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1945年4月誕生 独立ベトナム内閣政府

  1945年3月9日、仏領インドシナ3国(ベトナム・ラオス・カンボジア)で日本軍による軍事クーデター『仏印武力処理』通称『明(マ)号作戦』が成功しましたが、この後のベトナムでは、バオ・ダイ帝が『独立宣言』を発してから、どうなったのでしょうか?
 (「仏印処理」、「明(マ)号作戦」に関しては、こちら→仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)で起こった軍事クーデター、通称「明(マ)号作戦」のこと その(1)|何祐子|note を先にご一読頂ければ幸いです。😊😊)

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 「『軍政』というのは、軍政監部を設け、軍人と軍属の施政官が直接行政事務を取り扱うので(シンガポール、インドネシア地域、ビルマ等日本軍による軍政が敷かれた地域と比較するまでもなく)、組織的にも異なるものである。(平たく言って)インドシナの場合は、それぞれの国に日本から最高顧問を送り、軍との(パイプ役にし)、従来の組織をそのまま使い、組織の改革についても軍は一切タッチせず、三国側が思う通りに事を運んだ。」         
             『ベトナム1945』より

 第38軍の林大佐によれば、「行政組織の中にいるフランス人についても、その処遇について、アドバイスをすることはあっても、指図に類すること」は全くせずに、元内務大臣、呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏から事前に聴き取りした結果、『ベトナムの行政組織に問題なく、軍政の必要無し」と決定していたと云います。

 南方最重要拠点の仏印で、日本軍の軍事クーデターが大成功!!。。 日本側は湧き立ったことでしょう。しかし、先の記事に書きましたように、ベトナム人側にとってクーデターの勝利はほぼ確実ですから、初めから、彼らの最大関心事は成功後のクオン・デ候のベトナム帰国でした。そして、これは案の定というか、残念というか、日本(内の一派閥?)によって阻止されます。
 クーデター後に、この”最悪のケース”が発生する可能性もクオン・デ候や呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏などの本当に一部の最重要幹部は予見していたように思えます。それでもこの時、日本軍の軍事クーデターでフランスを追い払う計画に「敢えて乗った」というのが実際のストーリーじゃないのかと、ベトナムに長く住んだ私は密かにそう睨んでいます。。。🙄と、いうより、、『越南史略』の編者であり、軍事クーデター後に成立したベトナム独立政府の総理大臣に就任した陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏が、この時の詳細を回想録『Một cơn gió bụi(モッ・コン・ゾー・ブイ)』として残してるんですよね。。。実は。😅
 
 「えっ、、クオン・デ候が帰国しない・・・?」
 見事クーデターは大成功しましたが、この⇧報に接した幹部らは、『Trời ơi ! (チョイ・オーイ!=おー、なんてこった!)」と言ったかどうかは判りませんが、保大(バオ・ダイ)帝の入閣要請を避けました。。。😵‍💫😵‍💫 
 結局、歴史学者で教育家、儒教研究家の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏が首相に就任し、1945年4月17日に誕生したのが『陳仲淦(チャン・チョン・キム)政権』でして、①日本軍のクーデターで独立を得た後の内閣成立だった事、②ホーおじさんの『再・独立宣言』で総辞職した事、③約4カ月間だけという超短期政権だった事等々から、『日本軍の傀儡政権』のレッテルが張られました。(戦後何故か全然忘れられています。😅😅)

 第38軍の林大佐は、『ベトナム1945』の中で、仏領インドシナでは「軍政は敷かなかった」、「ベトナム人の自主政権だった」という内容を証言されてますが、戦後日本で中々この事実が周知されてません。理由の一つにはやはり、片一方(=戦前の日本軍の史料)の情報・証言だけでは判断、断定し切れなかったのだろうと推察します。折角、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏ご本人が詳細な回想録を残してくれていますので、日越双方向の情報を比較検討して当時の真相を探ってみたいと思います。😊

 まず、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏について、「ベトナム1945」の中にはこの様⇩な説明があります。

 「1883年、アンナンのハティン生まれ。1911年にフランス留学から戻り1942年までハノイで教育主事職、退職。儒教、仏教、ベトナム史に造詣深く、著者が広く知られていた。日本人のベトナム研究者と接触したことで、当局から親日派と目されて、1943年秋の大規模パージの対象となった。」
 「1943年10月28日、ハノイで日本憲兵隊に保護されて、11月にサイゴンの松下光廣
(大南公司社長)の下に、そして1944年の1月1日に船でシンガポール(当時、昭南島)に向かい、そこで、1944年12月まで過ごした後、バンコクに滞在した。」
 
