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ベトナム国旗の“風変りな”話 

 現在のベトナム国旗と言えば、赤地に黄色い星です。赤い旗は共産党のシンボルカラーですね。日本共産党のHPを見てみますと、「赤旗は「古来、奴隷・労働者が支配者に反抗する場合、用いられた」(冨山房『国民百科事典)とか、「1871年、樹立された史上初の労働者階級の政府パリ・コミューンは赤旗を標識にしました。(中略)…赤旗は、世界の労働者、人民のたたかいのシンボルになっていった」と書かれています。そして、星=五光星は、ネットで調べますと、共産主義のシンボルとして使われる場合、様々な解釈があるようです。労働者の5本の指とか、5大陸、5つの社会集団(青年、兵士、産業労働者、農業労働者、インテリゲンチャ)等々。いづれにしてもこれらの説明から、現在のベトナム社会主義共和国の国旗は赤地に黄色の星。別段何も違和感ないですよね。
 
 仏印史関連の書籍を調べていますと、その当時の国旗に纏わる面白い話が、書籍にちらほらと載っているのを発見します。今日は4つの書籍からバラバラの記述を一つに纏めてみようかと思います。

 4つの書籍とは、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏著『自判』と、内海三八郎氏著『潘佩珠伝』鄧搏鵬(ドアン・バン・ダン)氏著潘佩珠氏修訂・後藤均平氏訳「越南義烈史」と、そして神谷美保子氏著『ベトナム1945』です。
 潘佩珠著『自判』と内海三八郎氏著『潘佩珠伝』に関しては、以前この記事を投稿しました。⇒独立運動家ファン・ボイ・チャウの自伝|何祐子|note 神谷美保子氏の『ベトナム1945』については、本の記述によりますと、神谷氏の御父上「神谷憲三は、旧職業軍人。35期。士官学校卒業後、東京外語大(当時、外専)の仏語学科に軍より国内留学、卒業した情報・渉外将校。昭和初期に約一年、仏領インドシナに滞在」。その御父上と「同期、同室の親友」だった林秀澄氏は「旧軍人、陸軍大佐、35期。(中略)対上海租界任務、汪精衛(兆銘)政権樹立工作に関わった経験を買われ、〈明号作戦〉の要員」として、1944年に東京から「〈明号〉開始を告げる任務」を帯びてサイゴンに派遣されたそうです。
 神谷美保子氏が、1989年8月から林氏にインタビュー録音した内容を本に纏めたのが、『ベトナム1945』(2005年出版)です。「正確な記録をきっちり残しておきたい」というご希望を持っていた林氏が、お亡くなりになる前に、親友の娘の神谷美保子氏にお気持ちを托したのかと思います。

 先ず、潘佩珠著『自判』の152頁にズバリ、『ベトナム国旗』という一章があります。
 「この何年間か、ベトナム人留学生の多くが軍事学校に通っていたこともあって、会を設立したのだから、光復軍の組織にも取り掛かろうということになった」 
 
 この『会』とは『ベトナム光復会』のことです。ベトナム光復会の設立経緯については、クオン・デ候の『クオン・デ 革命の生涯』第7章に詳細があります。
 「壬子(1912)5月、ベトナム光復会の改組をしたいので、広州に来てほしいと潘佩珠から連絡が入りました。けれど、私は病気の床にあったので、彼を議事進行の全権に委任しました。」「この時、黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)が書記に選出されました。そしてこの時黄仲茂が『光復軍方略』を起草して、ベトナム光復軍を組織したのです。」

 
この時の設立メンバーで、潘佩珠が「軍事学校に通っていたベトナム人留学生」と列挙した学生は、このようなメンバーでした(一部を抜粋します)。
北京士官学校:梁立岩(ルオン・ラップ・ニャム)、藍広忠(ラム・クアン・チュン)、胡馨山(ホ・シン・ソン)、何当仁(ハ・ドゥン・ニャン)
北京軍需学校:劉啓鴻(ル・ハイ・ホン)、阮燕昭(グエン・イエン・チウ)
広西(陸軍)幹部学校:陳有力(チャン・フゥ・ルック)、阮焦斗(グエン・ティェン・ダウ)、阮泰抜(グエン・タイ・バッ=阮超)等々

 「皆が既に長く兵営にあって実地に軍事訓練を受けていたので、我らの軍隊を編成するに軍官の人材には事欠かない。さて、軍が編成されれば、軍旗が必要だ。軍旗があるなら、国旗が必要だ、ということになった。」

 こうして、『ベトナム光復会』改組会議で『ベトナム光復軍』をも組織した彼等は、軍旗と国旗の図案について話し合いました。

 「以前から我が国が、皇帝旗のみ存在して国旗が無かったのも奇異な話だったのだ。我らベトナム光復会が新しく制定した国旗の呼び名を『五星旗』とし、五星連州を徽式とした。」

 この部分の記述に関して、『潘佩珠伝』の内海氏は、ご自身の私見を述べられています。
 「ここに言う五大部(五星連州)とは、北中南部の三地方のほかに、万象王国(ラオス)、高蛮王国(カンボジア)を指していることは明らかである。」

 潘佩珠も『自判』の中で、「我らの国は、5地方部からなっているのだから、この徽式は、5地方部の連絡を一にするという意味が込められている」と書いています。そして、「旗の配色は、黄地に赤い星を国旗。赤地に白星を軍旗とした』そうです。
 あれ、赤星(レッド・スター)こそ、共産主義のシンボル?と言われていますけど、すごい偶然ですね??

