アドバンス・ド・蜜の味 18
21時過ぎ。新宿某所の自宅マンション――。
今日は春吾さんに内緒で美容院へ行ってきた。コンタクトレンズ屋さんにも行った。あとその帰りにたまたま寄った店でパイナップル柄のパジャマを買ってきた。お風呂からあがって今ちょうどそれに着替えたところだ。
そういえば通販で買ったスパムが冷蔵庫に1缶残ってたなあ。明日の昼ごはんはポーク卵おにぎりにしようかしら。今までずっとロングだったから気づかなかったけれどショートってこんなに髪を乾かすのが楽なのね。
そんなとりとめのないことを考えながら私は独り木目調ダイニングテーブルの席にすわっていつものように春吾さんの帰りを待っていた。ドキドキ。するとちょうど玄関のドアの解錠音が鳴る。カチャ。来た……。
靴を脱ぎ、廊下を歩いて向かってくる気配が近づいてくる。わくわく。間もなく春吾さんがリビングのドアノブに手をかけ部屋に入ってくる。私は体制を整えて彼を待ち構えた。
次の瞬間。
えつ!、夏美?。
待って待って……。
春吾さんは驚きのあまり固まってしまったのだ。
やった。大成功!。
えっ、夏、いや、えっ!?。
ドギマギしている春吾さんに「美容院へ行ってきたんです」得意げにネタバラシすると彼は「な~んだ」安心したあと「えっ、ま、真冬さん?」時間差でまた驚いてくれた。いちいち期待以上のリアクションをありがとう。
調子に乗った私は「もっと近くで見てください」彼の元へ駆け寄った。すると春吾さんは私が眼鏡をしてないことにもようやく気がついたようだ。
「め、眼鏡はどうしたんですか?」
「コンタクトにしてみたの」
そう言って私は改めて「似合いますか?」頭を左右に振りながら髪先を持ち上げてみせた。すると春吾さんは「そんなことは絶対にないと思いますけど世の中には絶対にないなんてことは絶対にないので確認させてもらってもいいですか」ものすごい回りくどい言い回しをしながら大きく息を吸ってこんなことを聞いてきたのだ。
――嫌よ嫌よも?。
その問いかけを聞いた瞬間、私は腰に手をやって「好きの内~!」元気よく彼を指差した。すると彼は「ああ、脳みそがバグる……」頭を抱えてしまったのだ。あれれ。何だか想定していたリアクションと違うぞ?。とりあえず誤魔化さないと……。
実は鎌鼬に切られちゃって。
――さっきは美容院って言ってましたよね。
違うの。美容師さんが鎌鼬だったんです。
――美容師免許って妖怪でも取れるんですか。
ちなみに鎌鼬は冬の季語よ?。
――あからさまに話、そらしましたね?。
春吾さんは何を言ってもそっけなく返してくる。どうやらまったく喜んでくれてない様子だった。おかしいなあ。こうなったら正直に言うしかない。「驚かせちゃってごめんなさい。春吾さんが元気になってくれると思って」釈明すると彼は複雑な表情を浮かべながら何かを言おうとしてはやめて何かを言おうとしてはやめた。お構いなしに話をつづける。
あのね……。最近、春吾さんといっしょに私の病気のこととか、扶桑家のこととか、色々調べてるうちにね、私には時間が無いんだなあって。今まであまり考えないようにしてたんですけど、なんだか急に現実味が出てきちゃって……。私ね、早く赤ちゃんが欲しくなっちゃったんです……。
でも春吾さんは、私じゃダメみたいだから。夏美ならいいのかなって……、思って……。
――えっ!?。
だからね……。私が夏美になれば、きっと……。
あれ?。やだ……。ごめんね。ちょっと待ってね。
私はそんなつもりはまったくなかったのだけれど話しているうちにポロポロと涙がこぼれて来ちゃったので、それをパジャマの袖で必死にぬぐいながらさらに言葉をつづけた。
だから私……。この病気が治ったら春吾さんにお願いしようと思ってたんですけど何だか焦っちゃって……、私……。
――真冬さん、ごめん!。
春吾さんが私の釈明をさえぎるるように胸襟を開いてきた。
――俺は今まで仕事の忙しさに逃げて君のことを放ったらかしにしていた。君はこの2年間ずっと独りで悩んでいたんですね。誰にも相談できずに悩み抜いて出した答えがそれだったんですね……。
