ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?①
今日は、1975年以降のベトナム人社会最大の”タブー”、ホーおじさん=ホー・チ・ミン(胡志明、Hồ Chí Minh)氏は、本当は誰なのか? に迫ってみたいと思います。
暇に任せてあちこちの書籍記述を繋げて見ると、こんな答えになるなぁ…というあくまで私個人の一考です。。。念の為。。。😁
ホーおじさん=ホー・チ・ミン(胡志明、Hồ Chí Minh)氏とは、ベトナム南部の大都市ホーチミン市の名に冠される事からも判る通り、現代ベトナムに於いて最も有名なベトナム人革命家、国家的大英雄です。
公式史料に依れば、ホーおじさんは1890年生まれ、1969年没。享年79歳ですね。死後の遺体はホルマリン漬けにされてハノイのホーチミン廟に安置されてます。。。😵💫😵💫
えーと取敢えず、現政権のベトナム共産党の大本営発表…、じゃなかった(笑)🤐、公式見解・評価を、ホーおじさんのWikipediaから引用します。⇩
「ホー・チ・ミン(胡 志明、ベトナム語:Hồ Chí Minh / 胡志明 : 1890年5月19日 - 1969年9月2日)は、ベトナムの革命家、政治家。植民地時代からベトナム戦争までの、ベトナム革命を指導した建国の父である。初代ベトナム民主共和国主席、ベトナム労働党中央委員会主席。」
これ⇧は――、ちょっと時間的に無理がありそうです。。。😑😑
何故なら、「植民地時代」開始期を天津条約締結の1885年とすると、ホーおじさんはまだ出生前で、更に20歳になった1910年頃は、同郷の先生潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)やクオン・デ候らの東遊(ドン・ズー)運動留学生は日本退去、各地に離散した頃です。この頃、ホーおじさんは一体何してたのかと言えば、⇩
「 阮愛国氏は、やはりゲアン省出身で、幼少から儒語(漢語)を学び潘佩珠から多くの影響を受けました。19歳の時(1909)に家を出てフランスに渡り、船夫としてイギリス、アメリカへ航海します。船員達の中にフランス共産党党員が大勢いた為、阮愛国も共産主義者となっていき、パリへ行くと小さな写真屋を開きながらマルクス主義の研究を始めました。」
『クオン・デ 革命の生涯』より
大本営、あ違った🤐、公式見解に拠れば、ホーおじさんの名前変遷は阮必成(グエン・タッ・タイン)→阮愛国(グエン・アイ・コック)→胡志明(ホー・チ・ミン)で、大雑把に時代を区分するとこのような感じ。⇩
①ゲアン省で潘佩珠が開いて居た儒語寺子屋で学んでいた頃 →阮必成(グエン・タッ・タイン)
②19歳で船乗りとなり、フランスに渡って以降
→阮愛国(グエン・アイ・コック)
③1945年8月「再・独立宣言」を発布した日以降
→胡志明(ホー・チ・ミン)
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』には、静岡の浅羽佐喜太郎(あさば さきたろう)から貰ったお金を元手に在日中国革命党員や日本平民党の大杉栄(おおすぎ さかえ)、堺利彦(さかい としひこ)、そして宮崎滔天(みやざき とうてん)達やアジア各国の革命家と『東亜同盟会』を結成した事が書いてあります。
その参加者の中に朝鮮人の趙素昴(ちょう・そこう)氏がいて、彼のことを、「通常はアメリカ在住、阮愛国(グエン・アイ・コック)とも面識があった人物だ」とファン・ボイ・チャウは書いてますので、ホーおじさんこと阮愛国が船乗りになって極く初期にアメリカに居たことは間違いありません。
そして、その後のフランス時代の阮愛国(グエン・アイ・コック)を知る人物に、フランス文学者で作家の小松清(こまつ きよし)がいます。⇩
「1921年10月、小松清がパリに留学して一カ月ほど経った頃、彼はフランス共産党系の政治集会に参加した。その集会で「君はシナ人ですか」と小松に囁いた東洋人がいた。その青年はベトナム人、阮愛国と名乗った。小松より5,6年長の25,6歳だった。これをきっかけに2人はその後、しばしば会うようになる。彼はモンマルトルの小さな写真屋の屋根裏部屋に住み、写真の修整の仕事をしながら共産党機関紙「ユマニテ」に記事を書いていた。」
『安南王国の夢』より
阮愛国と小松清は、パリで一年間くらい友人関係にあったそうです。その後、阮愛国はモスクワへ行き「コミンテルンで安南代表の執行委員になった」とあり、そのことは、T.Eエンニス著の『印度支那(インドシナ)』にも書いてあります。⇩
「1923年、モスコウを訪れ、世界農民協議会には安南代表として出席した。ロシアに数年間、留まって研究生活を続け、革命戦術を体得したうえ、広東に派遣されて、其の地のソビエット領事館の出版部員となった。」
同じ様に、クオン・デ候も自伝の中で、
