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潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』から想う 『日本の周師太』-- 筑前の高場乱(たかば おさむ)のこと

 7月7月に自費出版したファン・ボイ・チャウ自伝『自判』(⇒ベトナム革命志士 潘佩珠 ファン・ボイ・チャウ自伝 自判を、ここnoteに投稿してから早1カ月になります。予想より大変沢山の方に読んで頂けたので嬉しいです。
 是非、周囲の、特にベトナムの若い方に教えてあげて下さいませんか。😊  
 何故なら、最近のベトナムの若者は、ホーおじさん前の近代史、特にクオン・デ候やファン・ボイ・チャウ、ドンズー運動のことなど、その名を知るのみで抗仏史詳細を能く知らない傾向にあります。今のベトナムの教育システムの中ではあまり教えてないようで、日越両国の友好促進にとっては、実に残念なことですよね。

 さて、一応本を出版する関係上、note上ではそろそろ有料にさせて頂こうかと思います。。。😅😅
 一カ月程無料公開した中で、一番ビュー数が多かったのがこちらの⑰でした。⇩
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑰『年表・第三期(1905年~)・暹羅(シャム=タイ)へ/魚海(グ・ハイ)先生の殉死/恩人 周師太/林徳茂(ラム・ドック・マウ)氏』

  私も、この内容は全部好きで、自分の翻訳文なのに何度読み返しても毎度涙が溢れて号泣します。。😭😭 変な中年おばさんです。

 本国へ武器を送ろうと奔走するファン・ボイ・チャウと、国内で必死に活動するグ・ハイ氏の形相が浮かんで来るようです。その矢先のグ・ハイ氏の殉死。
 “貴様を殺すことは出来るが、俺は同種の人間を射殺などせぬ!”
 
 
グ・ハイ氏の最後の言葉。なんど読み返しても、泣けてくる。

 それと、この⑰のビュー数の高い理由はやはり、『恩人 周師太』とベトナム志士たちの想い出かなと思います。

 「“今皆さんはお困りでしょう。我が家を≪東道主≫としてお使いなさい。何も気兼ねは要りませんよ。”」
 
その日から、「家賃や食費は有れば払うという風で、金額の多寡など気にもせぬ。時たま我ら側で火急の用があって手持ち資金に窮すると、周女史は室内の置物や装飾品を掴んで質屋に走って用立てしてくれた。」 

 
中国で困窮するベトナム革命党の同志達を、我が子の様に接してくれた恩人の周女史のことを、ファン・ボイ・チャウはこう回想してます。⇩

 「今頃は御年80歳を超えるだろう。この恩人から受けた、俗世では有難い誠に奇特な想い出の数々、今でも我等の瞼に焼き付いて離れない。」

 何度読んでも感動。上手い訳だな~、名文だな~、誰の翻訳かな~、あ、ワタシのか。。(笑)
 周女史のこんなエピソードもありますね。⇩

 「一度こんな事もあった。以前に一年位この老婦人の家で世話になった党人が、その後フランス側に寝返って密偵になっていた。或る日この家に立ち寄って、これを贈りたいと申し出て相当な大金を見せたそうだが、話を聞いて行くうちにその金の出所を察した周女史は、烈火の如くに怒鳴りつけた。
 “以前はお前さんらを人間だと思って居たが、今はお前らは犬だ! 犬が私を買収するつもりか!”
 女史の見幕に度肝を抜かれた3人は、2度とこの家の敷居を跨がなかった。」

 ファン・ボイ・チャウが、「滅多に見掛けない程の肝っ玉の据わった婦人」と形容した香港の周女史。
 私は、”似てるなぁ。。”と、いつも頭に浮かぶ日本史上の人物が居ます。それが、筑前の高場乱(たかば おさむ)女史です。⇩

 「…男性でさえ身分差の厳しい封建社会にありながら、男装、帯刀が許された女性だった。(中略)幼少から男として育てられた人も珍しい。ひとつに、眼科医という特殊な家柄もあるが、日本の歴史においても稀有な部類に入る女性ではないだろうか。
 その高場乱は、人参畑塾こと興志(こうし)塾という私塾を開いていた。眼科の治療の合間、塾生に『史記』『三国志』『水滸伝』『靖献遺言』などを講じ、(中略)塾生は荒くれ者ばかりで、興志塾の生徒を往来で見つけると博多の町の人々は姿を消すほどだった。」

