見出し画像

チャン・チョン・キム著『 Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』⑧第10章 フランス・ベトナム戦争 / 第11章 サイゴンへ

チャン・チョン・キム著『 一陣の埃風』

****************

第10章 フランス・ベトナム戦争


 私が香港に滞在中、ホー・チ・ミン氏率いるベトナム代表団は、フランスのフォンテーヌ・ブロー会議に出席していた。会議は5月中旬からスタートしていたが、9月になっても何も決まらなかった。フランスで両国代表が議論を交わしている間に、在南部インドシナの最高顧問ダルジャンリュー海軍中将は、恰もベトナムという国家の存在を無視するかの如くに南圻共和国、カンボジア、ラオスの各代表団を集めてダ・ラットで経済会議を開催した。そのこともありフランス本国での会議は益々難航し、結局この会議は何の成果も出せずに9月下旬ベトナム代表団は船で帰国の途に就いた。ホー・チ・ミン氏一人だけは1946年9月14日までフランスに残り、フランス海外省大臣モラス・ミュルテとの間で、暫定協定(Modus vivendi)に調印した。
 この暫定協定は、大枠は以前の予備協約内容に沿ったもので、友好的態度を以て1947年1月までを最終期限として両者は会議を開き、話し合い、条約を決定し締結するというような内容だった。
 暫定協定の署名を終えたホー・チ・ミン氏は、ベトナムへ帰国するためにフランス政府の用意した軍艦に乘り込んだ。しかし、フォンテーヌ・ブローとダ・ラットの両会議を経ても、ベトナム問題は一向に解決されなかった。 
 一月頃、ホー・チ・ミン氏が乘ったフランス軍艦がハイ・フォンに到着するのに合わせ、ベト・ミンが大袈裟な歓迎式典を組織したが、実際はそこに並んだ国民の多くが、日毎に危機的になっていく状況を思って沈み込み、下を向いていた。以前の様に奴隷へ逆戻りする位なら死んだ方がましだと、民意は怒りで蔓延していた。
 
 フランス軍は北部入りしてからも常時臨戦態勢を取っていたから、やはり1月下旬にハイ・フォンでベト・ミン軍との間に衝突が生じたが、ベト・ミン軍は軍備不足で勝てる筈が無く、ハイ・フォンの外へ後退した。それから両軍側から停戦命令が発せられるも、軍隊は相変わらず戦闘を続けていた。
 
 こうした状況が数日間続いた後で、陽暦12月19日を前にフランス側がベト・ミン政府に対し、20日を最終期限として公安局をフランス側へ引き渡すようにと最後通告を送った。これで、既にフランス軍との戦争が避けられないと理解したベト・ミン政府は、万一の勝利に懸けて期限の一日前に奇襲攻撃を仕掛けた。こうして見てみれば、今現在に至るまで仏越戦争がこうも長期化した理由は、フランス側にも一因があったことが判る。1946年12月19日の前には、政府要人やベト・ミン正規軍は全てハイ・フォンから出て行き、一部フランス人やフランスを支持するベトナム人を取り締まる自衛団だけが留まっていた。
 ハノイの自衛団とフランス軍の間でも戦闘が勃発した。フランス軍は市街の住居建物へ爆撃を繰り返したので、自衛団は2カ月に亘って抵抗を続けた後に退避した。市街のハン・ホム(棺桶通り)、ハン・ティエック(錫通り)などはほぼ完全に焼き尽され、家主が避難して不在の家へはフランス兵が侵入して物品を掠奪し、その後から支那人も盗みに入った。自衛軍による放火で私の家があったフォ・ジウ(酒屋通り)も炎に包まれ、私が数十年間掛けて蒐集した大変古くて貴重な書籍が全部燃えて灰に帰した。今になっても、何故彼らが私の家を燃やさなければならなかったのか、その理由が解らない。もしかすれば、我が家の隣家が放火目標であり、それが延焼したのか。或いは、私が従わなかったことを逆恨みしたベト・ミンが、私の家を標的にして放火命令を出したのか。 

