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ベトナム志士義人伝シリーズ ~序~ 

 

 元々こちらに記事を投稿させて頂くきっかけは、此度アマゾンでオンデマンド出版しました本→ ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |本 | 通販 | Amazonの注釈をどこかでシェアできるような場所を探して居まして、それで偶然ここにたどり着きました。ここに →本の登場人物・時代背景に関する補足説明(1)|何祐子|note ①~⑲まで投稿したのですが、本の内容とリンクして唯のランダムな箇条書きにも拘らず、意外に多くの方が読んで下さっているようで少し驚いています。。 
 私の手違いで保存データが半分以上消えていたこと(→ここに詳しく書きました。本の登場人物・時代背景に関する補足説明(19)終|何祐子|note)で、記憶を辿りながら新しく書いた記事も、案外沢山の方に読んで頂き、そうか、出版以外にもこういった方法もあるんだな、と最近新発見したところです。(←年齢的な問題アリ、、今更ですみません。。。)

 掲題に挙げた『ベトナム志士義士伝』は、これからシリーズとしてベトナムの仏領インドシナ時代、抗仏闘争の中で亡くなっていった義士たちを一人一人取り上げてみたいと思っています。
 クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』にも、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の『自判』にも、同じ人物が繰り返し登場します。それを読むと、クオン・デ候とファン・ボイ・チャウは、確かに抗仏革命運動の両雄で、運動の牽引者ではあったけれども、その舞台裏といいますか屋台骨には、本当に沢山の傑出した人物の自己犠牲と壮絶な死があったことが判ります。彼等の存在なしでは、あのベトナム抗仏革命運動は大きく育たなかったことでしょう。だから、彼等の『死』に触れないままでは片手落ちだと思いまして、これからベトナム義士たちの話を順に纏めたいと思っています。

 「越南(ベトナム)義烈史」という本があります。鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)著、潘是漢(=潘佩珠のこと)修訂、1918年初版は上海発行です。後藤均平先生による日本語訳本が1993年に出版されていまして、『訳者瑣言』の中で後藤先生はこう書かれています。 
 「『越南義烈史』が上海のフランス租界でひそかに刊行されたのは、1918年である。第一次世界大戦がほぼ終わりを告げ、および重責した世界各地の民族運動が、よそおいを新たに燃え広がろうとする頃であった。」
 そして、「越南義烈史」の詳細に関しては、
 「(著書)鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)は、行善社の鄧有洋(ダン・フゥ・ズォン)の長男有鵬である。彼は1880年代の後半に生まれた。」
 「1908年に日本に遊学、その後中国に渡り軍事を学び、中国(革命)軍に参加。多年広州に居たが、1938年同地で自殺」
 「『越南義烈史』は、成泰(タイン・タイ)戊午の年(1918)正月に初版が出て、同年6月に再版された。」
 「奥付の真ん中には「有志竟成」の四大字を刻して囲む。「同志の拠金でここに公刊す」の意である。(中略)印刷所は「上海の法界(フランス租界)大馬路中市の振亜社」と記す。」

 と、本の著者と発行場所などをご紹介されています。

 私自身、今まで日越両方の言語で少なくない抗仏闘争関連の本を読みましたが、この本だけは他の本と全く違う世界にあると初めから気が付きました。後藤先生も同じように感じ、そしてそれがこの本を翻訳し出版する動機であり、何としても後世の日本人の記憶に留めて置きたいと願ってらしたように思います。⇩
 「『越南義烈史』は、反フランス運動にかかわって、1906年から16年までの11年間に死んだベトナム人を記念した書である。いわば哀悼追悼文の集合体で、それぞれの人物ないし集団事件ごとに弔詩、輓聯を附けている。(中略)19世紀から20世紀にわたるベトナムの反フランス闘争の貴重な資料である。」
 「『越南義烈史』の世界は、次元が違う。これは、ひとたび亡国となり、そこから祖国の独立に身を挺して、そしてわが身を殺したベトナムの志士の行動記録だ。」
 「『越南義烈史』の著者が、涙ながらに綴る全47項目の「死」の連続に、訳者は、こうも「死」とつき合ってはやりきれない、としんじつ思った。つき合えば付き合うほど、こちらは身心ともに消耗するのである。」

 そうして、本に綴られる壮絶な「死」の連続に向き合い、本の翻訳を終えた後藤先生は、
 「かえりみれば”義烈史”とつき合って20年、私の、私たちのいとなみが、その訳述のでき栄えはともかくも、一書に鏤刻される。私の眼はうるむ。義烈史の著者、鄧搏鵬君流に言えば、”越南義烈史の日本語訳本をなぜ作るのか、私にはわからない。ただ、義烈史の志士たちが、夜ごと枕に立ち現れて、訳書を出せと強いるのだ…。” これが、20世紀初頭、日本に遊学したベトナム人に捧げる、20世紀末の日本人の責務なのかもしれない。」