――君の言うとおり俺はいまだに夏美の死を引きずってます。彼女の死が受け入れられなくて君のことも受け入れられなかった。気持ちはもう吹っ切れているつもりなのに君を認識するとどうしても脳ミソがバグってしまうんです。体がエラーを起こしてしまうんです。もしかして心的外傷ってやつかなと思って心療内科へ相談しようとしたこともあったんですが、今ハッキリと原因がわかりました……。
――中途半端だったんだ!。
えっ!?。
――今までの君は夏美とまったく同じ顔なのに髪型や眼鏡、性格や喋り方が違うという中途半端な存在だった。でも今回君が外見を100%夏美に寄せ切ってくれたおかげでどうやら俺は心的外傷の向こう側へ到達することができました。
――ずっと夢だった……。扶桑姉妹と2人同時にイチャイチャするのが俺の夢だったんです。顔が夏美で性格が真冬さんなら嬉しさ2倍で200万パワー。そこへいつもの2倍のジャンプを加えることで×2の400万パワー。さらにいつもの3倍のひねりを加えることで×3の1200万パワーだ。
「うおお~!。キュルル~!」
そう言って春吾さんは力任せに私を抱きしめてきた。この2年間、手すら握ってこなかった彼がこんなにもあっさり距離を縮めてくるなんて思い通りに行き過ぎて何だか逆に複雑な気分……。
彼の右肩のうえにあごを乗せながらそんなことを考えていると「夏美、愛してる」絞り出すような声が聞こえてきた。どうやらこのひと、本当に頭がバグってしまったみたい。バグってハグってる。笑。
そんな親父ギャグが頭に浮かんできてうっとりしてたら私はいつの間にか唇を奪われていた。それは冷蔵庫から出したばかりのお刺身みたいなひんやりとした感触でほんの少しアルコールの匂いがした。キスってもうちょっと柔らかくて温かいって聞いてたからちょっと意外……。
でも今は前へ進むしかない。
バグだろうがお刺身だろうが前へ進むしかない。
私は自分にそう言い聞かせるように彼に身を委ねてみることにしたのだ。
春吾さんは私の後頭部へ片手をそっと添えると、今度はその感触を確かめるにように何度も何度も唇を重ねてきた。何だか出来のわるい電動歯ブラシみたいなヘンな感じがする。
しばらくすると彼の暇そうにブラブラしてたほうの片手がパジャマの裾をたくし上げて来た。やっぱり今からなんだ……。今日は一応大丈夫な日ではあるのだけれど、思い通りに行き過ぎてやっぱり複雑な気分……。
彼の片手はまるで意思を持った蛇のようにパジャマの裾を引っ張ったり中へ入ってきたりしている。私はキスをされながらそんな蛇の動向に集中することにした。
この蛇さんは相当イタズラ好きみたい。ボタンの存在を把握すると器用に外してくるのだ。まずは一番上のボタンが外れた。次に二番目のボタンが外れた。私は何も抵抗しなかったので全部のボタンを外されてしまい前がはだけた状態になってしまった。そういえば下着まで気が回らなくていつも寝るときにしているぜんぜん地味なやつだったわ?。
私は今更になってそんな凡ミスに気がついたのだけれど、そんなことを心配してるうちに背中を押され薄暗い寝室へ連行されてしまった。
ベッドの端に座らされ「ん、どうするの?」あたふたしてたらパジャマのトップスを脱がされ「こう?」お尻を上げたらボトムスまで脱がされて、あっという間に下着姿になっていた。さっそく2匹の蛇さんが両腋のしたから現れてブラのうえでたわむれている。
やがて1匹がホックの存在に気づきその形状を把握するともう1匹にそれを伝え2匹で協力して外しはじめた。
私はとっさに乳房があらわになってしまわないよう腕で隠そうとしたのだけれど、今度は体ごと背後へ押し倒されてしまったので「わっ!?」驚嘆の声をあげたら口まで封じられてしまった。
そのまま手首を押さえられ、腋窩を撫でられ、乳頭をもてあそばれ、後頭部へ枕が差し込まれ、あ、ありがとうございます……。鼠径部を這いずられ、ショーツのうえから恥骨を嬲られていく……。
ねえ蛇さん、あなた何匹いるの?。
私はただひたすら与えられる刺激に耐えているだけだった。
ゾクゾクしたりビクビクしたりはするけれど、それは快感でも不快感でもなかった。でもそのうち1匹の蛇がショーツの内側へ潜り込んできて、無邪気に私の膣内へ入ろうとしてきたので思わず「ちょ、ストップ!」止めてしまったのだ。