 あの時にベト・ミンが執った戦略とは、万一勝てば良し、負けたら退避してゲリラ戦と焼土戦を展開するというもので、要するに住宅を焼き払って、その後に焼野原が残るだけという作戦だ。
 ベト・ミン軍のこの作戦には2つの主目的があった。一つは、敵軍が設営出来る場所を減らすことで、自軍のゲリラ戦を有利に展開すること。もう一つは、市街地住民から稼業や住宅を奪って路頭に迷わせ、以後は共産党へ従う以外に生きる術が無い境遇にさせることだ。だからだろう、この時の戦闘で奴らが破壊した場所は、過去よりそれ迄一度も破壊を受けて来なかった地域ばかりだった。

 ベトナム北部で戦争が勃発したと聞いた時、広州に居た我々は誰もが茫然となり、これからどうしたら良いのか分からなかった。元からフランスの真の目的は、旧時代と変わらぬ主権をインドシナで取り戻すことであり、フランス軍のハイ・フォン、ハノイ上陸の後では、もう隠しても隠し切れるものでは無い。一方のベト・ミンは、再三祖国独立を維持すると国民へ約束した手前、諸手を挙げてフランスへ降伏出来ないから、ダ・ラットやフォンテーヌ・ブローで会議をやった。しかし、内実では策略を用いて互いに欺こうとするばかりで誠意の片鱗も無いのでは、両者の衝突は避けようも無かった。

 あの時の様な状況下に於いて政府中枢に居た官僚たちとは、何を考えていたのか想像するは難しい。ベト・ミンは、自己の利益だけが目的で圧制を敷き、従う者は静かにして置き、従わない者は誘拐し殺害する、従った者でも自分が元々従事していた仕事はさせて貰えない。そして、フランスは、暴力を使って弾圧し、自国が勝つための謀略を駆使する。一部の名利追従者達を除いて、国を愛するベトナム国民であるなら、フランスに従う者はいないだろう。しかし、グエン・ハイ・タン氏など支那に居る革命家は志があっても、実際に彼らでは国家の大事業を担うに力不足なことは明白だった。混乱と困窮の中で我々は、どの方向へ顔を向けても、祖国を救う方策が全く見えなかった。
 
 1947年の一月末頃は、丁亥年旧正月の何日か前だったが、バオ・ダイ氏が広州に来た。北部情勢を非常に懸念していたから、私からはこう伝えた。
 「ベト・ミンは誤りも多く犯してますが、祖国独立の為の抗戦という立ち位置を取り、世論に対する体裁は整ってます。これに反する者を、民衆は支持しません。我々としては状況がどう変転するのか見守りましょう。今は既に戦争が始まってしまったので、勝者、敗者が決まり、情勢がはっきりしてから国の為に何が出来るか考えましょう。」 
 バオ・ダイ陛下は、数日広州に滞在してからまた香港へ戻って行った。
 
 その頃の私は危機的状況にあった。手持ち資金はそろそろ底をつきそうだったが、祖国で戦争が始まったなら今後の資金援助は望みが無い。最後の手段は、サイゴンの友人や親戚の助けを借りて当面を凌ぐことだが、問題はどうやってサイゴンへ戻れるかだ。そんな時、バオ・ダイ氏の使者が突然広州に現れ、要件があるので至急香港へ来られたしと伝言を持って来た。香港に着いた私に、バオ・ダイ氏が言う事には、
 「インドシナからフランス人がやって来て、国事に関して我々との面談を希望している。それで詳細に打ち合わせをしたいと思って貴方にこっちに来て貰ったのだよ。そのフランス人とは、貴方も知っているクソ―氏だ。」

 その翌日、バオ・ダイ陛下と私はクソー氏と会い、北部での戦況や捕虜、死者数について話をした後で彼が言った。
 「フランスの在インドシナ最高顧問は、平和の為に調停に全力を尽くしたが、ベト・ミン側の騙しと裏切りで結局戦争となってしまい、双方で損害が出ている。」
 これに対して、私は言い返した。
 「この戦争は、私が知る限り大部分はあなた達に原因がある。我国ベトナムは元々、北から南まで一つ性質の同一言語と同一風習と歴史を持つ国なのに、あなた達が勝手に分割し、各区域に分け、そして南圻共和国を建てるという挑発をした。あなた達が平和を望んでいないのは明白だ。」

