交錯している事。曖昧なままにしたい事。

世の中のあらゆる現象はあらゆる形で交錯していると思っている。

そのため、一つの現象を正しく、語弊なく説明しようとすると芋づる式に他の現象の説明をしないといけなくなる。

学校みたいな、"ある分野において全員、最低限の基礎知識がある環境"であればその外側の領域にはみ出てしまった部分だけ説明すれば済む。だが、そういう環境はごく稀であり、限定的だ。

それ以外の環境において、"完璧な理解"を得るためには、文字通りあらゆる領域の説明をしなければならない。
そういう事柄をうまくまとめる事も実力の内だと思う人もいるだろう。
だが、それは現象の性質によると思う。

僕は建築において、かなり概念的な、侘び寂びや空、禅などによる構築を行うが、これらの概念ほど、語弊なく省略することが難しいものは無い。
"侘び"なんていうとても繊細で感覚の機微を見つめるような概念は簡略化すればするだけ、本来の意味合いからはズレていくように感じる。

これはなにも、建築やアートなどの創作におけるものだけでは無いと思う。
自己表現と言われるあらゆる事柄は常にこの難しさを孕んでいる。他にも、分かりやすくするために噛み砕いていけないものを噛み砕いてしまって、歪んだ理解を招いている事柄も散見される。

物事には、省略して良いものとそうで無いものがある。

自分自身こそがそういう存在だと思っている。
これまで関わって来た人たちによく言われたのが、「よく分からないね。」という言葉だ。
これは僕の人間性が掴めない、というニュアンスのものだ。でも、僕は逆に聞きたい。「何故毎日時間を共有しているわけでも無いのに、僕のことを理解できると思っているの?」と。

先程挙げたような限定的な環境は、家族だったと思う。家族は僕のことをある意味合いにおいては、或いは大まかな輪郭としては、僕のことを十分に理解している。
だから、自分の事を事細かい話さなくても、ほとんどの事柄は語弊なく伝わる。

だが、それ以外の環境においては、かなり時間をかけて対話をしないと、そこまでの理解に及ぶはずがない。当然の如く、自分を構成している要素はとても複雑に交錯しており、いきなり全体像を俯瞰して細部まで見渡すことなんて出来るはずがない。
これを省略して、いくつかの要素を切り落として説明する事も可能だが、それをしてしまうと、なんとなーくの全体はぼんやり見えるかもしれないが、細部には少ながらず、必ず、誤解が生まれる。そう言った細部は、ある種爆弾のようになって両者の間に身を隠し、場合によっては大爆発する事もある。地雷といった方がいいかもしれない。それがとても目に見えないような、ごく些細なものであっても、だ。

むしろ、そう言った可能性を孕む事が分かっていながら省略をする事はとても不親切で、不健康な振る舞いにも思えてくる。

とは言え、すべてを理解してもらうことが現実的であるとも思わない。

当然、僕が影響を受けた本を余さず読めば僕のことが理解できるかと言えば、そうではないだろう。もちろん、語弊は減り、正しい理解には近付くだろう。だが、僕を僕たらしめているのは、僕が僕として、実態を持って経験した事柄だ。あの日あの時にあれを経験して今があるわけで、それが1日、1分、1秒ズレただけで、そこから受ける影響は小さくても、変化はする。

そして僕自身も、僕自身であるが故に、自分の事を完全に理解できる訳がない。自分の事を完全に客観視する事など、出来るわけがない。なぜなら僕は僕であって、僕は僕という存在でしか生きれないからだ。

自分も他人も、どんな存在も、僕のことを理解する事はできない。

これは僕に限ったことでは無いだろう。

だから、他人に共感を求めることや、自分を理解してもらう事はやめた。

もちろん、時間をかければ、自分をより理解してもらう事は出来るし、相手が自分にとって特別な存在であれば、努力はする。

だけれども、結局のところ、完全に理解するなんて夢物語だ。もし、完全に理解できたと言っている人がいたとすれば、嘘をついてるか、何か見えていないものがあるか、だと思う。

最近の考え方は「理解できないくらいがちょうどいい」だ。

簡単にその人のことが理解できてしまってはつまらないだろう。長く時間を共有しても、新しい発見があるような関係の方が楽しさもあっていいと思う。

曖昧なままで良いのではないかと。
あらゆるものにピントが合った世界など疲れてしまうから、多少ボヤけてるくらいがちょうど良かったりする。
揺れ動いた光がたまに細部を映し出してくれるくらいが情緒的だったりするように。
だけど、曖昧だと安心できないという感覚も同時にあるのだろう。はっきりとしていた方が、分かりやすくて、安心だ。みんな不安は苦手だし、不安を愛せる人なんてなかなかいない。僕も不安からは目を背けない。

僕は前の恋人にも、その前の恋人にも、「考えていることが分からない。」「理解できない。」と言われてしまった。その前後では必ず、「あなたの彼女である事に自信が持てない。」と。この手の言葉が一度でも出た人との関係がその後うまく続いた試しがない。

あえてあまり自分の説明をしなかった場合も、時間の許す限り説明をした場合も、いずれも結果は同じだったから救いようが無い。

多分僕が人の気持ちを理解することが苦手な事も原因の一つだ。小中学生の頃は、優等生の仮面を取り繕っていた。そのおかげで、人がどんな感情を抱いているのかをある程度分かるようにはなった。だけど、それはあくまで友人関係であって、それ以上踏み込んだ関係になってしまうと、途端に相手の気持ちが分からなくなってしまう。

現実の僕と会ったことがない人が多いとは思うけど、それでもすでに僕のとこを、「普通じゃない」、「変な人」と見ている人も多いと思う。それについては、僕自身も明らかに変わった人間である事は分かっている。それでいて、それは個性だと思っているし、自己嫌悪を抱えて生きていて、僅かに自分を愛せる部分はそういった、いわゆる「変わっているところ」だ。
それも僕を理解してもらえない大きな要因となってしまっている。

理解してもらえず、理解できないという状態で、「どうすれば理解してもらえるか」と考える。同時に「完全に理解してもらうなんて不可能だ」と考える。完全にパラドックスに陥っている。交錯している。

皆さんはこの「省略しても良いものとそうで無いもの」と「理解してもらいたいが、完全な理解なんて出来やしない」問題をどう考えていますか?

誤解が出来るだけ少なくなるように、言葉を選びながら、必要な事柄は入れたつもりですが、不十分かもしれません。
やはり、簡略化して話す事はとても難しいし、本質を適切な形で届けるのは難しい。「完全」や「完璧」は無くとも「正解」や「正しさ」、「間違えてはいない」「語弊はない」などはあるとは思うが、それはどうすれば確かめられるものなのかも、よく分からない。
非常にはっきりと、よく分からない。

僕にはもう、とてもとても難しい問題に思えてしまっていて、解決の糸口が一度でも見えたことがありません。

神様は絶対人生の難易度設定間違えてる。
ハードモードにも程がある。
ただ、「難しいくらいがちょうどいい」のかも、と。

ところで、僕の長く読みにくいnoteを毎回最後まで読んでくださる方が何人かいて、とても嬉しいし、ありがたいです。何か返せるものがあれば、と思うけれど、思いつかないし、そんなものをもらってしまったらそれはそれで困ると思うので、これだけ伝えておきます。

「大好きです!!!」

僕でした。


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