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仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)で起こった軍事クーデター、通称「明(マ)号作戦」のこと その(1)

 戦前、当時の仏領インドシナ連邦(詳細はこちら→仏領インドシナ連邦の基本情報|何祐子|note )のベトナム・カンボジア・ラオスで、日本軍による軍事クーデター(=仏印武力処理)、通称『明(マ)号作戦』が決行されました。日付は、1945年3月9日です。
 こんなに大きな事件にも拘わらず、日本人でこの存在を知る人は殆どいません。ベトナムでビジネスに携わる人、働く人、伴侶がベトナム人の人等々、全然知られてません。。。😅何故でしょうかね?
 ホー・チ・ミン(胡志明)氏、通称ホーおじさんのことは、皆さんご存知だと思います。1945年からベトナム民主共和国(北ベトナム)の国家首席として、戻って来たド・ゴールのフランス、続けてアメリカ帝国主義(と傀儡南ベトナム政権)と戦ったとされる、ベトナム独立の象徴ですネ。1975年にサイゴンが陥落しアメリカに勝利してから、南部都市の名前が旧来の『サイゴン』改め『ホーチミン市』に変更されました位凄い人、なんですよネ。

 そのホー・チ・ミン氏の北ベトナムと我が日本も、1945年からかなり面白い仲にありますけど、この”奇妙な仲”は、後日別途纏めるとして、今日は『仏印武力処理』通称『明(マ)号作戦』です。
 まずは、日本軍が当時仏領インドシナ連邦で決行した〈明(マ)号作戦〉について、ホーおじさんはなんて言っているのでしょうか?ホーおじさんの公式見解を見てみたいと思います。1945年9月2日のホーおじさんの『再・独立宣言』全文訳がこちらのサイト→ ベトナム独立宣言(和訳付き) | ベトナム生活情報サイト VIETJO Life(ベトジョーライフ) (viet-jo.com)にありました。そこから該当部分を抜粋してみます⇩

 「1940年の秋、(中略)日本のファシストがインドシナを侵略し」
 「今年の3月9日、日本はフランス軍を武装解除しました。」
 「実際には、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです。」

 む、むむむ!!!ですね😅💦 一応、この辺りの歴史背景を補足説明しますと、「1940年からフランスを駆逐してベトナムを侵略していた日本ファシスト(→北部平和進駐のこと)が、1945年3月9日軍事クーデター(=マ号作戦のこと)を決行し、傀儡の陳仲淦(チャン・チョン・キム)(陳仲淦に関してはこちらをどうぞ→ベトナム語の歴史本『越南史略』|何祐子|note 陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。|何祐子|note )政権を立ててベトナムを乗っ取った。だから、原爆投下で日本が敗戦した8月15日が目出度くベトナムの(日本からの)独立だ。だから、ベトナム独立記念日を『8月革命』と命名した」と言いたい訳です。
 えええええ、うっそー-?と思われますでしょうか。。。
 ベトナムが日本から独立した?? 驚く方も多いと思いますが、実際ベトナムの公立学校では、正式に歴史授業でずっとそう教えています。私の娘(日越ハーフ)は、現地の小学校に通っていましたが、お母さんが日本人だというだけで、いつもちやほやされて大人気、毎日楽しく学校に行っていました。それが、ある日しょぼー--んとして帰って来た日があります。理由を聞きますと、「今日ね、世界史の授業で、戦前の日本はファシズムで、残虐な国家で、ベトナムを侵略していたから、ベトナムはフランスからじゃなくて日本から独立したんだって勉強したの。そしたら、お友達が皆いつもと違って今日はお話してくれなかったの。」と寂しそうにしていました。

 しかしです。こちらの記事→仏印ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その(1)|何祐子|note にも書きましたが、1940年9月のドンダン・ランソン進攻時、先導役だったのはクオン・デ殿下の『ベトナム復国同盟会』の『ベトナム建国軍』です。総司令官はベトナム北部出身の陳忠立(チャン・チュン・ラップ)大尉。事前にこの建国軍による「仏印軍(=雇われベトナム兵)への帰順工作もあり、そして地元民から現地の日本軍へのご飯の差し入れもあり、現地の安南兵らは日本軍に対して『カム・オン・ジャイ・フォング(Cảm ơn giải phóng、解放有難う)』と言ってくれたそうなんですね。    
       伊藤桂一著『鎮南関をめざして』より

