見出し画像

南ベトナム大統領 呉廷琰(NGÔ ĐÌNH DIỆM、ゴ・ディン・ジェム)氏のこと ①

 もう30年も前になりますが、私がまだ日本に住んで居た頃、JR山の手線浜松町駅ビル内の本屋さんで薄いベトナム史の本を手に取りました。その本の内容は、『ベトナム独立の父・ホーおじさんがアメリカ帝国主義の傀儡南ベトナムのゴ・ジン(ディン)・ジェム大統領を倒し、ベトナム独立を導いた!』というような題名で、アメリカの傀儡、独裁者、殺人鬼、云云…『悪の権化・ジェム!!』、そんな内容でした。。。
 この呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏をネットで調べると、現在でも評価は全然変わらずです。⇒ゴ=ディン=ジェム (y-history.net)ゴ・ディン・ジエム - Wikipedia 

 30年前に日本で買ったあの本。あの内容が、”ベトナム正史”として今も堂々と日本のメイン・ストリームを闊歩してる。。。要するに、戦後一貫して日本の教育界、歴史家、メディア界で流されている情報が一致してるんです。私は不思議で仕方ありません、だってこれは、『真っ赤っ赤の大嘘』なのに。😑😑

 30年前にベトナムに移り住み、知り得た真実は180度違ってて本当にビックリした私の結論!!『ゴ・ディン・ジェム氏は、最も偉大なベトナム英雄の一人であり、清廉潔白、慈悲に溢れた素晴らしい統率者』⇒これが、絶対に間違いない真実です。

 ******************

 「1954年ジュネーブ会議で第一次インドシナ戦争休戦協定が締結され、ベトナムは南北に分断。翌年、ゴ・ディン・ジェム氏は亡命先のアメリカからベトナムへ戻り、南ベトナム=ベトナム共和国の初代大統領に就任した。だが、カトリックだったジェム大統領は、アメリカの傀儡として独裁政治を執り、仏教徒を弾圧。これに抗議した僧侶らが焼身自殺するというショッキングな映像が当時メディアにより世界中で拡散され、結局愛国軍人達のクーデターによってジェム大統領と実弟ゴ・ディン・ニューは射殺された」

 ⇧これが、メイン・ストリームによって教えられる大本営発表、あ違った、ヒズ・ストーリー(HIS-STORY)です。。。😅 

 大東亜戦争時、インドシナ駐留第38軍高級参謀だった林秀澄(はやし ひですみ)大佐のインタビューを纏めた神谷美保子氏の著書『ベトナム1945』には、『マ(明)号作戦』の約半年前位からの日本軍とゴ・ディン・ジェム氏の関係・詳細が書いて有ります。⇩

 「 ゴ・ディン・ジェムの庇護

 …この当時は、アンナンで
クオン・デ候を支持するカトリックブロックを組織しようとしていたが、1944年6月にフランス当局は、ジェムの結社を摘発。数十人を逮捕した。ジェムは、フエの横山公使と、当時フエの渉外部長だった久我道男中尉に助けを求めた。以下は林秀澄氏の回想である。

 ”1944年の7月、フランスに逮捕される寸前のゴ・ディン・ジェムがフエの憲兵分遣隊に保護を求めてきた。…林中佐は、親日安南人を匿ったらフランスとの関係が悪くなるので反対だったが、河村参謀長に呼ばれ、憲兵隊が困っているから軍(司令部レベル)で匿うことを考えるように言われる。…林中佐がジェムを匿う理由を尋ねると、軍司令部は当時すでに、ビルマに英軍の空挺部隊がどんどん侵入しており、仏印でもそういうことが起こるかもしれない。こういうときには、安南の民族運動を重視しなければならない。ゴ・ディン・ジェムは、日本の例えば近衛家にも相当する家柄で、王室とも関係が深いし、民族運動の核心人物にするのに適当な人物だから、匿ってやれという。”」
       