 「それは暫定的な対処に過ぎません。ベト・ミンに従わない地域もあるし、もしベトナムの国家主義者が起って調停の場に出て来れば、フランスは即時に譲歩する用意がある。」
 「現段階で調停が成功するには、全国民から了承を得ることが不可欠です。だが、現状はべト・ミンに従う国民も多く、彼らは抗線戦線に身を投じてもいる。だから、もし結果を出したいなら、国民を納得させることが重要です。」
 「その仕事はあなた方の仕事でしょう。あなた方は愛国者だ、国家を救う努力をすべきだ。今日、現状に於いて、あなた方はフランスが何をしたらベトナム国民が満足するとお考えでしょうか?」
 「フランスは、独立の権利を我国へ返上し、南北統一をさせるべきだ。」
 「統一は可能です。しかし、現状ではフランス政府はそれは考えていない。だから、私からは何とも言えませんが、両国が互いに同意できるような条件を探してお二人から提案して下さいませんか。」
 「それでは、我々でよく検討してから明日返事を致します。」

 
 会談を終えて戻ってから、私とバオ・ダイ氏で話し合って、以下の7項目を纏めた。
 1) ベトナム国の再統一。全3圻地方と、ムオン、モイ、タイ等々の少数民族を含む、トゥ・ドック帝統治以前の通りに国を再統一すること。
 2) 完全独立までは最低条件として完全なる自治権の下、国内の統治に関してフランス人は一切干渉せぬこと。
 3) フランス連邦内に於けるベトナムの立場を明確にすること。カンボジアとラオスとの連合に関する問題は、我々と近隣諸国間の問題である。インドシナ連邦構想に対しては、これはインドシナ総督制度の復活を意味するものであるからこれを拒否する。我々は断乎として、以前の様な総督の職権支配下に2度と入らない。フランスは、今日の現実に沿った精神を以て態度を改め、決して名を変えるのみで旧事実を維持しようとしてはならない。
 4)ベトナムは、独立した国防軍隊を所持しなければならない。
 5)ベトナムは、自主国家の名に相応しい独自の財政機関を設立する。我々は、フランスやカンボジア、ラオス等の近隣諸国の経済的権益に関して調査する用意がある。
 6)フランスは、ベトナムの完全独立の明確な期限を設定すべきである。
 7)ベトナムは、東アジア各国やベトナムと交易権を持つその他の国々と外交交渉を行う代表団を設立する。

 
 この7項目が、私達が1947年頭頃に在インドシナ最高顧問の代理人であるクソー氏へ提示した内容だった。クソー氏は、これを一読してから言った。 
 「フランスは、ベトナムに更に譲歩するでしょう。唯一、6番目の完全独立に関しては今の段階で私から確実なことは言えません。私はそれを話し合う立場にありませんから。」
 これへ私が、
「もしフランスがこの条件に同意ならば、それを明確な形で示して下さい。その上で、元皇帝であるバオ・ダイ氏が直接抗戦戦線の軍隊と平和交渉を開始します。しかし、その際に最も重要なことはバオ・ダイ氏は自由に行動し、一切フランス側からの干渉を受けません。一つだけ頼みがありますが、バオ・ダイ氏の仕事を補佐する人材を何人か香港へ派遣して下さい。」
 と言うと、クソー氏は、
 「この件については諒解ですが、取り急ぎサイゴンへ電信を送り、回答を待ってからにしましょう。」
 と答えた。


