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ベトナム独立運動家 ファン・ボイ・チャウの自伝

 現在まで、日本で最も有名なベトナム人と言えるのは、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)でしょう。
 1905年(明治38年)に日本へ渡航し、犬養毅や大隈重信に面会した人物です。現代ベトナムに於いても、近代史の中で燦然と輝く祖国恢復の英雄です。その彼は、自伝を書き残しました。この原本は漢語で書かれましたが、彼の周囲にいた人たちの手によって、ベトナム語(ローマ字化語)訳版が4部作成され、その後、1956年に旧ベトナム共和国(南ベトナム)で発刊されました。初めに作成されたベトナム国語翻訳版4部の内の一部は、当時ベトナム中部に居た日本人学生へ贈られたそうですが、どなただったのでしょうか、今となってはもう判りません。

1956年に南ベトナムで発刊されたベトナム語版の表紙
写真は、上海で捕まってベトナムに移送された時に撮られたもの


 ファン・ボイ・チャウの原本の漢語版は、海を渡り1965年頃に内海三八郎氏という商用でベトナムと関りのあった日本人の方へ贈られました。内海三八郎氏は大変なご苦労をされてこの漢語版から日本語に翻訳をし、1999年に麗澤大学の教授らの手によって日本語版が発刊されています。 

 「今から20数年前、私(=内海三八郎氏)が旧仏印(仏領インドシナ)サイゴン(=現在のホーチミン市)に在留中(1956年)、おりから南部ベトナム新大統領ゴ・ディン・ジェムの招待を受け、夫人同伴、同地を訪れていた畏友小松清から彼の近著『ヴェトナム』を贈られたのはこの時であった。さっそく読んで見ると、さすがはフランス語学者、政治評論家の書いた本、読みやすく総体として真によく書かれている。しかし、巻末に「この本は、断片的資料知識を基として書かれ、時としてフィクションの助けを借りた云々」と断っているとおり、よく読んでみると各論において多くの誤まりのあることを発見した。私は、これは我が日本のためにも一刻も早く是正、正しき史実を後世に伝えるべきだと思い立ち、潘(=ファン・ボイ・チャウ)がフエで書いた『自判」を探したが、フランス官憲の目を恐れ、長年隠してしまってある本、そうたやすく見つかる筈はなかった。」

 「ある日突然、思いがけない未知の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)というフエ在住の人から小包が届き、開けてみると中から『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自判』の写本上下2巻と、潘が晩年書いた『孔学橙(ホン・ホック・ダン)』および大小型写真十数枚が出て来てビックリ仰天、夢かとばかり喜んだ。」(内海三八郎氏訳・著『藩佩珠伝記』P.7-8より)

 この序文から解るように、内海氏は、奇縁により入手した漢語本を苦労の末に翻訳を終え、お亡くなりになる前に原稿を託しました。そして、その後心ある諸先生方の手を経て、1999年に日本でやっと発刊されます。30年以上経って、やっとファン・ボイ・チャウ自判の日本語訳本が日本で発刊されたことは、大事な漢語本上下2巻を送ってくれた呉成人さんに教えてあげたかったですが、呉成人さんは、1998-99年頃にホーチミン市でお亡くなりになりました。
 内海三八郎氏著「潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)伝記」の「はじめに」に、こんな文章があります。

 「当時メコンデルタのオクエオ(2千年前メコン下流にあったクメール族扶南王国の海港)の近くに、難民の農業指導、特に米作りを弁当手持ちで続けていた私と同年(明治24年)生まれの好々爺、奇特な一徹者がいた。名は高橋常雄、広島県人で、時たまサイゴンへ帰ると、私の家をしばしの憩いの借り宿としていた。いたって懇意な間柄だったので、私の本探しの苦心談を彼にしたことがあった。それから何年経ったか忘れていたが、ある日突然、思いがけない未知の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)というユエ在住の人から小包が届き、開けてみると中から「潘佩珠自判」の写本上下2巻と、潘が晩年書いた「孔学燈」及び大小型写真十数枚が出て来てビックリ仰天、夢かとばかり喜んだ。」

 ここから判るように、内海氏はベトナム在住の時にベトナム人の呉成人氏と直接面識があった訳ではありませんでした。この頃内海氏はサイゴン、呉成人氏はフエに在住でした。そして、内海氏はこう続けます。

 「後で聞いた話だが、高橋老は前年、かねて知り合いの呉一家が頭に出来た悪性の吹き出物のため大変困っていることを人伝てに聞くと、彼の持って生まれた性分から、頼まれもしないのにユエまで千百八キロメートルを飛んで行き、玄米食と彼独特の漢方薬で、みごと一家が長年苦しんでいた病気を直してやったので、小包はこれを深く恩に来た呉の返礼だと分かって、私は余慶をいただいたことを喜び深く感謝した。」

 内海氏の言うこの「呉一家」の「呉氏」が呉成人(ゴ・タイン・ニャン)であるに間違いないと思いますが、それを確実に裏付ける内容を、呉成人氏ご本人が生前自身で発刊した書籍「玄米と胡麻の食事」の中でこう綴っていました。

 「1963年以前より、私達ベトナム人の間でもマクロビオティックのことを噂に聞くことがあり、実際に実行している人もいたので、関連書籍を多少読んでみた。ただ玄米と胡麻のみの食事で病気が治るという以前に、たったそれだけの食事で栄養が十分足りるのだということさえ鵜呑みにして信じることことが出来ないでいた。けれど、1963年4月頭頃、オーサワ先生の御友人の高橋常雄氏(日本人の農業技師)と出会う機会に恵まれた。高橋氏からオーサワ食養法を教えて貰ったので、早速これを実行した。食養法を実行して間もなく、大層良い結果が出たので、友人仲間で集まって玄米グループを設立し、ベトナム長生養生センターを創立して、ベトナムに於いてこの医学的養生法を広めることにした。」

 この高橋常雄氏は、その頃建国されて間もないベトナム共和国(南ベトナム)の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)大統領のメコンデルタ米作改良政策の招きで日本人技師として訪越していたそうです。ベトナム大統領の招きで農業指導のためメコンデルタに滞在していた高橋氏がフエの呉成人氏と知合い、友人のおできを治してあげた。そして、その高橋氏は内海氏の友人だった関係で、内海氏の元に漢語版の「自判」が届いたという本当の偶然の奇跡の出来事だったようです。

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