何者かになれたらいいだけ?
自分の目指す未来像を明確に持たなければいけないと言われる。
その度に僕は思う。
何者かになれたらいいだけなの?って。
多くの人は勘違いをしていると思う。
社会が理想と掲げるような人間になれたら自動的に幸せな人生が完成すると思っている。
もちろん、結果として幸せになる例は十分にある。
でもそれはきっと、自動的な物ではない。
理想とされる道を歩いた人たちが自殺を選ぶ事だってあるのだから。
人は自分の見たいように見て、自分の聞きたいように聞く。
不都合な部分はなかったことにしてしまう。
その結果として社会的な理想を体現することは幸せなことであると考えられてしまっている。
僕にも憧れの人がいる。
その人が言っていた。
「今(売れた後)も昔(売れる前)も幸せの質量は変わっていない」と。
何者かになれたからといって、自動的により大きな幸せが手に入るとは限らない。
目指すべきとされている目標を目指す事が必ずしも報われないのだとしたら僕らはどうすればいいのだろう。
目標を見失ってしまったらうまく歩ける自信がない?
道標のない旅は不安でならない??
いい加減気が付かないといけない。
社会の作り出している理想像は虚像であると。
幸せの尺度や評価軸は人それぞれだし、信じていた道が突然崩れ去ることもある。
未来像なんて描いたって、その未来を正確に予言できる人なんていないのだから、そんな物はあやふやだ。
社会の言う"目指すべき物"は蜃気楼のような物であると気が付かないといけない。
いつまでもそんなものに踊らされているわけにはいかないだろう。
目指すべき目標は崩れた。
何者かになったところで、望んだものが手に入らない可能性が出てきた。
では、どうやって生きていけばいいのか。
何を拠り所にすれば良いのか。
結局のところ、"今を楽しむ"と言うことだけが、確実に幸せを手に入れられる手段のように感じる。
「明けない夜は無い」なんて無責任に言い放つ人もいるけれど、それはあくまで夜が明けた人たちが上に立って言っているだけだ。
きっと、夜が明けないまま目を閉じることになった人達だって沢山いる。
むしろ、そういう人の方が多いのでは無いかと思う。
来るかもわからない夜明けを夢見て、必死になって苦しみに耐えるくらいなら、目の前にある幸せにすがりつけばいい。
常識なんてものは偏見だ。
まずは疑いの目を向けなければいけない。
自分の頭で考えて咀嚼してからでないと、本質的ではない。
他人が勝手に決めた理想像を盲目的に追うのはやめて、今を楽しもうよ。
その方がよっぽど健康的だと思う。
こんな簡単な事に気がつくのに21年もかかってしまった。
盲目的に今を消費してしまうのはもったいないから、出来る限りを尽くして今を楽しもうと思う。
その先にあるものなんて誰にもわからないんだから、そんな事を気にしてもしょうがない。
地に足つけるのなんてやめて、軽やかなステップを踏んでいこう。
そんな事を考えていた、今日の僕でした。
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