  『ベトナム1945』より

 経緯は省きますが、結局「陸軍病院内に保護すること」になり、「飛行機をフエの手前のダナン飛行場に出し」、「軍人、軍属とともにジェムを乗せた飛行機は、夕方サイゴンに着い」てから、「ジェムを陸軍病院に連れて来た」。日付は1944年7月15日。
 以前書いたのは、実はこれは日本側の或る派とクオン・デ候たちの工作だったことが、クオン・デ候自伝のこの記述から明らかです。⇩

 「第18章 東京の現況
 
 …そして今年(1943)は、呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が潘式午(ファン・トゥック・ゴ)氏を代理とし東京へ派遣して来たので、国内活動に関する私の指令を呉廷琰氏へ持ち帰りました。呉廷琰氏は、フエ朝廷政府大臣だったが、フランスのベトナム人弾圧政策に服せず辞職。現在は、秘かに抗仏活動を行っています。」
      
『クオン・デ 革命の生涯』より

 ここから判るように、1943年12月以前にゴ・ディン・ジェム氏の使者が東京に来て、クオン・デ候と打ち合わせしてます。日本軍は、既にその年の2月頃から『マ(明)号作戦=仏印武力処理』実施の為に軍司令部強化に動き出していた。それにより、林中佐が翌年1944年1月に仏印に赴任したのだから、要するにこの流れから判明する背景は、⇩
 『日本軍のマ号作戦実施計画に歩調を合わせ、クオン・デ候とゴ・ディン・ジェム氏の打ち合わせ通り、林中佐赴任半年後にベトナム人側は行動を開始した⇒日本軍に保護される名目で、ゴ・ディン・ジェム氏は林中佐と懇意になった。』
  
 これしかありません。。。何故なら、河村参謀長から指示された林中佐の業務は、「≪マ号作戦≫に備えて、安南の民族主義運動の歴史と、≪マ号作戦≫以後の処理の研究」だったので、ジェム氏が陸軍病院に入院してこれをサポートしたのです。⇩
 
 林中佐は、「…翌年の1945年の1月2日か3日までは、ほとんど毎日、病院へゴ・ディン・ジェムを訪れた。以後、ゴ・ディン・ジェムは、同年3月9日の明号作戦実施と同時に解放されるまで陸軍病院で」過ごした。
 この時に、
 「…(ジェムから聞いて)ベトナムの行政組織は知っているが、…それで佐藤司政官に大使館や図書館で調べてもらった。
 …ゴ・ディン・ジェムに、ベトナムの政治的自営能力について聞いたところ、ベトナムには郷職組織という自治組織があって、…。治安も心配ないと考えて、軍政を敷かないことにした」
と回想してます。
 ここから判るのは、クオン・デ候(+日本の或る派)とゴ・ディン・ジェム氏は、『林秀澄中佐が赴任してきたら、頃合いを見てゴ・ディン・ジェム氏が家庭教師になる』と事前に打ち合わせしてた。それしかない。😅

 この日本軍による軍事クーデター、1945年3月9日『仏印武力処理』、通称『マ(明)号作戦』は大成功でした。。その結果、グエン朝第13代皇帝バオ・ダイ帝が『独立宣言』を発布しベトナムはフランスから独立、『チャン・チョン・キム政権』が樹立されました。
 キム氏の回想録に依れば、元々何の政治活動もしていなかったキム氏は、クオン・デ候が「一切を呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏と黄叔抗(フイン・トゥック・カン)氏に委任した」と聞いていたが、クオン・デ候が帰国しなかったことでジェム氏がバオ・ダイ帝の招聘を拒否した為、渦中の栗を拾う形でキム氏が新政権の首相に就任したのです。この経緯は、チャン・チョン・キム氏の回想録『一陣の埃風』(1969)に詳細が書かれています。

