうらやましい。無邪気に自分を信じて突き進んでいける黒川くんがうらやましい。
なに言ってすか!。僕はあえて景気よくツッコミを入れた。羨ましいとか言って絶対に僕のことを小馬鹿にしてますよね。そんなこと言われても僕は負けませんよ。恋愛至上主義には屈しませんよ。
しかし綾目は止まらなかった。彼女は水を一口飲んで紙ナプキンで口の周りを拭く動作を見せたあとおもむろに言葉をつづけたのだ。
――君にひとつだけ教えといてあげる。恋愛っていうのはそもそも「お互い傷つけ合うこと」なんだよ?。
――ひとを好きになるっていう気持ちは純度100%のエゴなんだから恋愛っていうのはエゴとエゴのぶつけ合いなの。だから女の子に優しいだけの男はいつまで経っても誰とも付き合えないの。
――相手を傷つける覚悟があって自分も傷つく覚悟がないと本当の恋愛なんてできないんだよ。黒川くんは相手を傷つけたくないから臆病になってるんだよね。でもそれって結局は自分がかわいいだけ。「誰も傷つかない世界」という幻想に安住しているだけ。君はそんな自分を正当化したくて色んな言い訳を並べて満足してるつもりになってるだけなんじゃないかな?。
綾目は最後に「とか言って」を付け加えニッコリ笑ってロイヤルのオニオングラタンスープを一口飲んだ。正直、ぐぅの音もでなかった。
全部、彼女の言う通りだった。恋愛に対して人一倍幻想を抱いているのはJ-POPじゃなくてむしろ僕だったんだ。僕は誰も傷つかない世界を追い求めてガルルちゃんへ行き着いた。絶対に手の届かない存在を一方的に好きになることでその心地よさに安住してしまった。綾目さんはそんな僕の性根をとっくに見透かしていたんだ。
――なんか、ごめんね?。
謝るくらいなら最初から言わないで下さいよ。
おっしゃるとおり僕は恋愛から逃げまわってるだけの哀しき童貞モンスターですよ。万が一こんな限界オタクの僕がガルルちゃんの彼氏になったとしても彼女を幸せにできるわけがありません。そんな【身の丈の合わない】願望をもつよりずっと一方的に好きでいるほうが楽じゃないですか。ダメなんですかねえ、それじゃあ……。
時刻は21時19分。
本質を突かれ明らかにテンションが下がってしまった僕の姿を綾目はいつまでもニヤニヤと見つめていた。今夜は完敗だ。チーン。会計カウンターのベルを鳴らすと中年の店員さんが対応してくれた。僕たちはそれを割り勘で支払い出入口の内側のドアを開いて風除室をとおり過ぎ外側のドアを開いて外界へ一歩踏み出した。すると綾目が笑顔で振り返える。
「ごちそうさまでした」
あ、はい。僕はそう言って頭をかいた。べつに僕が全部おごってあげたわけではないのでそんなこと言われても困るのだが、それはツッコミを入れるほどおかしいことでもなかった。僕たちはそこから歩いて2分ほどの地下鉄八事駅へ向かう。
彼女は元々自由ヶ丘に住んでいたらしいのだが高校一年のときに大須に引っ越して以来ずっと実家住みなのだという。したがって八事駅からは鶴舞線に乗る。一方、僕は今でもずっと自由が丘なので八事駅から名城線に乗る。僕たちはロイヤルホストの駐車場を横切って大きな道路へ出た。
とぼとぼと歩きながら僕は前を行く彼女の姿をマジマジと観察した。身長は160cmくらいだろうか。僕より頭ひとつ低くいくらいだ。シックな若葉色のワンピースにロング丈の白いカーディガンをはおり、左手で麻みたいな素材の編み込みバッグをぶらんぶらんさせながら彼女は僕の前を歩いていた。やがて札幌かに本家の前を通り過ぎると結婚式場みたいなホテルの横に地下鉄の1番出入口が見えて来る。僕たちはそこから階段を下りてそれぞれの改札口へ向かった。すると別れ際に綾目がイタズラっぽい表情を浮かべながら振り返ってこう言った。
「ねえ、べつに吒枳尼天様は……
君と付き合いたかったから別れさせたわけじゃないと思うよ」
今さらその話ですか。たしかに僕の論理に少々飛躍があったことは認めましょう。仰るとおり別れさせるからって付き合う義務はありませんよ?。でも納得はできません。ちゃんと責任をもって付き合ってくれないと……。僕が持論を曲げずに反論すると綾目はフフフと笑って
「ガルルちゃんより女神様と付き合うほうが
よっぽど【身の丈に合ってない】と思うけど?」
きびすを返して悠々と去っていってしまった。僕はそんな彼女の背中を見止めつつ、ただ呆然と立ち尽くすのみ。
ああ、やばい……、落ちそう……。
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