最近の記事
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑬『年表・第三期(1905年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)死す/留学生の入学斡旋を頼む
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** 『新越南全書』 この時の香港滞在では10日余の空き時間を得たので、以前草稿を書いておいた『新越南全書』を上梓した。本の大略は、吉事10篇と願事6篇から成り、これを千部印刷した。それから、『哀告南圻父老文』を国語(ローマ字化文字)へ翻訳して数千冊印刷し、これら全てを南圻地方の運動資料に向けた。『哀告南圻父老文』の冒頭文がこれだ。 ≪なんと哀
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑫『年表・第三期(1905年~)・ベトナム再帰国/日本・東京へ/西湖(タイ・ホー)翁と≪排君説≫』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ****************** ≪ベトナム商団公会≫の設立 香港では、昔からベトナム人が西洋人の下で沢山働いており、その数はざっと40人以上居た。その内訳は、通訳・秘書は4、5人程度で、それ以外は総じて全員調理人だった。 私は、香港に滞在中、彼等と会う度に駄目で元々だからと声を掛けて、涙ながらに祖国救国の必要性を訴え掛けた。すると、その内の幾人かが熱心に耳を傾けてくれ、徐々に口々に伝わって、段々と彼らの
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑪『年表・第三期(1905年~)・孫中山(孫文)氏との面会/クオン・デ候の出洋/「海外血書」』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ****************** 孫中山氏との面会 こうして、無事に旅館で殷承献君と面会を果たせた。殷君から紹介された雲南省人学生は、例えば、楊振鴻(よう・しんこう)君や趙紳(ちょう・しん)君、唐計堯(とう・けいぎょう) 君等々。これ以降、彼らとの交際が始まって、その縁で、後に『雲南雑誌』が創刊された時に私が編集員となりその雑誌の編集に携わった。 この数日後、犬養毅先生から連絡を貰ったので邸へ伺った
マガジン
記事
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑩『年表・第三期(1905年~)・ベトナム帰国/親切な日本人車夫の話』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** ベトナム帰国 乙巳(1905)年6月下旬。 タン・バッ・ホー氏が横浜に残り、ダン・トゥ・キン氏と私2人で印刷が終わったばかりの『ベトナム亡国史』50冊を引提げ横浜を発ち、祖国へ向かった。 この時の帰国目的は、1)クオン・デ候の出洋を謀る、2)優秀な人材を先に出洋させて、今後の留学生への旗印にすることだった。留学生募集には、何と言っても金銭が必
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑨『年表・第三期(1905年~)・梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い/大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ 梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い その翌日、梁啓超氏に宛てた私の自己紹介書と、それ以外に、 ≪落地一声哭 即巳相知 読書十年眼 達成通家 (=生まれる前から既に十分相知り、書を読み幾年でもう親 戚同然の間柄)≫ この文章を収めた手紙を認めた。 梁啓超氏は、此の手紙の文章を読み甚く感動し、自ら玄関まで出迎えて我らを座に上げてくれた。その時の会談は、タン・バッ・ホー
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑥『年表・第二期(1900年~)・南部行脚/広南(クアン・ナム)の秘密会議』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** 『琉球血涙新書』 一方で、宮廷内に内応者を探し出す目的は未だ果たせて居なかったから、文書で啓発を試みようとし、『琉球血涙新書』を作成した。それを時の兵部尚書だった胡齢(ホ・レ)公 に見せて、ホ公から他部署長官達へ紹介して貰える様に頼んで置いた。 その後、東閣官吏の阮讜(グエン・タン)氏と吏部の阮述(グエン・トァット)氏が面会を求めて来たが、単
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑤『年表・第二期(1900年~)・安世の虎 提探(デ・タム=黄花探)将軍/小羅(テウ・ラ=阮誠、グエン・ハム)翁との出会い』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ****************** 『年表・第二期(1900年~)』 34歳の時。庚子(1900)年は成泰(タイン・タイ)年号12年、私は郷試に合格し、これで漸く天下の傘なる仮面を得た。その年9月に父が70歳で他界したことで両肩の重責が少し軽くなり、これからは革命活動の計画に着手することにした。グ・ハイ氏などの同志達と話し合って、計画を3つに分けた。 1) 旧勤王党及び緑林諸雄と結託し、≪討賊