第11章 サイゴンへ

 
 クソー氏との会談を終えてから、バオ・ダイ氏が私に言った。
 「こうなれば、実際に現地へ行って直接フランス当局者の意向を確かめるが良いだろう。可能性があると判ればこちらへ戻って来てほしい。今後の詳細な計画を立てようと思う。」
 「クソー氏とは会ってまだ日が無いのに、信じるに足るでしょうか。信じて帰国し、独り我が身に何か遭っても別に大きな問題は無いですが、未だ何も動き出さぬ前にもう騙されたとあっては如何にも馬鹿馬鹿しい。」
 私がそう答えると、バオ・ダイ氏はこう声を掛けた。
 「我が国は今や戦争に突入し大変苦しい状況に陥っているのだ。そこへ、今こうして救国の機会を得られたのに何も動かないでは道理が立たない。どうか、そこをよく考えて下さい。」

 
 クソー氏は、香港に留まってインドシナからの返信を待っていた。私は広州へ戻り、そこで旧正月を迎えた。広州へ戻る前に、私の金欠状態を知っていたバオ・ダイ氏が5百ドルを贈ってくれたが、翌日駅で盗まれてしまった。不運な時には本当に何をやっても不運が重なるものなのだろう。
 
 旧正月が過ぎてから数日経った頃、バオ・ダイ氏の使いが来て、私達家族全員で香港に来るようにとの伝言があった。私達は船で香港へ行き陛下に会ったが、私達を見た陛下は、
 「ああ、来ましたね。実はあれからクソー氏と更に話し合ったのだが、どうも貴方は家族全員を連れてサイゴンへ帰った方が良い。ここにこのまま残って居ても仕方ないでしょうから。」と言った。

 自分一人でも大変だった所へ妻子まで加え、支出が嵩む一方だったが、これでやっと全員で帰国の途に上がり、一か所に落ち着くチャンスが来た。国事に関しては、フランス側は調停の意を固め、ベトナム統一と自治についても同意する意向だというから、我が国人が最後まで戦い尽くしても、得られる結果はそれ以上のものでは無い。そうならば、サイゴンへ戻って正確な状況を確かめ、何か出来ることがあればやれば良いし、無ければそれだけのことで何も問題はないだろう、私はそう考えた。
 その後にクソー氏に会うと、彼は私に、
 「もし貴方がご同意なら、すぐに帰国書類を整えます。次便の出航日をお待ち下さい。我々も全員同便で一緒にサイゴンへ帰ります。向こうへ帰れば住む家もご用意しますし、何の心配も要りません。」
 と言った。私が、
 「私の帰国の目的は、最高顧問に会って真意を確かめてから再び戻って来て旧王へご報告するだけです。何かを始めるのはその後です。サイゴンへ帰ったら、ホアン・スアン・ハン氏やブ・バン・ヒエン氏などの人達に会って意見を聞き、一緒に仕事をしたい。」と言うと、クソー氏は、  
 「それは実に簡単なこと。こちらへはいつ戻って来ても構いません。」
 と返答した。

 
 話は決まり、上海からシャンポリオン号が入港すれば、家族全員で帰国出来ることになった。この時に、上海に居たディン・スアン・クアン氏とファン・フイ・ダン氏が丁度香港へ来たので、彼等に経緯詳細を説明すると、彼らも帰国申請をして一緒に帰国出来ることになった。
 
 出発前にバオ・ダイ氏が、以後の氏宛て書簡の送付方法を指南し、そして私に一通の手紙を預けて、帰国後に王妃の姉であるディエゴ婦人に会って必ずこの手紙を直接夫人に手渡す様にと指示を受けた。
 「向こうへ着いてから、フランス側が私を再びこちらへ戻さない場合はどうしましょうか。」と私が聞くと、バオ・ダイ氏は、
 「彼らが貴方を戻さなくても、私がまだここにいるんだ、心配要らないよ。」と答えた。


 こう尋ねた理由は、私が未だクソー氏の言葉を信用出来ず、更にクソー氏が周囲に対して「キム氏は、あんまり甘い夢を見るなよ。」等と言っていると彼を直接知る人から聞かされていたからだった。一体、私がどんな夢見ると言うのか。私の帰国は、フランス人に誠意があれば国の危機を助けてくれようし、反対に騙そうとすればそれまでだ。名利を得ようと私が何か策謀した訳でも無いのに「夢を見るな。」とは、言いがかりにも程がある。何れにせよ帰国は決定した通りに、1947年2月2日にシャンポリオン号に乗船し、5日にはサイゴン港に到着、翌日6日に陸へ上がった。

