見出し画像

20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」 第15話

バンド・メンバーへのお土産を持って(筆者註:プミポン国王のステッカー)、私と森田公子はタイ旅行からの帰国の途にあった。

1990年の3月である。

そして、それからすぐに大学の「卒業式」があった。

ハルノはこれに合わせて頭をフィッシュボーン(※1)のアンジェロを模した「パイナップル・ドレッド」にしていた。

式の間中、私とコヤマは本館校舎の屋上で煙草を吸っていた。
私の左手首にはバンコクで買った金色の偽ロレックスが光っていた。

式が終わるころに戻ると、校舎の入り口に森田公子が花束を持って立っていた、卒業祝いらしい。

私がコサメットのバンガローで切ってあげた彼女のショートカットの髪の毛(筆者註:第14話の写真参照)は「帰国後に美容院で切り直した」とのことであった。

「あ~、(髪の毛)せっかく「椎名桜子」だったのに「椎名桂子」になっちゃったね」と、私は私以外には理解不能な感想を述べて花束を受け取った。

私の人生でそんな祝福なんてされた事が無いので、実のところ心から嬉しかった。

それから謝恩会やら二次会やらが待っていたが、私は最後までこの大学のこの学科には馴染めないようで、ぼんやりと皆がはしゃぐ姿を壁にもたれながら眺めていた。

1990年4月、私は「建築家・白井晟一設計」の地元の公立美術館に学芸員として就職した。

そして、2週間に一度、東京に出向いてバンドの練習に参加した。

メンバーは皆、社会の洗礼を受けていた。

ハルノはカメラマン・アシスタント、コヤマは実家の石材店、

グンとオオヤマ、そして「カリスマ」ヌマサワは「モラトリアム」を選択した。

私は社会人1週間で知恵熱が出て、キーボードのミイケはインハウスのグラフィックデザイナーとして「オレの仕事は西田ひ◯るのオッパイを削ることだよ!」とスタジオで嘆いていた。

さて、
私はこの時23歳で、この夏に24歳を迎えようとしたいた。

私は焦っていた。

「オレほど音楽を愛し、音楽を理解する人間が、このまま陽の目を浴びずに無残に歳を取っていくのか!?」

と、夜も眠れず、しまいには苦しくて音楽を聴くことも出来なくなっていた。

激しい焦燥感に苛まれる日々であった。

そんな中、2週間に1度の吉祥寺でのバンド練習は続いていた。

吉祥寺「分家スタジオ」

そして頃バンドには「テナーサックスのアサマ」や「トランペットのホリちゃん」という、同じ美大の1学年下の俊英達も参加していた。

夏を前にして、キーボードのミイケは一足先にプロとの活動を始めて、我がバンドを離れた。

オオヤマがキーボードに回り、ギターには我が美大の「スター軍団の一人」ハラが加入した。

そしてもう一人、「スター軍団」からキーボードのモロオカも入った。

我々は2週間に一度、吉祥寺の「分家スタジオ」に入り、オールナイトでファンクを奏でていた、ただひたすらに、ひたすらに、、、。

徹夜の練習が終わると、毎回、私とハルノとコヤマは地方へと遊びにそのまま向かった。

ある日は、目が覚めると「水戸」にいた。

水戸芸術館、納豆、中古レコード、あん肝を堪能した。

この年の夏は、よみうりランド最後の「ジャパン・スプラッシュ」にいつものメンバーで参加し、森田公子と大阪に旅行して大阪ブルーノートで「ミシェル・ペトルチアーニ」のトリオを聴いた。

************************************************************

1990年の夏も終わりの頃、我がバンドは停滞していた。

バンドとしてなんの目標もなく、メンバーは練習を欠席したり、他にバンドをつくったりしていた。

私は心を痛めていた。

追い打ちをかけるように、晴天の霹靂が起きた。

なんとハルノが「世界一周の旅」に出るためにバンドを離れることになったのだ。

困った私はヌマサワに相談すると、「武蔵野ファースト・コール」東京Z大学のフッシーが加入した。
ジャコ・パストリアスみたいなベースを弾く凄いヤツだった。

そして、キーボードのモロオカは、建築学科で二留してまだ学生であった。

ある日のスタジオで、そのモロオカが「芸祭出ようぜ」と提案した。

我々はデモテープにJBのカバーと、オリジナル曲『魅惑のチンボ・チンボ』を入れるとモロオカに手渡した。

直後、11月の芸術祭中央ステージ「午前11時」の出番が決まった。

目標が出来た我がバンドは、離れていたメンバーも戻り、再び活気を取り戻していた。

バンド名は「岩石一家」

スライ&ザ・ファミリーストーンと、コヤマの実家の石材店をかけた名前だ。

1990年の11月2日の午前11時、芸術祭の野外中央ステージ、
ついにバンドはデビューした。

MCも務めるコヤマがステージ登場するや、

「グッッッッッド、イブ二~~~~~~ング!!!!!!」

と、朝11時に絶叫した。

その瞬間、舞台袖で見ていた私は「完全に成功を確信した」。

コヤマの呼び出しを受けて、
私は「命(たま)を獲りに行く『仁義なき戦い〜広島死闘編』の北大路欣也」のような異様なハイテンションでステージに飛び出した。

我々はほぼ1年に渡って溜め込んだグルーヴをステージ上で爆発させた。

朝の11時、ほぼ無人だった客席に、バンドの勢いを聴いて十数人の観客が集まってきて踊り始めた。

我々は十数人の目撃者と共に、初ステージを終えた。

朝っぱらであったが、我々は溜め込んだエネルギーとグルーヴを爆発させた。

ステージ後、軽音楽部の模擬店に集まると皆で記念写真を撮った。

「岩石一家」(とその客)

その顔は全員キラキラ輝いていた。

その一週間後、オオヤマから連絡が入った。

「イワサワー、ライブの話があるんだけど」

場所は、日本のブラック・ミュージック界の殿堂、ライブハウス「ジロキチ」とのことである。

たまたまスタジオのロビーに居たどこかの大学の音楽サークルの学生が、「イベントでバンドが足りないんだよ~」と話していたのを立ち聞きしたオオヤマが、

「いいバンド、ありまっせ!」

と売り込んだとのことだ。

「もちろんやるぜ!」

かくして、1990年の11月後半、高円寺の名ライブハウス「ジロキチ」に「岩石一家」は登場した。

ハッキリ言うが、我々は三多摩の美大コミュニティの「ファンク天才集団」である。

「では、ゲストでーす」

と一般大学の軽い感じの音楽サークルの学生くんに紹介されて登場した我々は、絨毯爆撃のようなライブを繰り広げ、すべてのバンドを軽く喰った。

もはや主役は我々であった。

主催者の学生さんからは「騙された!」とクレームが入り、

「ジロキチ」の担当者からは、

「今度、単独でライブどうですか?」と直接オファーが入った。

ジロキチにて、筆者とコヤマ

(つづく)

※1:「フィッシュボーン」、1979年にアメリカのLAで結成された「元祖」ミクスチャーバンド。来日公演ではフロアをモッシュ&ダイブの熱狂の嵐に巻き込んだ。筆者も何度か参加したが、酸欠でほぼ記憶が無い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?