――どうしたの?。春吾さんがわざとらしく聞き返してくる。あの、痛くしないでくださいね……。消え入るような声で訴えると彼は少したじろぎながら「初めてなんですか?」息を呑むように聞いてきた。
こくり。小さくうなずいて返すと「俺はなんてことを……」春吾さんは完全に手を止めてしまったのだ。
「どうしてやめちゃうんですか?」
「俺は真冬さんの尊厳を傷つけてしまった」
「いいの」
「そのうえ体まで傷つけるところでした……」
「本当にいいの」
私は頑張って引き止めたのだけれど彼は「ちょっと外周走ってくる」自分を戒めるように回れ右をしてそのまま寝室を駆け出して行ってしまった。いってらっしゃい……。私は手を振ってそれを見送るしかなかった。
う~ん、大失敗!。
私は大学受験の時期にちょうど不調期が重なってしまって進学を諦めざるを得なかった。それ以来23歳で春吾さんと結婚するまでずっと自宅で療養する日々を過ごしていた。
ただし療養と言ってもずっと寝込んでいたわけではなくて体調がいい日は外へお出かけしたり、ショッピングなんかもしたりしていたの。でも私は夏美のように積極的なタイプではないから学生時代を含めて今まで男のひととお付き合いをしたことは一度もなかった。
だから恋愛がどういうものかわからないし、愛し合うって行為がどういうものなのかわからないのだった。この2年間いっしょに過ごしてきて春吾さんのことは「大切なひと」と思うようにはなったけれどそれが「好き」という感情なのかも私にはわからない……。
ねえ、なっちゃん。
私はどうしたら良かったの?。
あれは今から6年前の夏の日――。
ダンス教室から帰って来た夏美が「ねえ、お姉ちゃん!」慌てて部屋へ飛び込んできた。おかえりなさい。どうしたの。
聞くと庭にヘンな蛇がいるという。「見に来て。早く早く!」彼女が手招きするのでついていくと玄関アプローチの脇で2匹のシマヘビが複雑に絡み合っていた。よく見ると2匹はお互いを今にも飲み込もうとしていたのだ。夏美が「どう。すごいでしょ?」満面の笑みで聞いてきた。
これはウロボロスよ?。
ウロボロスは「尾を飲み込む」を意味する古代ギリシア語。2匹の蛇がお互いの尻尾に噛み付いている姿が描かれた図形(1匹バージョンもある)で、回帰性、無限性、完全性などの象徴として中国やエジプトなど様々な古代文明で発見されているモチーフなの。
でも実物の蛇がこうやって噛み付き合ってるのは初めて見たわ。もしかしたらツチノコより珍しいかも……。そう言うと彼女は「えー、すごーい!」目を輝かせたのだ。
――ねえ、これって大発見だよね。
うん、すごいわ。なっちゃん!。
――あたし、教科書に載っちゃうかな?。
載っちゃう。載っけちゃう。
――お札になっちゃうかな?
なっちゃう。百万円札になっちゃう。
しかし夏美が「よーし、生け捕りにすっぞ」腕まくりした次の瞬間、2匹のシマヘビは絡み合っていた体を知恵の輪の世界チャンピオンみたいにスルスルとほどいて茂みのなかへ入っていってしまったのだ。
あーあ、帰っちゃったね……。遠くからカラスの鳴き声が聞こえてくる。ふと見上げると西の空が真っ赤に染まっていた。
……どうして急にこんなこと思い出したんだろう。もしかしてなっちゃんが私に何かを伝えようと思い出させてくれたのかな?。
ウロボロス……。
お互いに噛みつき合う2匹の蛇……。
私はそこでハッと気づいてしまったのだ。
もしかしたら私は春吾さんの【夏美を想う気持ち】を踏みにじってしまったのかもしれない。自分のエゴを押し通したいばかりで春吾さんの気持ちなんて少しも考えていなかったのかもしれない。
彼が愛してくれるなら私は自分の尊厳なんて傷つけられても構わないと思った。私が勝手に傷つくだけなんだからそれでいいと思ったの。でも実際は違った。私たちはお互いが傷つけ合っただけ。まるでウロボロスのようにお互い噛みつき合っただけ。
謝らなきゃ。彼に謝らなきゃ……。
ほどなくすると春吾さんがタオルを肩にスッキリとした表情で寝室へ戻って来た。あ、おかえりなさい。すると彼は改めて不思議そうに私を見つめながら「うーん、やっぱり夏美にしか見えないな」呆れるように笑った。どうやら完全にバグ修正を終わらせてきたみたい。今なら言える。
あの、春吾さん……。ごめんなさい。
――ど、どうしたんですか。