 出発前のクソー氏の約束では、サイゴンでの滞在場所が用意される筈だったが、彼は何故か到着後にあたふたするばかりなので、私はサイゴンのチン・ディン・タオ氏という知人の家で一時的に世話になると断ってから自分で車を手配してタオ氏の家へ向った。
 チン・ディン・タオ氏は、フエから戻って来た日から家の戸を閉め切り、何の仕事もしていなかった。私達家族が突然がやがやとやって来たので、彼は相当に驚いたと同時に不安に駆られた様子だった。これ迄の経緯と私達の滞在目的を説明すると、漸く安心した表情を見せた。
 ここへ滞在して数日後、クソー氏から、貸家が未だ見つからないと連絡があったのでクアン氏とダン氏が家探しに出掛けてくれたが、妻は妻の実兄のブイ・カイ氏を探し当てそちらへ移って行った。私一人タオ氏の家に残ったのは、今帰国は内密行動を取り、全ては現地状況を把握し香港へ戻った後でと約束したからだった。何日かして訪ねて来る人があったが、全て拒否して誰とも面会しなかった。 
 更に数日後、当時の政治担当委員ピジョン氏が私を訪ねてタオ氏の家に来た。彼は大変に紳士な態度で以て、香港で我々がクソー氏に提出した内容については自分も同意だが、フランス側の最高顧問ダルジャンリュー中将がフランスへ帰国するから、彼がこちらへ戻ってからでないと話が出来ないと言った。私は、以前伝えたヒエン氏やハン氏、キエム氏らとの面会を再度要請すると、ピジョン氏は後日連れて来ると約束をしたが、その後結局誰も連れては来なかった。

  私の目に映った当時のベトナム国内は、フランス人側に幾つかの派閥があった。名称だけすげ替えて以前同様の主権を取り返したい一派や、11歳を迎えて間もない東宮(=皇太子)を王位に就け王后を摂政に担ぎ出そうとする一派、何とか南部を切り離して自分達が背後で操ろうという一派、そしてその周囲にはどの派閥にも付和雷同して私利を得たいベトナム人の取巻き達が居た。ベトナム人の取巻き連中はそんなに騒々しい存在ではなく、デモか何かで人を集めても大概2、3百人位の民衆しか居なかった。
 ベトナム人側と云えば、まずべト・ミン派、国家主義派、そしてキリスト教やカオ・ダイ教、ホア・ハオ教等々の宗教派の存在があった。最も活動が活発で目立っていたのはベト・ミン派であり、彼等は宣伝、妨害、暗殺等々を一切臆する事無く積極的な常套手段としていた。他の派閥に属す人々は、そんなベト・ミン党を良しとせずも、ベト・ミンが掲げる独立の為の抗仏戦という大義名分の手前、殆どが抗戦戦線へ身を投じた。だが、当時大多数の意見としては、『共産主義には全く同感しないが、彼らは抗戦組織があるから、兎も角戦いに出よう。もし上手く行って成功したら、その時皆で考えよう。以前の様に再びフランスの奴隷になって頭をもたげるのはもう二度とごめんだ。それなら死んだ方がましだ。』というものであり、それ以外にべト・ミンを毛嫌いする人々、ベト・ミンの強権的なやり方に拒否反応を持つ人々の派もあって、実際の国内は様々な党派に別れてお互いにいがみ合ってばかりいた。 
 以前の南部欽差だったグエン・バン・サム氏が、屡々私を訪ねて会いに来ていたから、私は彼に打ち明けた。
 「現在の様な状況なら、フランスと調停しない限り事態は収束しない。けれど、その調停が国家の為となるには、国民同士が互いに堅く団結し合っていなければ無理だろう。そうでなければ、暗にフランス側の策諜の餌食になるだけだ。」
 すると、彼も応えて言った。
 「我ら側が団結したくとも、べト・ミンは団結など思ってもないだろうよ!奴らは単に我々を服従させ、奴らが権力を得る為の手先として使って、それで奴らの共産主義を施行したいだけなんだ。実際は国家の事なんか何も考えてない。これで団結なんかできる訳がないじゃないか。私は、本当に悲しみを感じ失望しているんだ。」