ですので、『マ号作戦』の時は日本軍の庇護下でバンコクに居ました。
 『マ号作戦』成功後に、日本軍がキム氏をタイへ迎えに行きます。
 「結局バオ・ダイ帝は、やはり日本軍がタイに逃れさせ、庇護していた歴史学者チャン・チョン・キム(Trần Trọng Kim)を招聘することになる。久我道夫大尉が、バンコクの小西健雄高級参謀のところに庇護されていたチャン・チョン・キムを飛行機で迎えに行く。キムは喜んで迎えに応じた。」
            
 『ベトナム1945』より
 
 こうして、日本軍の飛行機でベトナムに戻ったキム氏でしたが、
 「キムが軍司令部に来たところで、河村参謀長がバオダイの要請を伝え、フエに行くように言うと、キムは憤然とした様子で、あんな愚かな皇帝のところへは行きたくないというので、河村参謀長も呆気にとられ、言葉を失う。」
 この時既に、元大臣の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏はバオ・ダイ帝の組閣要請を拒否していました。
 「バオダイ帝は、内閣の改造を行うことになり、首班にゴ・ディン・ジェムを呼びたいと、土橋司令官を通じて招聘の要請があった。」
 「ジェムは、非常に不愉快な顔をして、(中略)自分がどうしてバオダイのところへ行くはずがあるのかと食ってかかった。」
 「なおもジェムは、バオダイのところへは行きたくないという。」

 
キム氏の態度も同じでした。
 「(バオ・ダイ帝の)どういうところが愚かなのかと聞くと、キムは自分も会ったことはないが、人の話でそう聞いているという。」
        
  『ベトナム1945』より

 第38軍の土橋司令官は、”クオン・デ帰国絶対反対”派で、バオ・ダイ帝”押し”でしたが、、肝心のバオ・ダイ帝が、”全然ベトナム人に人気も人望もないんじゃん…” というオチ。。。😵‍💫😵‍💫😵‍💫  

 上記は、全て日本軍の林大佐の回想ですので、では今度は陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の回想録を見て行きたいと思います。⇩

 キム氏の回想録の題名は『Một cơn gió bụi』、私は『一陣の埃風』と訳しましたが、その名の通り『1943年頃に日本軍に連れられてシンガポールに行ってから1945年の内閣総辞職までの経緯だけ』を詳細に綴った、当事者ご本人による貴重な史実史料です。
 以下が⇩、キム氏ご本人による自己紹介です。

 「31年間教育界に身を置き、教員勤めの後、1942年に定年退職した。祖国が大変な国難に見舞われている時代に生きたのだから、常に何かを心から楽しむような環境でなく、いつも本を抱えひたすら自分の研究に打ち込む日々だったから、退職して老後はただのんびりしようと考えていた。」
 「1943年は、世界中に戦争の足音が響き渡り、インドシナ半島全土に日本軍が入って来た。戦禍が拡大する中、フランス植民地支配の下で長い期間飢えと辛苦に晒されて来たベトナム人の誰もが解放を念願していた。」
             
『Một cơn gió bụi』より

 学者のキム氏は、国内の愛国運動には一歩距離を置いていたと言います。
 「私もベトナム人だ。だから当然、あの頃の国内の愛国者達と同じ様に、世界情勢の変化に乗じて独立を勝ち取る事を念願しなかった訳がない。けれど、生活は苦しく人心は離散する中 、多くが『愛国』という大義名分を利用して私腹を肥やそうとする者ばかりだ。そんな状況に幻滅していた私は、如何なる党派にも属さず、政治運動にも一切参加しなかった。」

 戦時下に於いて、『愛国』を安売りし、民衆に殺戮を煽る一際声の大きい輩-その正体は大概が『第五列』=『敵側の扇情要員』だというのも偽らざる事実です。兎に角、どの国内党派にも加担せずに我が道を行くと決め込んでいたキム氏は、当時の日本のことも冷静に評価していました。

 「フランスは、ドイツに負けてもベトナムに対する態度を全然変えなかった。そこへ来て、日本人はベトナム人の愛国心を利用しようとした。 ベトナム人側も、日本の本心を感じ取らぬ訳ではなかったが、チャンスを何とか生かして現状打破できさえすれば良いと考えた者も多かった。」
 「日本国は、元はアジアの同文同種の国だったが、後に西洋に習い、自国の帝国主義化を進めた。高麗、満州を合併した後で、中国と、西洋人に占領されているアジア各国も侵略しようとした。」
 「日本人は、”同盟共辱”のスローガンと、”抑圧された民族の解放”を大義名分にしたが、実際は利権を独占したかっただけだ。だから、彼らの執る政策はちぐはぐで号令ばかり多く、現在世界を覆い尽くしている覇道の政策と何等変わるところが無かった。」     
             