私はあなたの夏美を想う気持ちを利用して、自分のエゴを押し通そうとしてしまいました。本当にごめんなさい……。
――な、なにを言ってるんですか。真冬さんはまったく悪くありません。悪いのは俺です。100%俺です。今から強姦の罪で自首しに行きたいくらいですよ。たとえ婚姻関係であったとしても、合意の意思があったとしても、君のことを君として愛そうとしなかった時点で立派な強姦です。俺は君を犯すところだった。いや、少なくとも君の尊厳は犯してしまった……。
でも……、私……。
――じゃあこうしましょう。俺たちは本来なら踏むべき段階を踏まずに結婚してしまった。ずっとボタンをかけ違えたまま2年間も過ごしてしまった。だったら一旦全部のボタンを外してみませんか?。
えっ?。
――もう一度、第一ボタンから留め直しましょうよ。今の君みたいに。
春吾さんはそう言って床に散らばったままになっていたパジャマを拾うと、ベッドのうえでシーツに包まっていた私へ差し出してくれた。
やだ。ごめんなさい……。私は春吾さんに言われるまで自分がずっと下着姿のままだったことをうっかり忘れていたので、彼が横を向いている間に急いでベッドの横のスペースでパジャマのズボンを履きトップスに腕を通してボタンを留めた。そして私がパジャマを着終えたのを確認すると、春吾さんは改めて正面へ向き直った。
――真冬さん。
はい……。
――俺と付き合ってください。
あ、はい。(そこからなんだ……)
私がそう答えると彼は「よっしゃー!」少年のように1回転しながら昇龍拳のポーズを決めたあと「じゃあ、おやすみなさい」自分のベッドへ潜り込んでいった。あの、つづきはしないんですか?。一応確認してみたのだけれど彼はぐがぁ。高鼾をかいて狸寝入りしてしまった。
このひとなら愛せるかも。と私は思った。
翌朝――。
目が覚めると窓の外はあいにくの曇り空だった。ベッドから降りてリビングのドアを開ける。ダイニングテーブルのうえにはすでに朝食が用意がされていた。黒いサンドイッチのような物体がお皿のうえに盛り付けられている。しばらくぼーっと突っ立っていたら私が起きた気配に気づいた春吾さんがキッチンから「おはよう」声をかけてくれた。
寝ぼけまなこをこすりながらフニャフニャと挨拶を返して椅子へ座る。再びぼーっとしていたら春吾さんが「コーヒーです」目の前にマグカップらしきものを置いてくれた。あ、ありがとうございます……。
私は朝が苦手だ。というよりそもそも起きないことが多いので朝食はいつも春吾さんが自分でつくって食べて自分で片付けてから出社している。今日はがんばって起きてみたのだけれどやっぱりまだ眠い。コーヒーの香ばしい匂いが漂うなか私は頭頂部にアホ毛みたいな寝癖がついていることに気づいてクルクルといじっていた。
すると春吾さんが向かいの席から「似合ってますよ」と言った。そういえば髪を切ったんだったっけ。眼鏡、眼鏡……。ケースから眼鏡を取り出しかけるとやっと世界がハッキリと見えてきた。
――あれ、眼鏡に戻ったんですか?。
1DAYレンズなの。
そう言って私はマグカップに両手を当てた。改めてテーブルのうえを見るとお皿に盛り付けてあったのは黒いサンドイッチではなく玉子焼きとスパムをご飯で挟んで海苔を巻いた沖縄の郷土料理「ポーク卵おにぎり」だった。あ、これ……。指をさすと彼はニコニコしながら「そのパイナップル柄のパジャマ、かわいいですね」褒めてくれた。あ、ありがとうございます……。
今朝のメニューはこの南国風パジャマから着想を得たという。
「ちょうどスパムが冷蔵庫にあったんですよ」
彼はそう言ってポーク卵おにぎりに齧りついた。私はそんな彼の横顔をただぼーっと見つめていた。しばらくするとスマホで今朝のニュースをチェックしていた春吾さんが独り言のようにつぶやいた。
――むむ、例のアイドルグループのリーダーがライブ配信中に体調不良。その後、元気な姿を見せファンを安心させたって?。たしかこの日って俺たちが本陣のマンションに侵入して御札を貼った日だよなあ……。
やっぱり効果があったんだ。
すると春吾さんは何かを思い出したように口を開いた。
――そういえば昨日、憧子さんから連絡がありました。どうやら東山さん(綾目)が扶桑家の秘密を第三者に漏らしてしまったらしくて、何とか憧子さんが口止めしているらしいのですが「無闇に他人に話さないでください」って、めちゃくちゃ怒られちゃいましたよ……。
