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南ベトナム大統領 呉廷琰(NGÔ ĐÌNH DIỆM、ゴ・ディン・ジェム)氏のこと ②
南ベトナム大統領 呉廷琰(NGÔ ĐÌNH DIỆM、ゴ・ディン・ジェム)氏のこと ①
大南公司の社長だった松下光廣氏の遺品の中にあった分厚いアルバム帳。その中に挟まれていた和紙に、『奉加帳』の趣旨が書いて有ったそうです。⇩
「謹啓
爾来我が日本に対し深き認識と厚き信頼を寄せて参りました越南共和国大統領呉廷琰氏は、其の崇高なる精神と高邁なる人格に加えて民衆の人望を一身に担い戦わずして一世紀
南ベトナム大統領 呉廷琰(NGÔ ĐÌNH DIỆM、ゴ・ディン・ジェム)氏のこと ①
もう30年も前になりますが、私がまだ日本に住んで居た頃、JR山の手線浜松町駅ビル内の本屋さんで薄いベトナム史の本を手に取りました。その本の内容は、『ベトナム独立の父・ホーおじさんがアメリカ帝国主義の傀儡南ベトナムのゴ・ジン(ディン)・ジェム大統領を倒し、ベトナム独立を導いた!』というような題名で、アメリカの傀儡、独裁者、殺人鬼、云云…『悪の権化・ジェム!!』、そんな内容でした。。。
この呉廷琰
ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~戦前のワクチンの話”の法則~
ベトナム・マクロビオティックの夜明け
またしても本シリーズ前回投稿から3か月も経ってました。😅
ベトナムの独立革命家潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)のお弟子さんだった、英明(アイン・ミン)書館の責任者、呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏(筆名、故人)のご著書、『Ăn gạo lứt muối mè(玄米と胡麻の食事)』の序文にこの様な文章が有ります。⇩
「…食養法とは一体何だろうか?何を主
満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑦ ~初期の植民政策・第二期~
満鉄東亜経済調査局|何祐子|note
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~初期の植民政策・第二期(1897年ー1902年)~
(1)政治改革
ドゥーメルはブールジョア内閣の財務長官を勤めたことがあり、且つ又1895年には植民地の予算報告者として、東京(トン・キン)の財政を研究したこともある経験豊富な急進的改革論者であった。
彼が赴任した時には各植民地とも財政状態は極めて不健全
べト・ミンの実態を追う③😭『民族の誇り』
べト・ミンの実態を追う②🤐『拝金植民地主義エージェント』
1945年4月に誕生したベトナム新政権のチャン・チョン・キム首相が回想する様に、1945年3月9日の日本軍による軍事クーデター『仏印武力処理』=『明(マ)号作戦』決行後は、国内の共産党の活動が大きく変化しました。北部では、「無頼者を送り込み各地で乱暴狼藉を働かせ、奴らは抵抗者を拉致するか眼の前で殺害」したりしたので、一般民衆は恐怖に
べト・ミンの実態を追う②🤐『拝金植民地主義エージェント』
べト・ミンを追え!スペシャル☆パート①😅
先日の記事⇧を読んで頂けた読者の方は、多分疑問が湧いたことと思います。。。それは何故に、ベトナム統一独立を目指すベト・ミン少年らが、祖国の人々を殺戮する事に同意してしまったのか。。。
そのヒントが、前回のパート①の最後部の、ベトナム新政府キム首相と北部ベト・ミン少年の会話中にあります。⇩
「『我々はどんなことがあっても成功する。禍を出しても
べト・ミンの実態を追う①😑『下剋上』
先日の記事『ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~』の続編、~ゴールデン・ウィーク・スペシャル~で更にベト・ミンのその後を追ってみたいと思います。。。
一部のコアな読者の方には人気の連載です。。(”そんな人いないよ…。” ←我が家のJDの声。。😅)
先の記事で分析した『反日べト・ミン3女』のその後。
「親日ベト・ミン長女』と『ソビエトべト・ミン次女
満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑥ ~初期の植民政策・第一期~
満鉄東亜経済調査局|何祐子|note
1,第一期(1885年~1895年)
1889年の植民地会議の結果、完全なる同化政策を採用すべきことが決議され、従って一切の地方的事情は無視され、旧来の伝統的な諸機構は仮借なく破壊されるに至った。そして新たなる機構が生まれ、之に従うことを土民に強要した。…斯くの如き土民の消極的な抵抗の為に、フランスの同化政策は一つの越え難き障壁に当面したのである。