 そして、第5師団のドンダン・ランソン進攻直後に『松岡・アンリー協定』が締結して『平和進駐』に成功した後は、日本軍(と建国軍一部も)は即座にまた広西省まで後退しました。その後現地に残り治安を守ったのが、『ベトナム復国同盟会』の『ベトナム建国軍』でした。
 北部進駐へ来た日本進駐軍は、『援蔣ルート監視』が主な任務で、『松岡・アンリー協定』に則って『静謐保持』と、フランス政府の仏印主権維持を明確にしました。当時の陸軍大臣は、東條英機陸相ですから、潔癖過ぎると揶揄された位の東條陸相ですので、仏印駐留軍の軍紀・静謐保持厳守は誠に厳しかったことが想像されます。

 そして、最も痛快なのが『南部進駐』時のサイゴンです。南部進駐が開始された1941年7月後半頃から、続々と日本軍の軍艦がサン・ジャック岬(=現在のブンタウ)からサイゴン川に入っていくと、「河の両岸に安南人が集まって来て船と一緒に岸を走りながら歓声を上げ」、野次馬相手の屋台が出て、押すな押すなの大盛況。「サイゴンに碇泊した日本の軍艦が主砲を操作しているのを見て拍手喝采した安南人がみな逮捕留置された」(『包囲された日本』より)そうで、野次馬に対して警官が必死に鞭を振るって追い散らしていたそうです。やはり協定を結んだとは言え、フランス側も日本人気にジェラシーです。

 まあ、実際の現地の状況はこんな感じだったようですから、ホーおじさんの『再・独立宣言』の内容から想像しますと、どうもホーおじさんはこの時サイゴンにいませんね、そんなの全然知らない、という感じです。そういえば、戦前のアメリカとかフランス書籍を読んでいますと、『阮愛国(グエン・アイ・クオック)』は死亡』という記述を割りと頻繁に見掛ける理由がこれなのかなぁ? けれどこの辺りはよく判りませんので、とにかく1940-1941年頃は、何処かで死んだように眠っていたとしか思えないホーおじさんの『再・独立宣言』でした。
 しかしです、なんだー、ホーおじさんの勘違いかぁー、と楽観できないんですよね。そのお蔭で、現在に至るまで、ベトナムの学校では、『日本軍の不思議な話』が『正史』として教科書に載っている主原因かな、と思うからです。(しかし!💦💦💦。。。なんで日本外務省は抗議しないんでしょうかね?😅😂😂)
 「ファシスト(Fascista)なんてイタリア語で、ファッショ(Fascio)が語源の『連帯主義』じゃん、日本がなんで関係あるの?それを言うなら、『大日本帝国主義』とか『帝国主義』じゃない?」と、⇧で娘に聞きましたら、「そんなこと、先生は知らないよ…」と返されました。むむ、、、先生が知らなかったら、田舎主婦の疑問は一体誰にぶつけたらいいんですかね?(笑)
 
 とにかく、日本とベトナムは、今も昔も常に助け合い励まし合って来た間柄なんですから、万が一、今後世代交代によりこの変な『正史』を学んだベトナム人が政府の要職でも占めるようになれば、大問題でしょう。『キテレツ話』が、気が付いたら『本当の話』にすり替わっていた、、、とか、笑えない状態にならないとも限らないと、日越ハーフの娘を持つ一主婦の私は、最近密かに危惧しています。。。今はこの話を友人にすると、「まさかぁー-、あの親日国のベトナムが」と、眉にツバする人が殆どです。私も勿論、取り越し苦労になることを願っています。けれど、もし日本側も世代交代で『史実』を『過去』を知らない世代が大半になれば、この危惧は急速に現実味を帯びて来る可能性も否定できません。ですので、史実を明確に整理し伝え続けて行く事で、もし今後日本の若者が『戦前ベトナムでの日本軍の妙な話』に出会った時、「あ、それ勘違いですよ。」と、さらっと詳しく、真摯に相手に教えてあげるのがやっぱり親切かと思います。本当の友好が生まれる瞬間だと信じています。
 