――たしか真冬さん、こないだ東山さんについて何か言いかけてましたよね。もしかして俺に忠告しようとしてたんですか?。
私はこくりとうなずいてみせたけれど、本当は少し違う。
そもそも綾目ちゃんは蜜の味のファンなのだから推したちのアイドル活動を妨げるような計画に協力的なはずがないというのは最初からわかっていた。だからこうなることは織り込み済みだったのだ。
なぜなら扶桑家の秘密を知られたくないのはSBE側も同じだから。むしろ世間に秘密が漏れて困るのはSBE側なのだから放っておけばそのうち必ずあっちから尻尾を出してくるはず……。と思ったの。
実は私、あのとき綾目ちゃんは泳がせるつもりって言いたかったんです。
――なるほど。そう言う作戦だったんですか。
スフィンが体調不良を起こしたということはあの本陣のマンションが呪法陣のひとつで間違いないとは思うのだけれど、その後すぐに回復したということはSBE側の人間に御札が発見され剥がされてしまった可能性が高い。
何らかの対策をされる前に手を打たないと……。私は意を決して彼にお願いをしてみることにした。
あの、私……。
しばらく実家へ帰りたいんです。
――えっ、ちょっと待ってください。やっぱり昨日ことですか。そうですよね。本当にすみませんでした。もう絶対にあんな乱暴はしませんから許して下さい。このとおりです!。
春吾さんが慌てて土下座してきた。
どうやら言い方を間違えたみたい。笑。
そうじゃなくてね、実家に戻って名古屋で調査をつづけたいんです。言い直すと彼は「ああ、そういう意味でしたか」ホッと胸を撫でおろしたあと「ダメです」笑顔で即答してきた。
「お願い。無理はしませんから!」懇願すると彼はしばらくウーンとうなったあとやっぱり「ダメです」満面の笑み。
――この2年間、真冬さんは俺にわがままを言ったことは一度もありません。何かお願いをされたことすらなかった。とても良き妻でした。
――でも俺は寂しかったんです。頼りない男だと言われているような気がして歯痒かったんです。だから今、君が初めて頼みごとをしてくれたことに俺はとても感動しています。俺は君のためならどんなわがままも聞いてあげたい。かぐや姫ですらドン引きするレベルの無理難題でさえ命を投げうってでも叶えてあげたい……。
――でも、それだけはダメです。
相当ダメらしい。
「近いうちに必ず長期休暇を取ります」「いいですか?」「絶対にダメですよ?」彼は何度も何度もそう言って会社へ行ってしまった。しかも念のためとか言ってクレジットカードまで取り上げられてしまった。
でも私は今までの私ではない。髪を切った時点で決意していたの。もうすでに実家へは今日中に帰ることを連絡している。私は急いでポーク卵おにぎりを食べきって食器を片付け、歯を磨き、掃除機をかけ、洗濯物を室内干しして、シャワーを浴び、服を着替えて、少しだけお出かけメイクをしたあと家を飛び出した。
JR新宿駅東口アルタ前――。
どうしよう。途中で迷ったり寄り道したりしてたら、ここへ辿りつくだけで1時間もかかっちゃった。なんとか間に合ったけど……。
私は広場の花壇に沿うように設置されたステンレスのバーへ腰を下ろした。クラクションを鳴らす緑色のタクシー。工事中の白い壁。ピラミッドに埋まるライオン。地面をつつく鳩の群れ。ティッシュを配る人。ひたすら誰かを待っている人。忙しなく行き交う人々……。
もうすぐ時間が来る。ドキドキ。
5秒前、4,3,2,1……。
街頭スクリーンからけたたましい轟音が鳴りひびいた。アドバンス・ド・蜜の味の宣伝映像がはじまったのだ。黒バックの中央に【密】という漢字をモチーフにした黄金の砂時計が現れて映像が切り替わると派手な音楽が怒涛のように始まった。そこにはとてもスタイルが良くて顔の小さい女の子が映っていた。思わず見とれていると横から声がした。
「ジゼル・ド・東別院ちゃんですよ」顔を向けると茶色いボロジャケットを着たクルクルパーマ頭の男性が立っていた。
「喜太くん!」
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