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ベトナム志士義人伝シリーズ⑥ ~ベトナム義民による抗租税事件(1908年)~

 フランス領インドシナ植民地統治施政の中でも、その悪名高いことで大変有名だったのが、ベトナム人民に課した「人頭税」含む租税の数々です。(人頭税についてはこちら→ ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1)|何祐子|note) この「人頭税」は、
 「法(フランス)政府が取り立てる人頭税、そもそもこれはわが人民を牛馬とみなした悪税」 
 と云うくらい、その課税の重さ故に人民は「牛馬」同然だ、と『越南義烈史』の著者鄧搏鵬(ダン・ドアン・バン)氏は記してます。

 元々、保護国として支配される前のベトナム王国では、国王が課した「庸銭」と呼ばれる税と、「祖銭」と呼ばれる税以外、細々とした税は無かったそうです。金額程度はごく軽く、病人や災害があれば免除されたそうです。
 しかし、外国からやって来た支配者・フランスは丸っきり違いました。

 「その人頭税は、公捜銀といい、成年男子一人につき毎年金2元2角である。また労役税(=国家奉仕労働義務免除税)は、公益銀といい、成年男子一人につき毎年八角である。従って、一人の壮丁は、年に三元納めることになる。」

 ベトナムの独立運動家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、その著書『ベトナム亡国史』の中で悲惨極まる悪税法の詳細をつぶさに書き遺しています。
  
 「これも、初め法令が出たときはただ一元であったものが、年ごとに増やされ、今では、サイゴンの人民は壮丁一人、年に5、6元もの多額を納めている。両坼(南・北ベトナム)の諸省は年に壮丁一人3元であり、初めて成年に達したものは3元以下の所もあるが、これも毎年増額される一方で、止まるところがない」

 毎年上がる税金、恐ろしいです。収入を増やす道を絶たれているのに諸々の税金だけがどんどん上がって行ったら、一般国民はどうやって生きて行けばいいのでしょうか。税金のどんどん上がる国。そんな国の国民は、正に「牛馬」だと言えるでしょう。

 非人道的な悪劣な支配の下で、逆らえば悉く逮捕・牢獄・死刑・流刑になりました。そうして、「志ある青年は続々フランスの厳重な監視網を潜って、一命を賭しての脱出を企て」たのです。(大岩誠著『安南民族運動史概説』より)。そのことは、もう何度も以前記事に書いた通りです。

 「(越南光復会)会主クオン・デもまた潘とともに郷關を出て、明治39年(1906)、我国に来朝した。当時、クオン・デ候は実に29歳の青年であった。潘佩珠らは能く留学生を指導したので、明治40年前後には留学生は百名以上に達した。」
 潘佩珠の書いた『勧遊学文』(1906)や『敬告全国父老』(1906)、クオン・デ候の『国民に告ぐ檄告文』、『六省普告文』(1906)などの出洋愛国運動を奨励する宣伝文書がベトナム国内に出回り始めると、それを読んだ者は皆奮い立ち、命を賭して決死の脱出をして扶桑の国、日本を目指したのです。

 けれども、敵の目を欺いての違法密航は、途中で密偵に捕まれる怖れ、途上山賊や海賊に襲われる可能性もありましたから、費用、体力、年齢等の諸条件をクリアする限られた若者のみでした。国内に残された大勢の国民は、祖国を救う為にわが身を犠牲にし、夜陰に、川辺に、続々と出国して行く青年らの後ろ姿を見送ったのです。
 そして、若者の姿を見送った国内のべトナムの人々は、仏印政府の厳しい租税に抗して皆で起ち上がりました。後の歴史に「群民抗祖事件」と語り継がれることになった、群衆による初めての大規模な示威運動でした。

