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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑰『年表・第三期(1905年~)・暹羅(シャム=タイ)へ/魚海(グ・ハイ)先生の殉死/恩人 周師太/林徳茂(ラム・ドック・マウ)氏』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム志士義人伝シリーズ

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暹羅(シャム=タイ)へ

 己酉(1909)年2月、私とクオン・デ候は、2人同時に日本政府より国外退去処分を喰らった。クオン・デ候は24時間以内、私は一週間以内という条件付きで、遅延は認められなかった。これも、日仏協約締結の影響だ。 私は、支那か或いはタイへ行くか現実的に考え始めた。クオン・デ候は先に香港へ向け出国し、同時にベトナムへ密書を送って、志ある篤志家らへ欧州旅行費用の為にある程度纏まった金額を送金して欲しいと伝えていた。私も後から香港へ渡ったのだが、香港は取敢えず長屋の小一間を借り受けて、マイ・ラオ・バン翁、ルオン・ラップ・ニャム君と一つ屋根の下で同居した。この頃にグ・ハイ氏へ手紙を送って、解散令後に日本を離れた学生がタイに滞在して時節の到来を待ちながら農業をやって居ること、故に在タイ同胞と連絡を取る良い機会だから、手土産に使う纏まった資金を送金されたしと連絡した。
 私はそれ以前、戊申(1908)年の春夏頃か、公憲会が設立して学生の処遇も落ち着いて気持ちも軽やかになったこともあり、将来益する外交関係を求めて一度タイへ赴いたのでバンコックに滞在経験があった。 その頃は、現国王の父君であるタイ老国王が国家元首として最も権威ある人物であった。老国王は政治に対する慧眼を持ち、欧州各国を周遊、越泰関係にも注意を払っていた。 私がタイ行きを準備していると、大隈重信伯が私に、当時タイ政府の法律顧問大臣としてタイに駐在していた日本人の法科博士佐藤賀吉氏への紹介状をくれた。この紹介状のお蔭で、タイ到着後は佐藤博士の口添えで直ぐさまタイ国王に謁見を許された。国王は、 私の訪問を大変喜び、お陰でタイ国外務大臣にも会談が叶い、更に王の叔父にあたるタ イ王族の某親王からも礼厚く丁重な歓迎を受けた。これ以後、久しく彼等と親しい関係を続けることが出来たのも、偏に国王の御内意の賜物だった。
 タイは元より君主国家、そして19世紀の真ん中にあって独立国の立場を守れて居るのは、何より国王お一人の力のお蔭だという訳で、タイでは国王の存在は最も重要視されていた。内政も外交も国王が決定し、臣も民も何一つ自分で決定できなかった。 親王より、我々のタイでの農業計画に対して快諾を頂けたので、年明けからダン・トゥ・ キン氏、ダム・ゴ・シン氏、ホ・ビン・ロン氏や、その他党員が続々とタイに集って来た。この頃から、我党の農地開墾事業はスタートしていた。

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