         浦辺登著『玄洋社とは何者か』より

 『博多の女傑』或いは『玄洋社の生みの親』と呼ばれるらしいですが、その源流を大正6(1917)年発行『玄洋社社史』から抜粋します、⇩

 「明治8年8月、矯志、強忍、堅志の3社を組織し、大いに民権伸張を論じて気を吐くに虹の如きものあり…茲に矯志、強忍、堅志と云ふ、名同じからずと雖も素より其の実は一なり、其の志も一なり、其の行はんとする所も一なり…」
      
 この⇧『矯志、強忍、堅志』が、後に玄洋社の源流となった、当時の筑前士族青年リーダーらが起こした政社の名です。
 矯志社:武部小四郎(明治10年 福岡の変で斬首)
 強忍社:
越智彦四郎(同上)
 堅志社:
箱田六輔(明治21年 割腹自死)

 この3社の主要メンバーは、殆どが高場乱女史の開いていた『人参畑塾=興志塾』の生徒だったそうで、それ故に『玄洋社の生みの親』と呼ばれてるんですね。
 玄洋社の頭山満氏や、玄洋社黒龍会(創設は内田良平氏)、日本で活動していたベトナムの皇子クオン・デ候の援助団体だったことを考えると、その源流に浅からぬベトナム革命との因縁を感じます。。 

 福岡藩の薬草園=薬用人参(朝鮮人参)の栽培地にあったので、通り名を『人参畑(にんじんばたけ)塾』といったこの全寮制の塾には、風変わりな塾則があったそうです。

一、朝事、親友の吉凶、薪水の外、無断外出禁止。
一、部屋出入りの際は挨拶をすること。
一、夜間を除き、寝転んでの読書厳禁。
一、講義中の雨具着用禁止。
一、庭で暴れるのは良いが、室内では禁止。
一、男色の禁止。
一、食事中は静かに、酒は飲んでも飲まれるな。
一、十分に睡眠時間をとるように。
一、口喧嘩禁止。
一、田畑を荒らしてはいけない。
一、当番は毎朝清掃する事。ゴミを散らかさない。
一、休日は一日、15日、8月23日、
  節句の前後の2晩の帰宅は許可する。

 塾生は皆、筑前でも名うての乱暴者と恐れられ、興志塾の生徒を往来で見つけると博多の町の人々は姿を消す程だったといいますが、上の⇧塾則の「講義中の雨具着用禁止」や、「十分に睡眠時間をとるように」や、「田畑を荒らしてはいけない」などは、どことなく可愛げがありますよね。なんで講義中に雨合羽を着るんだろ。。?(笑)😅🤣🤣
 
 さて、明治9(1876)年の『萩の乱』や、明治10(1877)年)の『福岡の変』の連累者に、この人参畑塾の塾生が多くいた為に、拘引され取調べを受けた高場乱女史は、「塾生を煽動しただろう」と問い詰める法官に対し、毅然と言い放ったそうです。⇩ 
 
 「もし私が謀叛に加わっていたら、あんな失敗は決して招かなかっただろう。彼らの不注意で敏速を欠く行動こそ、私が関係しなかった何よりの証拠である。」
 法官が、「たとえ事件に直接関係しなかったとしても、門下から多数の謀叛者を出したのは、指導が宜しくないからであり、その罪は逃れ得ないだろう」と言うと、

 「私の平生の教育方針が、塾生に事件を起こさせたのが罪であると云われるなら、よろこんで罪を受けよう。然し乍ら、私が塾生の責を負うのであれば、いやしくも天皇陛下の命を奉じて福岡県民統治の任に当たりながらその管下から多数の謀叛人を出した県令渡辺清の責任は私の比ではない。直ちに渡辺県令の罪を正し、私の白髪首と共に梟木に掛け、法を明らかにされたい。」
         頭山統一著『筑前玄洋社』より

 これを聞いた法官は、黙り込んでしまったそうです。。
 今ならば、、どこかの新聞記者様が、兵庫県知事の定例会見にてこの逸話を例に挙げて、知事に質問して見て欲しいところです。。😅😅

 高場乱(たかば おさむ)女史は、天保2(1832)年生まれで 明治24(1891)年没。
 香港の周女史は、ファン・ボイ・チャウが自伝に「今頃は御年80歳を超えるだろう」と書いているので自伝執筆時期から逆算すると1850年前後の生まれと思います。

 乱世にありて、義に生きる志士を教え導く女傑。
 香港に周師太あり、筑前に高場乱あり。


 『自伝』のお蔭で、堂々と言えます。😊😊
 
 

 

 

 

 
 
 

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