何祐子

何祐子(が ゆうこ)。1990年代初めにベトナムホーチミン市へ渡航、在住25年以上にな…

何祐子

何祐子(が ゆうこ)。1990年代初めにベトナムホーチミン市へ渡航、在住25年以上になります。戦前のベトナムと日本に関連する資料・書籍の掘り起こしと整理をこつこつとやっています。

マガジン

  • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』

    2024年7月7日に自費出版した『ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』≪インドシナ植民地解放闘争史≫』(日本語完訳)を一部有料で全文公開しています。

  • 古書あれこれ

    ベトナム史以外も。興味の趣くまま書いてみました。

  • サイゴンの思い出

    私のベトナム滞在備忘録

  • ベトナム独立革命家 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)

    フランス植民地だった仏領インドシナのベトナム中部から、武器購入の援助を頼む目的で日本へ渡航してきたベトナム人独立革命家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)。 儒学者でもあった彼は、沢山の書物を書き遺しました。 たった百年前の事ですが、他国による支配の実態は、恐怖と戦慄、驚きに溢れています。歴史は繰り返すという言葉があります。 百年前に日本へ渡航してきたベトナム人留学生、東遊(ドンズー)運動留学生を受け入れて親切にした日本のことを、ベトナム人は今でも感謝してくれています。 ベトナム独立革命家が遺した文章は、当時の日本人の友情への恩返し、そして現代日本人への警告かも知れません。

  • 満鉄東亜経済調査局

    戦前日本の叡智-『南満州鉄道株式会社』附属『東亜経済調査局』発行の書籍から、フランス領植民地(仏領インドシナ)時代のベトナムの歴史を紹介してます。

最近の記事

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑭『年表・第三期(1905年~)・≪越南公憲会≫/フランスの罠/留学生の解散』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ****************** ≪越南公憲会≫  組織としての維新会は、党員全体の共通の会であり、その下に在日本ベトナム人留学生専用機関として≪公憲会≫を設立した。    公憲会の中に経済部、規律部、交際部、文書部の4部を設置した。公憲会会長はクオン・デ候。会の総経理兼学生監督は私、ファン・ボ イ・チャウ。各部毎に3圻(北・中・南)から其々一名を選出した。要するに、4部の構成委員は合計12名だ。

    • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑬『年表・第三期(1905年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)死す/留学生の入学斡旋を頼む

      ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** 『新越南全書』  この時の香港滞在では10日余の空き時間を得たので、以前草稿を書いておいた『新越南全書』を上梓した。本の大略は、吉事10篇と願事6篇から成り、これを千部印刷した。それから、『哀告南圻父老文』を国語(ローマ字化文字)へ翻訳して数千冊印刷し、これら全てを南圻地方の運動資料に向けた。『哀告南圻父老文』の冒頭文がこれだ。  ≪なんと哀

      • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑫『年表・第三期(1905年~)・ベトナム再帰国/日本・東京へ/西湖(タイ・ホー)翁と≪排君説≫』

        ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ****************** ≪ベトナム商団公会≫の設立  香港では、昔からベトナム人が西洋人の下で沢山働いており、その数はざっと40人以上居た。その内訳は、通訳・秘書は4、5人程度で、それ以外は総じて全員調理人だった。 私は、香港に滞在中、彼等と会う度に駄目で元々だからと声を掛けて、涙ながらに祖国救国の必要性を訴え掛けた。すると、その内の幾人かが熱心に耳を傾けてくれ、徐々に口々に伝わって、段々と彼らの

        • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑪『年表・第三期(1905年~)・孫中山(孫文)氏との面会/クオン・デ候の出洋/「海外血書」』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ****************** 孫中山氏との面会  こうして、無事に旅館で殷承献君と面会を果たせた。殷君から紹介された雲南省人学生は、例えば、楊振鴻(よう・しんこう)君や趙紳(ちょう・しん)君、唐計堯(とう・けいぎょう) 君等々。これ以降、彼らとの交際が始まって、その縁で、後に『雲南雑誌』が創刊された時に私が編集員となりその雑誌の編集に携わった。  この数日後、犬養毅先生から連絡を貰ったので邸へ伺った

        ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑭『年表・第三期(1905年~)・≪越南公憲会≫/フランスの罠/留学生の解散』

        • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑬『年表・第三期(1905年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)死す/留学生の入学斡旋を頼む

        • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑫『年表・第三期(1905年~)・ベトナム再帰国/日本・東京へ/西湖(タイ・ホー)翁と≪排君説≫』

        • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑪『年表・第三期(1905年~)・孫中山(孫文)氏との面会/クオン・デ候の出洋/「海外血書」』

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        • ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
          17本
        • 古書あれこれ
          15本
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        • ベトナム独立革命家 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)
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        • 大東亜戦争とベトナム
          52本

        記事

          論文『戸田城聖と折伏大行進』から見る”価値創造の哲学”と”創価教育学体系”とは?