 前置きが長くなってしまいましたが、1945年3月9日に日本軍が当時の仏領インドシナで決行した『仏印武力処理』、通称明(マ)号作戦の詳細に入ります。参考資料は、神谷美保子氏の『ベトナム1945』です。
 この本に関しましては、以前何度かご紹介していますので、宜しければこちら→ ベトナム国旗の“風変りな”話 |何祐子|noteをご覧ください。2005年発刊の『ベトナム1945』は、当時のインドシナ駐留軍第38軍高級参謀の林秀澄大佐の証言インタビューを元に纏められています。1957年旧サイゴン発刊のクオンデ殿下の自伝『クオン・デ 革命の生涯』(詳細はこちら→ 本の登場人物・時代背景に関する補足説明(8)-ベトナム王国皇子 クオン・デ候のこと|何祐子|noteを御覧ください。)記述と内容がほぼ一致する為、史実として私が最も信頼している本の一つです。では、1945年3月9日の仏印武力処理明(マ)号作戦前後の史実詳細を見て行きたいと思います。⇩

  1945年の日本によるクーデター〈マ号〉或いは〈明号作戦〉とは、「ドク―(仏印現地)政権を廃したばかりでなく、インドシナにおける80年にわたるフランス支配に終止符を打ち、日本の「アジア人のアジア」という原則に新たな意義をもたらした」、「それ以後フランスは、2度と戦前の権威を取り戻すことはなく、そしてついには、9年間戦争(1945-1954)で血が流された後、永久にインドシナを去らなければならなくなった。」 
 ⇧まず、こちらの文章を、ベトナム人の研究者チウ・グ・ブ氏による1984年の論文から引用します。

 この〈軍事クーデター〉の呼称の経緯は、⇩
 「かなり早い時期から計画されていた奇襲作戦の秘匿名」で、「当時の日本軍部では〈仏印処理〉または〈仏印武力処理〉と呼称」されていました。「1945年3月9日の作戦実行の直前に、新任の軍司令官により作戦名が〈明号〉と改称されたが、(中略)実質的に〈明号作戦〉は〈マ号作戦〉を土台としている」そうです。
 北部進駐時(1940年9月)に「印度支那派遣軍司令部」を設置。その約1年後の1941年11月(南部進駐後)に「印度支那駐屯軍」として再編されて、その軍司令部がサイゴン(町尻量基軍司令官)、軍の渉外部は在ハノイ渉外部支部は在サイゴンに置かれました。

 1943年2月、印度支那駐屯軍河村参謀長から、「フランス語の出来る〈マ号作戦〉実施〉要員」として白羽の矢が立ったのが、林秀澄中佐(後に大佐)です。1944年1月15日、林中佐に「インドシナ駐屯軍司令部付き」内命が下りました。サイゴンに赴任した林中佐を現地で迎えたのが、神谷憲三中佐(インドシナ駐屯軍司令部渉外参謀、日本大使府付陸軍武官)で、「ベトナム1945」著者の神谷美保子氏のお父様でした。
 「〈マ号作戦〉に備えて、安南の民族主義運動の歴史と、〈マ号作戦〉以後の処理の研究」が林中佐の任務でした