 「哀悼追悼文の集合体」と評されるこの本には、当時まだ生き残っていた幾人かの抗仏志士らが序文に文章を寄せています。抗仏党統領だったクオン・デ候もその内の一人です。
 「ああ、わが才は薄く知は鈍く、力またかなわず、出洋いらい寸効もない。わが国人に親愛されてのわれながら、結果は難苦禍患の連続で、かえって災を同胞に及ぼした。ここ十余年、国事に死ぬ者は中外に後を絶たぬ。愛国の志士義人が、それを恨みとせず断頭台の露と消えたが、ひとり行く身の亡命者わたしは、むなしくひろがる四海を見渡し、死者に対えてどんな福を与えたらよいのか。」

 河内(ハノイ)の鼎南、阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)氏も文章を寄せています。
 「わたしは生まれて間もなく陽九の厄(亡国の憂き目)に遭った。そして諸先輩が次々と国家の難に逝くのを見るにつけ、嘗胆臥薪の念いを、幼な心に刻みつけた。長じて諸同志と興亡の責務を担い合い、山海を奔走して、つぶさに百難を歴た。此の身が果つるまで我が炎城(ベトナム)の山河と休戚(禍福)栄辱をともにするものである。」
 
 安穏とした生活が突如として他民族に奪われて、仕事も娯楽もままならず、やっと働いたお金は、税金で全て消えて行く。身の回りは、強制的に割り当て購入せられた阿片と酒で溢れ、多くの民族同胞が現世を嘆き、外国人に頭を垂れる者、世捨て人となり無気力に生きることを選択する人、外国人の手先となって嬉々として同国人に危害を加える者、阿片と酒に溺れ病死する者。本当に、本当にどんなに辛く苦しかったことか。それに抗し、貧困と暴力に喘ぎながらも闘争を続けたベトナム運動家たち。
 けれど、ベトナムだけではなく世界中が、先人の犠牲の上に今の私達の平和な生活があるのかと思います。先人の行動と真実を、常に思い出し忘れないことが、何よりも効果のある抑止力となって働いて、わが子、孫の代へこの平和の世を受け継がせたいと、日々努力することが可能になるのかと思います。

 「嗚呼、国が亡んでも国に人あれば、国の性(こころ)は滅びぬ。人の精神が衰えぬかぎり、危殆に瀕して生き抜く望みあり。」
   (阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)氏の言葉)

 一主婦の私のそんな個人的な想いもありまして、掲題『ベトナム志士義士伝』を、主に、この『越南義烈史』『クオン・デ 革命の生涯』、そして潘佩珠の多数の著書の記述から抜き出して、抗仏闘争で亡くなったベトナム義士伝を一人ずつシリーズ化して見ます。ですが、実は私は未だにこの『越南義烈史』だけは、いつも必ず途中で大粒の涙が流れてしまい、すらすらと読めていません。

 『越南義烈史』の著者、鄧搏鵬氏の序文には、真に鬼気迫るものがあります。
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 「『越南義烈史』をなぜ作るのか。すじみちを立てて述べがたい。
 ただ、千万の辛さ苦しさ、痛みとうれいが、予のあたまを刻み刺すだけだ。神が吟じ鬼が泣き、風が鳴り雨が号ぶその声が、耳もつぶれよとひびくのが覚るだけだ。電(いなずま)が閃き雷が轟き、山に海に奔り走る。それがわが目を眩ますのを感じるだけだ。神鬼電雷が、何にかを言え、と迫るのだ。迫られてわたしは言わねばならぬ、ただそれだけだ。」

 「死を覚悟のわれらは、つねに極限に生きた。風の音、雨の音、鶏のそら音にも飛び起きた。膝を交え胆(こころ)を披いて、はげまし相い、一死以て祖国のためにとちかった。そして互いに別れ別れながら、めざすところにすすんでいった。力を尽くして戦死した者、険を冒して死んだ者、悲憤のあまり自殺した者、苦学の果てに死んだ者、その志に殉じた者。死にざまはそれそれ違うけれども、死の目的は一つであった。」
 「夜更けて風と雨とがすさぶとき、死せる同志があらわれて、灯火のもと、剣を腰に、鬱悒徘徊立ち去らぬ姿を見るとき、わたしは涙流るるを禁じ得ぬ。涙ながらに筆をとり、義烈史を記した。」

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『ベトナム志士義士伝』シリーズ第一回は、やはりこの人、抗仏党の期待を背負った使者・潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が日本へ渡航した時の道先案内人、曾抜虎(タン・バッ・ホー、Tăng Bạt Hổ)氏です。



 

  

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