 「黄色は我ら(黄色)人種を表し、赤色は我が国を表す。南方は炎天下の地。炎の色は赤色」
 「軍旗に白星を用いるのは、我が軍の目的を表す。即ち白人政府の打倒」

 こうして決められた国旗と軍旗は、『ベトナム光復軍方略』という全100頁からなる本の表紙に印刷されました。この原本は、もう残っていないでしょうね、残って居れば国宝級です。。。

 さて、この時潘佩珠たちが制定したベトナム国旗が、後に日本の書籍に登場します。それが、前述の神谷美保子氏の『ベトナム1945」、「ホー・チ・ミンの”再独立”式前後の状況」章の中の、明号作戦実施後にまだサイゴンに駐兵していた林秀澄大佐の詳述です。
 「〈明号作戦〉により独立した後は、政治活動は届け出て合法と認められれば自由だった。」
 「1945年の6月が7月かはっきり記憶していないが、コーチシナ州知事事務管掌の蓑田不二夫が訪ねて来て、アバンギャルドは赤だから、厳重に取り締まったほうがいいと要請する。」

 このアバンギャルド(=青年先鋒、タインニン・スンホン)とは、仏印政府による青少年スポーツ教育プログラム組織だそうですから合法組織です。今でもこの名の団体はベトナムにありますね。この時、蓑田氏が「党旗の星が赤だから、ソ連の国旗と似ている」と言ったそうですが、林秀澄大佐は、根拠薄弱だから取り合わなかったそうです。それが、終戦後、
 「そのアバンギャルドが毎日のように登旗を揚げてあちらこちらで、「モック・ハイ、モック・ハイ」(1,2)と掛け声をかけながら練り歩いていたが、8月25日だったと思うが、日本の敗戦の10日後、あまりに人の数が多いので、宿舎の外を見たら、旗の、それまで地が黄色で星が赤だったのが、一夜にして地が赤で星が黄色になっていた。」
 ⇧あれ、この「モック・ハイ、モック・ハイ」(Một Hai Một Hai)で8月24日まで掲げて練り歩いていたという党旗は、『ベトナム光復会』が定めた『ベトナム国旗』だよな?と思うんですけど。。。?
 そりゃあ、みんな喜んだと思うのです。と言いますのは、鄧搏鵬(ドアン・バン・ダン)氏著潘佩珠氏修訂・後藤均平氏訳「越南義烈史」の序に、陳国維(チャン・クオック・ズイ)氏が寄せた文章があります。
 そこに、
 「…しかし、わがよろこびは必ず来る。崑崙島以北、メコン江以東、ランソン関以南、ベトナム全土に独立の「五星旗」が風にひるがえりはためくとき、すべての志士義士が流した碧地は、はじめてむくわれると、涙を収め筆を奮って序とした。」

 この原本は、1919年正月が初版印刷だそうですので、発刊部数は少なくても、印刷された外地(上海)から国内にこっそり運ばれ、フランス憲兵に隠れて人の手から人の手へと渡され沢山の人が読んでいたことが想像できますので、この「五星旗」「ベトナム光復会」の定めた「ベトナム国旗」であり、いつかこの旗が翻る日-それがベトナム全土が独立する日だとして、20年以上もの間ベトナム人民が待ちに待っていた筈ですよね。

 林大佐は、こう続けます。「これがホーチミンによる”再独立”である。サイゴンの総督府官邸の前で独立式典が行われたが、林大佐はその式場へ見物に行った。ホーチミンはこの日、ベトナム全土に、この一夜にして色が変わった旗を翻して”独立”を宣言した。」

 林大佐は、黄地に赤星がベトナム光復会の旗だということには言及していないので、結局、当時サイゴン現地にあった林大佐と日本軍は、この旗が元々、潘佩珠たち独立革命家の抗仏党によって作成されたベトナム国旗だったことは知らなかったと思います。潘佩珠は、先の1940年に既に亡くなってますし。
 また、林大佐は、阮愛国(グエン・アイ・クォック)は知って居たが、まだ胡志明(ホー・チ・ミン)の名を知らず、それが阮愛国と同一人物だと知ったのは、終戦後かなり経ってから、1カ月か2カ月後だったと述懐されています。
 林大佐の周囲のベトナム人、例えばカトリックの呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏とかカオダイ教徒なども、阮愛国氏のベトナム潜伏情報を全く持っていなかったそうです。だから、日本敗戦後のサイゴンで起こったことは、『日本軍側』にとっては本当に突然の出来事だったのでしょう。

 1912年に広州で組織(改組)された『ベトナム光復会』。そこで、光復軍を結成、国旗・軍旗も制定しました。国旗は、黄地に赤星。軍旗は赤地に白星でした。
 結成会議に於いて、旗の図案は主に誰の発案だったんでしょうね?書物に残る潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏の性格から考えると、アイデアやデザインを率先して提案するような人に思えないので、この徽式は、多分会議出席者の内の誰かだと思うんですが。
 その旗が、日本終戦後のサイゴンで、アバンギャルドなる青年スポーツ団体に振り回されて、一夜にして地色と星色が逆転し、突如として群衆の前でインドシナ共産党のホー・チ・ミン氏が『再・独立宣言』を出したんですから、本当“風変わりな”話しです。。。

 いずれにせよ、草葉の陰から潘佩珠氏はびっくり仰天したと思います。逆に胡志明(ホー・チ・ミン)氏にとっては、『偶然』とは言え、超ラッキーですよね? こんな『偶然』、本当にラッキーですよね。
 あの世で2人に会ったら、一体どんなからくりだったのか、一応確かめてみたいと思っています。




 
 
 

 


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