人間的であることについて
何かを書こう、作ろうとしても月並みな事ばかりが思い浮かんでしまって億劫になっています。
営みのほとんどを家の中で過ごす必要が出てきました。
この小さな空間で身に起きること、体感することはあらゆるものが想定可能で予定調和です。
映像や音声でいいものに触れることはできたとしても、それらの多くは自分で検索するか、自分用にシステムがカスタマイズしたおすすめ情報ばかり。
刺激みたいなものからは程遠い生活です。
なかなかに生温い生活で、日々の営みは惰性でテレビを眺めているような感覚に陥っています。
それらが僕の感性をつまらないものにさせています。
当然ですが、人々の感性は周囲で起こりゆく様々な事象に敏感に影響を受けて形を絶え間なく変化させます。
同じ予定調和を永遠と繰り返していると、自分の感性はどんどん想定可能な範囲に留まっていきます。
偶発的に生まれる自分でも予想できなかった発想のようなものが、まるで生まれなくなってきています。
物を作ることを生きがいの最も大きな部分としている僕にとっては危機的状況です。
規則正しい生活をして、十分な睡眠と食事をとり、適度に勉強をして、1日に数十分は散歩をして、好きなようにゲームをするような生活。
とても人間的な生活だと、以前の僕なら思っていたでしょう。しかも、それは肯定的な意味合いで。
何も楽しくありません。
こんな退屈な営みを人間的な生活なのだとするなら、人間である意味など何も感じません。
ここから分かるのは、僕を僕たらしめていたのは、僕の人間的な部分ではない部分であったということです。
今の生活が僕を"普通"に仕立て上げてしまうのではないかという危惧が強まってきています。
100人中80人に合格点をもらうような、より多くの人に満足してもらうような生き方はしたくありません。
僕という存在が、誰か1人か2人にとってとても強く突き刺さるような生き方がしたいです。
今日も日が暮れようとしています。
明日起きたとき、僕が僕の予想の範囲内である可能性が日に日に高まります。
期限は近づいてきています。
僕が僕の枠に完全に収まってしまったら、僕の人生はお終いです。
自分で自分に向けて引き金を引きたくはないので、延命措置を急ぎます。
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