ベトナム南部の ”スカシーバ・ガカ”の思い出” ~私のベトナム備忘録😅~
毎度お馴染み(笑)、私の一風変わったベトナムの想い出備忘録です。。
一昨日位に、こんなネットニュースを読みました。⇩
目撃者が語った「恐怖」…京都・清水寺近くで「桜の木」倒れる…男性が下敷きに(日テレNEWS NNN) - Yahoo!ニュース
桜の木が腐って倒れた…とか、”まぁー、怖いわねぇ。。”で普通は終わりだと思いますが、私はこのニュースを見て、10年前位にベトナム南部のドンナイ
日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その②
日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①
1940年
6月 パリ陥落(フランス本国がドイツに降伏)
9月15日 タイから在バンコク仏大使に4箇条要求
17日 仏印側はこれを拒否
(ドン・ダンの戦が終わり、日本軍が北部仏印進駐開始)
30日 タイ再度要求を申し入れ、仏印再び拒否
タイ・仏印両国陸軍が国境方面へ集結
11月25日 タイ軍が国境
日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①
第2次近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣の時の平和外交『タイ・仏印紛争調停』。日本人にとっては大変誇らしい史実の一つです。
。。。しかし、殆どの日本人は何故か全く知らない。。。戦後日本外務省の強烈な呪いが掛かってます。(笑)😅
今日は、時の外務大臣松岡洋右(まつおか ようすけ)が牽引した、『仏印進駐』(1940年9月)直後の日本が2国間の調停に入って見事成功させた華々しい平和外交を取り上げ
『やっぱり、高台(たかだい)が”神”だったよ~』の記憶 ~私のベトナム備忘録😅~
毎度お馴染み(笑)、ちょっと風変わりな女史だった私のベトナム備忘録です。。(サイゴンの思い出|何祐子)
以前からちょこちょこ書いてますが、亡くなった義父はベトナム南西部省出身で熱心な高臺(カオ・ダイ)教信者でした。義父の生家だけではなく親戚一同もその村全体もカオ・ダイ信者が多く居り、田舎へ行くバス車窓の景色には、『カオ・ダイのシンボル』、ピラミッドの中に左目の入ったマークが付いた教会が沢山目
満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑤ ~フランスのインドシナ征略(2)~
満鉄東亜経済調査局|何祐子|note
フランスが安南王国南部即ち現コーチシナに着々その勢力を扶植していた時、カンボジアに於いては国王ノロドムがタイに操られた王弟シ・ヴォタのため王位を簒奪され、王位回復の機を狙っていた。機を見るに敏なラグランディエールはこの好機を見逃さず、巧言を以て王位回復を条件とし王と保護条約を締結した。一方タイと交渉し、遂に1847年タイがカンボジアより割譲されたバッタ
グエン朝第8代皇帝・ハムギ帝と画家藤田嗣治(ふじた つぐはる)
戦後の日本では全然忘れ去られてますけど、、、
ベトナムは、1945年までは帝政国家です。。。😅😅😅
先日、bossacubana|noteさんのグエン朝第8代咸宜(ハム・ギ)帝流刑後のアルジェリア滞在期に関する記事を大変興味深く拝読しました。⇩
帝国の隔離者(1)|bossacubana (note.com)
ハム・ギ帝は、1885年に抗仏蜂起に起ち、1888年に捕えられた後に
ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~
ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?・続編 ~ホーおじさんのコミンテルン人脈を探る!~
今日はこの⇧シリーズの続・続編。。(お母さん、暇なの~←我が家のJDの声。。。)😅
一応、ネット情報によるべト・ミン情報はこちら。⇩
「ベトミン(ベトナム語:Việt Minh / 越盟)、正式名称:ベトナム独立同盟会(ベトナムどくりつどうめいかい 越南獨立同盟會)は、1941年5月19日に正式に結成
ベトナム志士義人伝シリーズ⑱ ~阮朝フランス通詞 阮徳厚(グエン・ドック・ハウ、Nguyễn Đức Hậu)~
ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note
「1866年西洋留学から帰国したゲアン省出身の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)らが、国際情勢を詳細に述べた上で、一日でも早く政治改革せねば祖国が失われてしまう恐れありと訴状をしたためるが、廷臣らは耳を傾けようとしなかった。」
チャン・チョン・キム篇『越南史略』
1975年までのベトナムの大ベストセラー歴史書、陳仲淦(チャン・チョン