           私の風変わりなベトナム滞在記『サイゴンの思い出』シリーズ(笑)で、先日投稿した⇒『ホーチミン市で会った日本の新興宗教と創価学会の方々』。  ”こんなの、読んでくれる人少ないだろうな~。。”と思いきや、意外や意外?!、いつもより多くの方が読んでくれました。。  考えてみれば、日本の私の実家でも一カ月だけ学会新聞をポストに投函させてほしいという学会員の御近所さんからのお願いは絶えず、ベトナムで血判状(様な手紙)を以て勧誘を受けるという私自身の奇妙な珍体験も有り、、、😅😅 結構

          論文『戸田城聖と折伏大行進』から見る”価値創造の哲学”と”創価教育学体系”とは?

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑩『年表・第三期(1905年~)・ベトナム帰国/親切な日本人車夫の話』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** ベトナム帰国  乙巳(1905)年6月下旬。  タン・バッ・ホー氏が横浜に残り、ダン・トゥ・キン氏と私2人で印刷が終わったばかりの『ベトナム亡国史』50冊を引提げ横浜を発ち、祖国へ向かった。 この時の帰国目的は、1)クオン・デ候の出洋を謀る、2)優秀な人材を先に出洋させて、今後の留学生への旗印にすることだった。留学生募集には、何と言っても金銭が必

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑩『年表・第三期(1905年~)・ベトナム帰国/親切な日本人車夫の話』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑨『年表・第三期(1905年~)・梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い/大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ   梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い  その翌日、梁啓超氏に宛てた私の自己紹介書と、それ以外に、  ≪落地一声哭 即巳相知 読書十年眼 達成通家 (=生まれる前から既に十分相知り、書を読み幾年でもう親 戚同然の間柄)≫   この文章を収めた手紙を認めた。 梁啓超氏は、此の手紙の文章を読み甚く感動し、自ら玄関まで出迎えて我らを座に上げてくれた。その時の会談は、タン・バッ・ホー

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑨『年表・第三期(1905年~)・梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い/大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑧『年表・第三期(1905年~)・出洋の途に上がる/日本到着』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** 出洋の途に上がる  乙巳(1905)年、年号は成泰(タイン・タイ)。この時の私は38歳。1月20日にハイ・フォンから船で出国した。この船中にて、タン・バッ・ホー氏曰く、  「海路にて中国へ入国する方法は2通り。一つは竹山岸側より潜入する方法、即ち中国側防城県(広西省)を通過するが、峻厳な道が続くので人目に付き難い。もう一つは芒街 (モン・カイ

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑧『年表・第三期(1905年~)・出洋の途に上がる/日本到着』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑦『年表・第二期(1900年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ 本の登場人物・時代背景に関する補足説明(7) ****************** 曾抜虎(タン・バッ・ホー)  それから間もなく、北圻からやって来たタン・バッ・ホー氏がテウ・ラ先生邸に到着した。 私と彼の一番最初の面会だった。バッ・ホー氏は年齢40歳過ぎ位で髭の剃跡蒼々と、全身から漲る英気は一瞥して勇猛歴戦の志士だと判った。  お互い座して話を始めると、彼は外国情勢を詳細に語り、

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑦『年表・第二期(1900年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑥『年表・第二期(1900年~)・南部行脚/広南(クアン・ナム)の秘密会議』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** 『琉球血涙新書』  一方で、宮廷内に内応者を探し出す目的は未だ果たせて居なかったから、文書で啓発を試みようとし、『琉球血涙新書』を作成した。それを時の兵部尚書だった胡齢(ホ・レ)公 に見せて、ホ公から他部署長官達へ紹介して貰える様に頼んで置いた。 その後、東閣官吏の阮讜(グエン・タン)氏と吏部の阮述(グエン・トァット)氏が面会を求めて来たが、単