 その後、ゴ・ディン・ジェム氏は日本経由でアメリカへ亡命しましたが、⇩
 「1950年8月22日朝、横浜港にゴ・ディン・ジェムの乘った客船『マルセイエーズ号』が着いた。岸壁に出迎えたのは小松清と彼の妹、大南の松下光廣、西川寛生の4人だった。ジェムは、彼の兄でベトナムのカトリック教徒代表ゴ・ディン・トック司教に引率された米国経由ローマ訪問団に加わっていた。しかし、それは表向きの名目であり、ジェム、トック司教と付き添いの薬剤師カインの3人は日本到着後、ローマ訪問団とは別行動をとる。(中略)
 8月31日夕にはジェムたちの宿舎、福田家でジェムら3人と、クオン・デ、松下光廣、小松清、小牧近江ら日本で最も親しい友人合わせて10人で送別会が開かれ、翌9月1日、ジェム一行は空路、米国に飛び立った。」

         牧久著『「安南王国」の夢』より

 その時に撮られた写真が上の写真ですね、ジェム氏が右から2番目、トック司教が3番目です。
 その後は、1954年に北部ディエン・ビエン・フーが陥落しフランス軍が降伏、5月8日からスイスのジュネーブで休戦会議が開かれた。
 ゴ・ディン・ジェム氏は、バオ・ダイ帝からの再度の帰国要請を受けて6月にベトナムへ帰国、内閣を組閣。ジュネーブ協定が合意されて南北に分断された南部ベトナムに『ベトナム共和国』を成立させました。

 。。。と同時に、『大南公司』と松下光廣氏も蘇りました。⇩

 「…1956(昭和31)年春、サイゴンの終戦前の本社ビルが返還され、再び『大南公司』が設立された。…新政府の中枢には昔馴染みも多く、大統領官邸もフリーパスだった。大統領のジェムにも必要ならいつでも会え、松下はジェムの私設顧問と見られるようになっていく。(中略)
 …大統領官邸を訪れた松下がフリーパスでジェムに会って居た頃、官邸の廊下ですれ違った米国人が、松下に聞こえるように”ジャパニーズ・マツシタ、大統領に女でもお世話する気か”と言った。それを聞いた松下は、「(ジェムは)熱烈なクリスチャンであり、生涯独身を通している。『女を世話してもらう』ような低い次元の人ではなかった。」

         「『安南王国』の夢」より

 南ベトナムは、バオ・ダイ帝が1951年のサンフランシスコ講和条約で調印した『対日賠償請求権』を継承した為、1955年のジェム政権発足後から交渉が再開され、賠償と支援が始まりました。

 この時期に、興味深い話があります。⇩

 「もう一つ、(松下光廣氏の)長男光興が持参した遺品に分厚い一冊のアルバム帳があった。中身は写真ではない。一ページごとにベトナム共和国の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)大統領に対する『祝詞』とサインが施された一種の『奉加帳』といってもよい。
 最初のページは『福壽』と書かれた達筆の毛筆書きの脇に、
 『贈 越南共和国 呉廷琰総統 日本国内閣総理大臣 鳩山一郎』
 以下、『共栄 外務大臣 重光葵』『四隣皆春 農林大臣 河野一郎』『石悲天恵乏 有人工不足 通商産業大臣 石橋湛山』『為萬世開太平 文部大臣 清瀬一郎』、さらに、一万田尚人、倉石忠雄、馬場元治、正力松太郎、永田実など当時の政財界の大物16人の祝詞とサインが続き、その後は空白になっている。これをみると『奉加帳』を回していた途中でなんらかの事情で取りやめとなり、そのまま松下(光廣)が所持していたものと思われる。(中略)
 この『奉加帳』は、そんな時期に、一民間人の松下光廣が、翌年のゴ・ディン・ジェム政権発足2周年を祝う形で、日本政府とベトナム政府を繋ぐ架け橋になろうと奔走していたことを示している。

        牧久著『「安南王国」の夢』より

 この『奉加帳』の作成時期は、どうやら昭和31(1956)年3月頃だった模様。。
 何故、時の日本政府は取りやめにしたのでしょうかね?🤔🤔🤔

 ②に続きます。。。


 

 
 

 

 
 

 

 

 

 


 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?