 「1908年、租税と賦役(労役)の軽減を要求してベトナムに起こった(中略)。3月9日広南(クアン・ナム)省大緑県にはじまり、会安(ホイアン)では県庁を襲った。3月末にはこれに呼応して広義(クアン・ガイ)、平定(ビン・ディン)の各省にひろがり、中部ベトナムはまったく動乱化した。翌年3月ようやく鎮定」        
           『ベトナム亡国史 他』より

 この、国内で沸き起こった大動乱を由々しき問題と見たフランスが、「日本留学生の資金網を破壊する為に、大掛かりな密偵の動員を行ない、留学生の父兄親族を捕らえて投獄する方策を強行」し始めたのです。又、日本に対し「日仏協約」(1907年6月)を盾に圧力を掛けて来たので、とうとう日本政府もベトナム留学生に対して自主帰国を促すことになりました。

 この「ベトナム人留学生の日本退去」のことは、此れまで日越史上の大きな事件として知られています。けれど、この同時期ベトナム国内で起こった「抗租税運動」には殆ど注目されて来ませんでした。実際には、この抗議運動に参加したベトナム民衆に対するフランスの大弾圧は凄惨を極めたのです。この運動を煽った罪「煽乱罪」で、義人、阮誠(グエン・タイン)や朱書同(チュ・トゥ・ドン)らも、崑崙(コンロン)島(=コンダオ島)に流されました。(こちら→ ベトナム志士義人伝シリーズ② ~阮誠(グエン・タイン、Nguyễn Thành)~|何祐子|note

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 わが国の人民は数十年このかた、酷烈淫威の権力下に縮こまり、民気は沈み込み、首を挙げようともしなかった。近ごろ世界に新風潮が鼓き溢れ、清爽の気のかもし出るなか、わがベトナムでも新気運が勃興した。

 戊申の年(1908)4月、中坼諸省で起きた控祖運動、このとき承天(トゥアティン、フエ)、広南、広義、平定、広治(クアン・チ)、河静(ハ・ティン)諸省の人民は、フランス政府が取り立てる人頭税が年を逐うて増加するので、もうこれ以上は忍えられぬ、起ち上がれ、とビラをまいた。

 各省ごとに組織を作り、その数およそ数千人。申し合わせた約束は、各地域での一斉行動、凶器を持たず素手裸足。向かうはフランスの駐在所。署名の請願書を手渡して、こもごも悪税の軽減を陳情した。

 フランス人はこれ受け付ず、法を捻じ曲げて叛逆だとして、軍隊を派遣して銃撃させた。弾丸は雨あられ、だが人民は結束し、更に集まって来る。退く者はなく、腹を披いて弾を迎え快んで死ぬ者もいた。 

 死者数百人、みな生活に苦しむ罪なき民であった。
 

 この寃雲惨霧は、ときを同じく10余の省に瀰漫した。中でも承天・広義・広南3省人民の遇害がもっとも酷しく、筆ではとうてい尽くしがたい。

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 『越南義烈史』が書かれた1918年頃は、まだ国外にクオン・デ候も潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も健在で、革命同志も沢山生き残って居ました。更なる勇気を奮い起こす為、そして、それまでただ大人しく強権者に従うことしかしなかった民衆がはじめて挙げた反撃の狼煙、名も無き義民の血と魂を弔い後世に残す為、『越南義烈史』の中に『抗祖事件』を書き留めたのだと思います。

 「殺された者の姓名履歴行状は、後日正確に調査して記録にとどめ、うち、優れた行動は詳しく伝えたい。いまは大要を略記して、将来の歴史研究者たちに、わが国の民権運動はこの闘いから始まったことを知らせる次第である。」

 拚蔣性命爭公理  性命を捨てもって公理を争い
 誓興江山挽利権  江山(祖国)のために利権を挽かんと誓う  
             ~弔詩の一節より~

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 ベトナム志士義人伝シリーズ ~序~ |何祐子|note
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ベトナム志士義人伝シリーズ⑤ ~鄧蔡珅(ダン・タイ・タン、Đặng Thái Thân)~|何祐子|note
 

 

 

 
 

 

 

 

 

 





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