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑥『年表・第二期(1900年~)・南部行脚/広南(クアン・ナム)の秘密会議』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑤『年表・第二期(1900年~)・安世の虎 提探(デ・タム=黄花探)将軍/小羅(テウ・ラ=阮誠、グエン・ハム)翁との出会い』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』   ******************    『年表・第二期(1900年~)』  34歳の時。庚子(1900)年は成泰(タイン・タイ)年号12年、私は郷試に合格し、これで漸く天下の傘なる仮面を得た。その年9月に父が70歳で他界したことで両肩の重責が少し軽くなり、これからは革命活動の計画に着手することにした。グ・ハイ氏などの同志達と話し合って、計画を3つに分けた。  1) 旧勤王党及び緑林諸雄と結託し、≪討賊

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑤『年表・第二期(1900年~)・安世の虎 提探(デ・タム=黄花探)将軍/小羅(テウ・ラ=阮誠、グエン・ハム)翁との出会い』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』④『年表・第一期(1867年~) ・草莽崛起の同志を探す』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ベトナム志士義人伝シリーズ ****************** 草莽崛起の同志を探す  21歳から31歳の10年間は、事実、唯ひたすら息を潜め身を隠していた時期である。大きく分けてその原因は2つある。 家族の困窮状態に縛られたこと。我が家は、高祖の代から4代に亘り一人子が続き、跡取り断絶の惧れがあった。私も兄弟無しの孤独の身、貧乏続きで病身だった老父は、生活の糧を我が子に頼らねばならぬ状態になった。  元来生

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』④『年表・第一期(1867年~) ・草莽崛起の同志を探す』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』③『年表・第一期(1867年~) ・幼少期と我が家族』

            ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ******************    『年表・第一期(1867年~)』  幼少期と我が家族  私の父は潘文譜(ファン・バン・フォ)氏、母は阮氏嫻(グエン・ティ・ニャン)女史。当時の我国は阮(グエン)朝期、元号嗣徳(トゥ・ドック)20年の丁卯(西暦1867)年12月、母は、 母の生まれ故郷乂安(ゲ・アン)省に聳える雄(フン)山の麓、藍(ラム)川流れ入る東烈(ド ン・リェット)社の沙南(サ・ナム)村で

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』③『年表・第一期(1867年~) ・幼少期と我が家族』

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』②巣南(サオ・ナム=ファン・ボイ・チャウ)氏序文 /≪自判の言≫

           ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』 ******************  巣南(サオ・ナム=ファン・ボイ・チャウ)氏序文  海外で生け捕られ、縄で縛られた私の身柄が Hỏa Lò(ホア・ロ)船発着所(ハノイ)に着いた。そして幸運にも、愛すべき我が国民のお蔭で、この先僅かな時間この浮身を生き長ら得ることになった。  既に先に刑を受け、数十年も音信不通だった親朋同志らが、突とし私の顔を見て歓喜に咽び握手を求めた。それらの中には私を愛する人、嫌

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』②巣南(サオ・ナム=ファン・ボイ・チャウ)氏序文 /≪自判の言≫

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』①目次、 英明(アイン・ミン)書館 出版挨拶文

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判 ******************          目次 ・訳者序文 ・潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝 『自判』 (1956, Huế) ‐巣南(サオ・ナム=ファン・ボイ・チャウ)氏序文/≪自判の言≫ ‐年表 第一期(1867年~)  幼少期と我が家族  草莽崛起の同志を探す ‐年表 第二期(1900年~)  安世の虎提探(デ・タム)将軍/小羅(テウ・ラ)翁との出会い  広南(クアン・ナム)

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』①目次、 英明(アイン・ミン)書館 出版挨拶文

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』- 期限付きnote公開

           昨日2024年7月7日は、、、東京都知事選でもありましたが、、、それより何と言っても(?!)、私の自費出版した『ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』≪仏領インドシナ植民地解放闘争史≫』のオンライン発売日、だったんです~。😊😊😊  是非、一人でも多くの方にその存在だけでも知ってもらいたい。特に、今最前線で≪ベトナム≫に関わっている、これから関わろうとしている日本人の方々には、是非興味を持って頂きたいです。  その為、期限付きでここ≪note≫に全文を

          ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』- 期限付きnote公開