 フランス人はベトナム人の心理を理解しない。巨大な勢力を笠に着て、恐怖を与える目的で捕縛、誘拐、強奪、強姦等をやってのけ、『戦争だよ、戦争!』などと嘯く。これでは、我が民衆の肚の底には憤怒の念が溜まりに溜まって行く。彼らは、『恐怖』に限界があることを知らない。限界を超えて踏み出してしまえば、もう遮るものは何も無いと云うのに。
 片方は凶悪で陰湿だと誰もが知るが、明確な大義名分を拝借している。もう片方は権謀術数に満ちた虚偽者であり、且つ残虐で暴力的で人の道に反している。こんな状況の場所に、どうして平和がやって来ようか。

 
 我が東アジアには、『攻城は攻心に勝れず』という古人が残した思想がある。これは、城塞を攻めるより人心を得る方が重要だという意味だ。フランス人は、暴力で弾圧するだけを知り、人々を敬服させる術を知らなかった。フランス人が雇用する人間は、機に乗じて金持ちになり贅沢したい為に権勢に阿るだけの人間で、義、節度、誠実など全く眼中に無い。そんな連中にフランス人は指示を与えて何かしたつもりか知れないが、それで国民がフランスへ信頼を持つなど金輪際有りえず、ただ憎悪が生じるだけだ。フランス人がこんな失策ばかりを取ったことが、国内でベト・ミン勢力が衰えずに抗戦戦線を維持している原因であろう。
 
 或るフランス人が、
 「もしベトナム人がフランス人を嫌っているなら、フランス支配下の地域住民の数が以前に比べ日増しに増えてるのは何故だ?」
 と、サイゴンやチョ・ロン地区などを例に挙げて不思議がった。確かに、これら地区の戦前人口は50万人位だったのに、1949年には150万人に増加している。だが、これは人々がフランス人を好んでいる証拠ではなく、フランス支配下の都市部も不便と困難は多いが、片方で済むという理由からだった。べト・ミン支配下の地域なら、正しく“一つ首に2つの輪縄”の如くにべト・ミンから弾圧を受けて、更にフランス軍の攻撃も受けるのだから、少しでも苦しみが少ない場所に逃げて来るしかない。都市部に移住して来た人々に聞けば誰もが、「二つより一つの困苦の方がまだましだ。」と答える。一部フランスに追従し利権を得ている連中はそうかも知れないが、皆が皆フランスを慕ってというのが移住の理由ではない。

 
 私がタオ氏の家に滞在して居た時、或るフランス人がやって来て言った。
 「ここの現地政府は豊富な資金と印刷所を持っています。どうぞ事業を始めて下さい。」
 私は勿論だがこう返事をした。
 「ここに来た目的は、フランス側の意向と国内情勢を明確に把握し、戻って旧王であるバオ・ダイ氏へそれをお伝えすることです。何かあれば、全てそれ以降に決定しますから。」

 全く応じる気配がない私に対し、あれやこれやと言い訳を言いながら帰って行った。
 また別の日に、サイゴンの或る新聞が私の事に言及し、フランス人が私をサイゴンへ連れて来た理由は、バオ・ダイ旧王の傍で密某するのを防ぐのが真の目的という主旨の記事を載せていたが、おそらくそれが事実だったのだろう。その頃のフランス人は、バオ・ダイ氏を利用しよう狙っていたので、私が傍に在れば何かと不便だからあれこれと理由をつけてサイゴンへ連れて来た訳だ。私を利用出来そうなら利用し、出来なければバオ・ダイ氏から遠ざけて代わりに自分達の息の掛かった連中を送り込む算段だったのだろう。サイゴンに来る前のクソー氏との約束は何一つ果たされず、面会を希望していた人物達とは誰にも会えなかった。ファン・バン・ザオ氏やチャン・ディン・クエ氏と云った人達が会いたいと訪ねて来ても、私は会わなかったが、一緒に帰国したディン・スアン・クアン氏やファン・フイ・ダン氏は、このクエ氏やザオ氏と一緒に仕事していた。