 初めに結論を言いますと、『仏印武力処理=明号作戦』は大成功でした。→ ですが、実はこれは当然の結果だと思います。なぜなら、「〈明号作戦〉実施の際、欠く事のできない協力者」が、ほぼ全方面にベトナム側に居たからです。⇩
 まず、1)「ベトナムの独立運動の動向に大きい影響力」を持ち、「日本軍部、外務省筋などの当局、松下光廣(大南公司社長)などと直接関りを持った」復国同盟会統領のクオン・デ殿下。2)「クオン・デ候を支持するグループや活動家」と合流して「フランス側の厳しい弾圧を逃れた活動家たちのノン・コミュニスト」たち。(→広州などに居た復国同盟会幹部たち等々のことですね。詳しくはこちら→ 仏印ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その(2)|何祐子|noteをご参考下さい。)3)「1934年から1941年にかけて、クオンデ候と連絡をとって」いた「政治的影響力の大きい」カオダイ教徒。4)「クオン・デ候を擁立する「復国同盟(会)」が、「大越同盟」他、多くの政治結社と結んで親日路線を取った」こと。5)カオダイ教徒の他「ホアハオ教徒も強力に支持」したこと。6)「ゴ・ディン・ディエム(呉廷琰)のカトリック・グループもクオン・デ候を支援した」こと。7)インドシナ派遣軍の支援を受けた愛国団(当時北部最大の政治団体)のブ・ディン・ジー(武廷遺)がクオン・デ候の下で親日路線を取ったこと、等々。

 ⇧ このような環境ですと、まあ、まず成功しない訳ないと思います。私は特に、30年近くベトナム人の夫と家族と暮らしましたので、普段のんびりしている彼等が、いざ本気モードでやる気を出した時の、あの爆発的な瞬発力とか、ど根性とか、破壊的な実行力とかを、いやという程この目で見ましたので。😅 日本人の様に、上の命令を待ってモタモタするとか、無駄だなぁ、、これ、とか思いながら計画に沿って実行しちゃうとか、まだプロジェクトが終了していないのに、担当者を代えるとか、そんなの全然ないですから。😂😂😂(笑)(→あくまで個人的経験に基づきます。。。)

 ⇧(6)のカトリック・グループのゴ・ディン・ジェム氏は、「フエ朝廷政府の元内務大臣」でした。ミドルネームに「ディン=廷」が入っていることからも判りますが、代々王朝の廷臣家系のご出身です。ご家族、ご兄弟も皆殆どが政治家でした。呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏に関しましては、またいつか別途記事に纏めたいと思います。
 
 さて、そのジェム氏が、1944年7月にフエで日本の憲兵分遣隊に保護を求めました。町尻軍司令官の命令で、林中佐がジェム氏庇護作戦を実行して無事サイゴンへ移送され、5区チョロンの「陸軍病院」に入ります。この日以後、「1945年の1月2日か3日までは、ほとんど毎日、病院へゴ・ディン・ジェムを訪れた」林中佐は、「同年3月9日の明号作戦実施と同時に解放されるまで陸軍病院」、「重症のため面会謝絶の日本の将官」として入院したジェム氏から、ベトナムの行政組織や政治的自衛能力について細かく教えてもらったそうです。そして、この頃丁度、日本へ行きクオン・デ候と会って帰って来たブ・ディン・ジー氏も林中佐に面会に来ます。林中佐を介して北部の大物(ジー氏)と中部の大物(ジェム氏)は日本軍の将校宿舎で無事ご対面しました。😁 

 同年10月に河村参謀長の東京出張にジー氏が同行することになります。その際、東京からの「独立運動家を東京へ派遣する要請」に応えるべく、ジー氏とジェム氏に候補者を推薦してもらいます。推薦されたのは、「武文安(ブ・バン・アン)、黎全(レ・トアン)」の2人。そして、彼等全員が揃って東京出張前に林中佐に面会を求めました。
 「ゴ・ディン・ジェム、国民党党首グエン・シン・チュ―、ブ・ディン・ジー、ブ・バン・アン、レ・トアンの5人が勢揃いして、林中佐に向かって、将来我々はどんなことがあっても、ベトナムの独立に努力する、日本に協力する、決して離れることはないと宣誓した。」
            
 『ベトナム1945』より

 
80年間もの、恐怖と汚職と暴力と阿片にまみれた西洋植民地という奴隷状態から祖国解放へ。当時の日本軍という心強い協力を得たベトナム革命家たちの本格的な逆襲が始まる、奇跡の瞬間でした。
 
 ②へ続きます。

 

 

 


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