『Một cơn gió bụi』より

 、、、残念ですけど、戦前のベトナムで高名な知識人の一人、チャン・チョン・キム氏の目には、当時の日本はこの様に映ってます。😥😥😥

 けれど、これは仕方ない。。。当然かと思います。当時、九州天草出身のご両親の仕事の関係で大正10年にハノイで生まれた方の、こんな聴き取り記録が残っています。⇩
 「当時はそういう環境の中で、フランス系の公立学校に行きました。現地の一般のベトナム人は入れないです。また他のアジア人も入れなかったです。日本人だけが、名誉白人ということで、これは戦争(=第一次大戦)のお蔭でしょう、私はずっと卒業するまで十何年間、そのフランスの学校に通ったです。」   
   
  阿曽村邦昭編著『ベトナム国家と民族』より

 『名誉白人』の扱いを受け、他のアジア人が持っていない特権を享受しながら白人と上手に付き合う日本人を、植民地支配下のベトナム人が真に心から信用し尊敬する筈がなく。特に、1940年仏印進駐以降に増えた日本軍人や商人と、現地で直接接していたキム氏は、日本人たちの中に見える言行不一致を看破していたのだと思います。

 こうして当時の状況が見えますと、だからこそ、大川周明先生が『東亜経済調査局付属研究所(通称大川塾)』を設立したこと、1938年の入学生は全員地方出身者の若者だったこと、等々の合点が行くような気がします。大川先生は、2年間みっちり教え込んだ『アジア主義』の実践の為、アジア各国へ飛び立つ若者を前に、卒業式で「日本は興廃の岐路に立つ」と訓示しました。『覇道』ではない『皇道』を、日本とアジアに取り戻す為、若者に日本の命運を託すような気持ちだったのではないかな、、と私は考えています。
 さて、政治参加を避け続けた教員のキム氏の所へ、1940年10月27日突然日本憲兵が現れます。フランスが貴方を逮捕するから一緒に来なさいと言う憲兵に対しキム氏は拒否しますが、結局日本軍に連れられホテルに移動し、その後同僚の楊伯櫂(ズォン・バ・チャック)氏と共にシンガポール、バンコクへ渡航、日本軍の庇護下に置かれました。
 バンコクで不安な日々を過ごしていた1945年3月10日、突然、「日本軍がインドシナのフランス軍を攻撃したというニュース」が入ったそうです。30日になってやっと、「司令部が歴史のことで質問があるから」と言う理由でベトナムに戻されますが、サイゴンに着きますと、保大(バオ・ダイ)帝が待っているのでフエに行くように言われます。
 
 「日本の中将が渡してくれた紙には何人かの名が書かれていた。その中に呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏の名は無く、私の名が書いてある。不思議に思って、自分は何の活動もどこの党派にも属していないからフエに連れて行っても役に立たない。高齢でもあるし体の養生の為にも早くハノイの自宅に戻して欲しい、と頼んだ。」    『Một cơn gió bụi』より
 
 ハノイの日本軍のホテルでキム氏は、「どうせなら、日本が支援しているクオン・デ候と、候の委任を受けている呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)、黄叔抗(フイン・トゥック・カイン)両氏に合わせて欲しい」と頼んでいることからも判るように、ベトナム人の間では、ベトナム復国同盟会統領のクオン・デ候が、ベトナム国内事を全てこの2人に委任していることは周知の事実です。キム氏は、”あの2人はどこだ? 政治なんぞ何も関係のない教師の自分がなんでフエに??” と不思議で仕方なかった。それでも、結局フエに行かざるを得なくなり、バオ・ダイ帝に謁見します。

 「以前は、バオ・ダイ帝がどんな人か知らなかったが、フランス統治下ではやりたくても何も出来ないので狩猟やスポーツを楽しんでいたのだろう。実際に謁見した帝本人は厳粛な印象で、話す内容も的を得ていた。」
 
 『独立宣言』を発したが中々組閣が出来ず、心労が溜まった保大(バオ・ダイ)帝は、再三キム氏に新政府組閣を懇請します。キム氏は国のため、とうとう決心をし大役を拝命、組閣に着手しました。
 「閣僚の人選はかなり骨が折れた。長い間、立ち廻りが上手く小利口な者だけが出世できた社会だったのだから、急に良い人材が揃う訳がない。ましてやこの難しい時期を乗り切り得る人材だ。」

 そして、『マ号作戦』の約一カ月強後の1945年4月17日に、独立後初のベトナム人による新内閣が誕生しました。
内閣総理大臣 チャン・チョン・キム(陳仲淦)、教育家
外務省大臣 チャン・バン・チュォン(陳文章)、弁護士
内務省大臣 チャン・ディン・ナム(陳廷男)、医師
経済省大臣 ホー・バ・カイン(胡伯卿)、医師
財政省大臣 ブ・バン・ヒエン(武文賢)、弁護士
教育工芸省大臣 ホアン・スアン・ハン(黄春忻)、数学博士
補給省大臣 グエン・フー・ティー(阮有詩)、元医師
司法省大臣 チュオン・チン・ディン・タオ(長鄭廷草)、弁護士
医療省大臣 ブ・ゴック・アイン(武玉英)、医師
青年省大臣 ファン・アイン(潘英)、弁護士
工務省大臣 ル・ブン・ラン(劉文俍)、技師