 
 サイゴン到着直後に、バオ・ダイ氏から紹介されたモロー神父に会いに行った。モロー神父は非常に丁重な話し方をする人物であり、私が、
 「バオ・ダイ旧王から個人的なお手紙を預かってます。ディエゴ婦人に直接手渡すようにとのことですので、ご紹介頂きとうございます。」と言うと、神父は「婦人は現在はダラットにいらっしゃいます。一週間程度で戻られますので、戻られたら貴方へお知らせします。」と言ってくれた。
 一週間位が経過して、ディエゴ婦人がサイゴンに戻ったと聞こえたので、モロー神父の所へ人をやって尋ねて見ると、
 「婦人は戻られましたが大変お忙しく、面会できるかどうか分かりません。」と言い、こう付け加えた。
 「婦人は、ご自分のお孫様だけを可愛がっています。」

 嘗てバオ・ダイ帝時代の官房室長だったファム・カック・ホア氏がサイゴンに居たから、ディエゴ婦人にバオ・ダイ陛下からの手紙を渡したいので面会の可否を婦人に尋ねて来て貰った。ホア氏が戻って来て言った。
 「婦人は政治に携わる人間は面会しないが、キム氏が会いたいなら5分だけ面会するとのことだ。」
 私がディエゴ婦人と面会を希望したのは、バオ・ダイ氏から婦人に直接手渡して欲しいと手紙を預かったからであり、何かを求めての行動ではない。しかし婦人がこんな態度だから、自分では伺わずホア氏に手紙を渡して届けて貰った。こんな些細な出来事にも何か隠密の理由があったようだが、私は詳細は承知しない。
 
 一つ、私が非常に愕然とした出来事がある。それは、フランス支配下のサイゴンに於いて、公然とベト・ミンを支持する論調のベトナム系新聞雑誌が多数出版されていたことだ。或る新聞記者は、『私はベト・ミンの一員であることを誇りに思う。』と書いてあった。ここサイゴンでは、そんな類の新聞に対してどうしてフランス人らは斯くも寛大なのだ?と尋ねても、彼らはただ笑っているだけで、何も答えなかった。
 
 フランス人は、実に掴みにくく、理解に苦しむやり方を取る。ベト・ミンと交戦中なのにベト・ミンの人間を野放しにする。国家側の人間と和平交渉を望むと言い、国家側の人間の行動を妨害する。国家側の人間で反べト・ミンの意志を鮮明にしたグエン・バン・サム氏などは、フランス人から疎まれて、ベト・ミンから脅迫を受けたのだ。私は、彼に会った時にこんなアドバイスをしたことがある。
 「状況は大変厳しい。行動の際は奸計にうっかり嵌められないよう十分な注意が必要だよ。」
 サム氏はこれに応えて、
 「その通りだと私も判ってはいるが、この国難にただ我慢して座って居られない。我々が起ち上って国家統一戦線を組織して、外国に対して抗戦行動の中身が共産ベト・ミンだけじゃ無いことを知らせないと。その手段として、以前に廃刊させられた雑誌『クァン・チュン(=群衆)』を復刊するつもりだよ。」
 私は言った。「それは君次第だが、焦り過ぎては駄目だ。焦りが逆に仕事に支障を来たす事もある。時に、私はもう絶対に何の仕事にも関与しないと決めてるよ。」

 海軍中将ダルジャンリューが、フランス本国へ呼び戻されて解任され、後任にボラール氏が就任した。ボラール氏は、着任後にピジョン氏を在カンボジアフランス委員へ移動させ、ピジョン氏の後任にディディエ・ミシェル氏を政治委員として就任させた。これは、フランス側委員による政策変更の意図の現れだが、私はもう何もしないと決めていたから、タオ氏の家に長居は無用だし何かと面倒に成り兼ねないと思ってブイ・カイ氏の家へ移った。日付は1947年4月29日だった。

