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誹謗中傷をした人への誹謗中傷が連鎖していき誹謗中傷の輪が際限なく広がっていく静かなディストピアを感じます。
誹謗中傷を批判するのに加害者を誹謗中傷する意味はあるのか。
批判する側も理性を持とうよ。
人間的であることについて
何かを書こう、作ろうとしても月並みな事ばかりが思い浮かんでしまって億劫になっています。
営みのほとんどを家の中で過ごす必要が出てきました。
この小さな空間で身に起きること、体感することはあらゆるものが想定可能で予定調和です。
映像や音声でいいものに触れることはできたとしても、それらの多くは自分で検索するか、自分用にシステムがカスタマイズしたおすすめ情報ばかり。
刺激みたいなものか
交錯している事。曖昧なままにしたい事。
世の中のあらゆる現象はあらゆる形で交錯していると思っている。
そのため、一つの現象を正しく、語弊なく説明しようとすると芋づる式に他の現象の説明をしないといけなくなる。
学校みたいな、"ある分野において全員、最低限の基礎知識がある環境"であればその外側の領域にはみ出てしまった部分だけ説明すれば済む。だが、そういう環境はごく稀であり、限定的だ。
それ以外の環境において、"完璧な理解"
何者かになれたらいいだけ?
自分の目指す未来像を明確に持たなければいけないと言われる。
その度に僕は思う。
何者かになれたらいいだけなの?って。
多くの人は勘違いをしていると思う。
社会が理想と掲げるような人間になれたら自動的に幸せな人生が完成すると思っている。
もちろん、結果として幸せになる例は十分にある。
でもそれはきっと、自動的な物ではない。
理想とされる道を歩いた人たちが自殺を選ぶ事だってあるのだから
波に名前をつけること、僕らの呼吸に終わりがあること。
あるときから自分が嫌いでならない。
自分が他人とは違っていて、尚且つ、そんな自分は他人に受け入れられない存在だと気がついたとき。
体内で自己嫌悪が育っていく。
気がついた時には全身を埋め尽くしていて、自己憐憫に救いを求めた。
一方で、自分を嫌いになりたくないという気持ちもある。
当然の事かもしれないが、自分のことは好きでいれたほうがきっと楽しい。
でも、今まで通り生きてても、自分を好き