 林大佐も大体これ⇧と同じ内容、顔ぶれを記憶され、『ベトナム1945』の中で回想しています。
 この時の人選に際して、キム氏はこう書き遺しています。
 
 「閣僚人事に関して、これだけははっきりと言って置きたい。日本人は、一切口出ししなかった。もし日本人がベトナム人事に口を出してくる様なら、私は直ちに辞職する覚悟でいた。」
 「横山(元公使)が閣僚名簿を見て、私に一言だけこう言った。”おめでとうございます、適任者を選びましたね。” これが真実だ。後に言われるような、日本人が閣僚人事を押し付けた事実など全く無い。」 

 マ号作戦後から日本の8月敗戦とホーおじさんの『再・独立宣言』までの「一陣の埃風」が吹き抜けた後で内閣を総辞職し、やっとハノイへ帰れたキム氏でしたが、戻って来たフランスとベトミン軍の交戦で自宅が消失。失意のなかカンボジアへ逃れ、非難先で回想録を書き上げました。出版年は、キム氏死後の1969年です。

 神谷美保子氏の『ベトナム1945』は、この『チャン・チョン・キム短期政権』のことをこう評価しています。

 「民族統一を基底の方針において努力したにも拘わらず、べトミン勢力、ド・ゴール派(フランス軍残党と新たに投入された勢力)、さらには依然としてクオン・デ候を元首として迎えることを主張して、親日派の態度を取り続けて、キム内閣というよりバオダイ下の政権と政治的な非力に強硬に反対の態度を取り続けたゴー・ディン・ディエム(呉廷琰)、ゴー・ディン・コイ(=ジェム氏の実弟)に率いられたカトリック勢力、(中略)など、80年に及ぶフランスの支配をわずか2日で排除した後の、学者首相を揺さぶる勢力や材料にもかかわらず、キム首相は(前述の)プロジェクト実施に向けて努力し(例えば、植民地時代の最も悪名高い『人頭税』を廃した)、独立国ベトナムに確かな方向へ線を引いた。」
 
 
キム氏本人も、日本軍と共に費やした「一陣の埃風」期間をこう振り返っています。
 「…如何なる主義、党派にも属さず、一切の名利も求めず、ただ国内の人々が、私利私欲を棄てて、力を合わせ、祖国が一日も早く収まり安定して、世界に足並みを揃え、前進して行きたいとだけ願った。
 高齢且つ病身の身では、何も出来ないことは判り切っていた。だが、祖国の困難を前に、傍観するを忍び得ずに為した行動を、己の良心に従い、この目に見、耳に聞いた事実をここに書き記し、後人の真実の考察に配したい。  人は、単なる老儒者の戯言だと言うかも知れない。その言も、己の宿命を受け入れた自分も、共に甘んじて受け入れたいと思う。」

 以上、1945年3月9日の、仏領インドシナの日本軍軍事クーデター『明(マ)号作戦』後に成立したベトナム独立政権『チャン・チョン・キム内閣』に関して、日本側とベトナム側の当事者ご本人による回想を比較してみました。
 比較して見ますと、やはり視点と角度が異なれば、それぞれ持つ印象や感じ方にはかなり差があると感じます。益々、日本語では殆ど出回って来なかったベトナム側の歴史資料を発掘し邦訳することは、大東亜戦争を学び続ける必要がある私たち日本の子孫にとって、本当に重要だな、、と、田舎の主婦は今日も一人ボロ家で読書に励んでいます。。😅

 特に、キム氏の回想録『Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』は、独立政権成立秘話に当たる部分は全体の4分の1位でして、残りの大部分は政権成立後の日本軍とのやり取りです。あくまで伝聞扱いですけど、1942年頃に当時の中国『国民政府(国民革命)軍』の指揮官、張発奎(ちょう・はつけい)が、中国南部に居たベトナム人を纏めて『ベトナム革命同盟会』を設立したこと、そして、張発奎の部下の候志明(こう・しめい)少将に感銘を受けた阮愛国(=李瑞)が柳州市監獄から釈放後に、胡志明(ホー・チ・ミン)と名を変えてベトナム革命同盟会に『後補委員』として参加した経緯が書かれています。
 これはまた複雑極まる😅😅話ですので、別途またいつか記事に纏めたいと思っています。
 

 


 

 

 

 

 

 
 
 

 

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