 ボラール上級委員がサイゴンに着任して来ても、彼は曖昧な約束を繰り返すばかりで、フランス政府側の意図ははっきりとしなかった。ボラール氏は、地方視察の際に同行したフランス海外学校校長のポール・ミュス氏をホー・チ・ミン氏の所へ派遣して、どうやらベト・ミン側へ降伏を要求したようだが交渉は成立しなかった。その後で今度はフランスへ帰国し、インドシナ平和交渉全権の任命を受け、そして再びサイゴンへ戻って来た。ボラール氏は、ハノイに行きハ・ドン省で演説する用意があると声明を出したが、代理人が明らかにしたその演説内容とは、条件付きでフランス連合内でのベトナムの統一と独立を認めるが、ベト・ミンの武装解除と降伏を最重要条件とするというものだった。この発表は、ボラール氏の新政策にまだ淡い望みを抱いていた国民の期待を見事に吹き飛ばした。

 5月8日。ボラール氏が北部へ発つ数日前、ディディエ・ミシェル氏がタオ氏宅に居る私へ面会を申し入れて来た。ピジョン氏とは、以前2度程会った事があり、その時は他愛も無い会話だったが趣があった。けれど、この時の面談は、実に味気無いものだった。
 「何故、何も行動しないのだ。何を待っている?」
 こう問いただす彼に対し、私は返答した。
 「何の行動です? 私がベトナムに帰って来た目的は、フランス政府のベトナムに対する意図を正確に把握して、それをバオ・ダイ氏へ知らせる為だ。だが、今現在私はまだ何一つ明確に掴めていない。」                       「貴方は、フランス国首相ラマディエ首相の政府声明文やボラール氏の補足声明文をお読みではないのか?」
 「読みました。しかし、あれは単なる演説文でしょう。実際は何も無いと一緒だ。」
 「それなら、貴方の望みは何です?」
 「私は、真の明白なる誠実さが欲しい。それがあって初めて仕事になる。」
 「急ぎの用事があるので失敬。また後日に話しましょう。」


 それっきり音沙汰が無かった。そしてこの日を境に、私は誰一人のフランス人にも会わなかった。これ以後、ファン・バン・ザオ氏、チャン・ディン・クエ氏達の様な人達やその他の人達、或いは南部、中部、北部でも人々がバタバタとサイゴン-香港-サイゴン間を往復していた。
 
 グエン・バン・サム氏もバオ・ダイ氏に会いに香港へ行き、そして帰国して数日後に暗殺された。彼は元来穏和で冷静沈着、真っ正直な人物で国の為に尽くしていた。けれど、扇動者の言葉を不用意に信用し物事を性急に運び過ぎた為に災禍を招いてしまった。真に哀惜の念に堪えない。

 1948年初頭、南折共和国のレ・バン・ホアック氏が辞任に追い込まれ、フランス側はグエン・バン・スアン少将を後任に据えた。スアン氏が首席に就任してから間もなく、今度はチャン・バン・フウ氏が首席に代わり、ベトナム中央臨時政府を設立した。そして、1948年6月5日、ボラール氏とバオ・ダイ氏の会談がハロン湾上で行われ、フランス連邦という枠内に置けるベトナムの統一と独立の確約を準拠した。

 ハロン湾上での会談の後、バオ・ダイ氏は香港を後にして眼の治療の為に英国へ渡り、そしてスイスへ行ったが、その後フランスが旧皇后と子供たちをフランスへ連れて来たので、バオ・ダイ氏もニース近くのカンヌ市にある私邸へ移った。
 グエン・バン・スアン少将が中央臨時政府の首席に就任した時、私は政府顧問の招聘状を受け取ったが、自分自身はもう高齢で弱弱しく持病もある身で、こんな時局に有益な仕事など出来ないと解かっていたからこれは断った。それは私がプノンペンに移って数ヶ月が経った頃だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?