「この頃、阮愛国はコミンテルンから資金提供を受けて、ボロージンの指示で仕事をしていた」
と書いてますので、ここまでの、アメリカ(船乗り)→フランス(フランス共産党、フラン・マソン加盟)→モスクワ(コミンテルン)→広東(ソ連領事館)までの足跡は、様々な方の書籍の記述が合致しているので間違いないと思います。
広東勤務の後は、T.Eエンニス氏によると、ロシア(ソ連)へ。
「この地(広東)において彼は、被圧迫民族解放同盟及び、安南革命青年協会を組織して活躍した。漢口ソビエットが、1927年、蒋介石によって弾圧された時、阮愛国は、ボロージン及びガレン将軍に随ってロシアに入り、彼の地で印度支那共産党の組織を始めたのである。」
ここからが、苦難の道だったようです。
「上海或いはバンコクで猟奇的な逃走を続けた彼は、漸くにして印度支那に入り、そこで主要な都市における労働者の組織に取り掛かった。ところが1931年、香港に赴いてソビエット極東局と連絡しようとしてイギリス官憲に捕えられ、2年の禁固に処せられた。1933年、彼は解放されたが、」
ここで、T.Eエンニス氏は、はっきりこう書いています。⇩
「彼は釈放されたが、既に身体は結核菌に冒され、廃人になってしまった。」
そうこの頃、阮愛国(グエン・アイ・コック)は「結核で死亡した」と、多数の書籍に同様の事が書いてあるのです。⇩
「小松清はそれまで、グエン・アイ・コックは1930年代の初めに、香港の療養所で肺結核のため死んだ、と聞かされていた。1941年に初めて訪れたハノイで、独立運動家たちに彼の生死を確かめている。」
『安南王国の夢』より
「ホー・チ・ミンは、北部の難民キャンプで伝染病のため死亡したという原文のフランス側の情報を、掃討作戦を持つ軍関係者に日本語に翻訳したという当事者(=大倉雄二氏、第38軍で仏語の翻訳担当、ホー・チ・ミン死亡の情報を訳した)の記述もある」
『ベトナム1945』より」
そしてこれ以外になんと、クオン・デ候が肺結核で香港で入院していた阮愛国(グエン・アイ・コック)に病気見舞いの手紙を送っているのです。手紙の日付は1931年12月7日、原本はフランス海外領土省に保管されています。手紙の文面には、
「同志の君に早く回復してほしい。祖国の事業の為に。」
と書かれています。
要するにこの時期、『阮愛国(グエン・アイ・コック)重い肺病説』は周知の事実だったのだと思います。
多数の書籍記述を総合すれば、どうやら1931年頃に香港で肺病に罹り、1933年頃は廃人同様(その後死亡)というのが定説だった模様。殆どの人が1945年の8月25日頃まで、阮愛国(グエン・アイ・コック)死亡の定説を信じて居たようです。⇩
「その名は私には晴天の霹靂のように響いた。あまりにも思いがけぬ人の名であったからである。「――ホーチミンが阮愛国だった、そりゃほんとか?」と私はオウム返しにきいた。」
小松清著『ホーチミンに会うの記』
日本の敗戦と同時に『再・独立宣言』を発布したのは、聞き慣れない名の人物である胡志明(ホー・チ・ミン)。でもそれが、実は元は阮愛国(グエン・アイ・コック)だと聞かされた小松清は「晴天の霹靂」のように驚いた訳です。そりゃそうだ、誰もが死んだと思ってたんだから。
ベトナム人歴史家陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の回想録『一陣の埃風』にも、1945年5月頃のハノイでのことが書いてあります。
「ハノイで反日を掲げたべトミンの青年が日本人に捕まったという情報が入り、状況確認の為に私はフエからハノイへ飛んだ。
…べトミン党はどんな党か、どうして出たのか、どこが源流かなど、殆どの人が能く知らなかった。この時ハノイへ行って詳しく聴き取りしてようやくはっきりその正体が解った。」
そして、この反日団体『ベトナム独立同盟=べトミン』を1936年頃に組織したのが、阮愛国(グエン・アイ・コック)を名乗る人物だという情報を得たのです。
死亡が定説だった人物が生きてたのだから、キム氏も相当驚いた筈です。この時に現地で得た、阮愛国(グエン・アイ・コック)に関する詳細な情報というのがこちら。⇩
「…阮愛国は、”香港の獄で死亡”という誤報の後、李瑞(リ・トゥイ)と変名し、中国に居たベトナム革命党の人間と一緒に中国で活動していた。…『国民政府(国民革命)軍』の指揮官、張発奎(ちょう・はつけい)が、中国南部に居たベトナム人を纏めて『ベトナム革命同盟会』を設立したこと、そして、張発奎の部下の候志明(こう・しめい)少将に感銘を受けた阮愛国(=李瑞)が柳州市監獄から釈放後に、胡志明(ホー・チ・ミン)と名を変えてベトナム革命同盟会に『後補委員』として参加」
うむむ。。。何やらこの辺りから話が急に複雑になってきます。。。😵💫😵💫😵💫
②に続きます!
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