ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1)
ベトナムの独立運動家・潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏は、抗仏蜂起、要するに武装蜂起に使う武器購入を頼む目的で、1905年4月に日本へ渡って来ました。中国人商人に変装し、船で上海から横浜に着いたファン・ボイ・チャウは、横浜に亡命中だった清国保皇派の梁啓超(りょう・けい・ちょう)を訪ねます。この滞在中に書き上げたのが『越南(ベトナム)亡国史』です。このことは、クオン・デ候も、自身の自伝書『クオン・デ革命の生涯』(1957)(←この冊子の経緯に関しては私の過去の投稿をご参照願います。クオン・デ 革命の生涯|何祐子|note 本の登場人物・時代背景に関する補足説明(8)-ベトナム王国皇子 クオン・デ候のこと|何祐子|note)の第3章『日本へ』の中で、「潘佩珠が、横浜上陸後に書き上げた『ベトナム亡国史』を、梁啓超に印刷出版を頼んで今回ベトナム国内に持ち込んでいたが、その冊子に梁自身が序文を寄せ、潘が梁との会見時に見せたという私の文章をその序文に載せていた」そうです。そして、「フランス遊学を装ってベトナムを出国する準備を開始した矢先、国内にその『ベトナム亡国史』冊子が流通し始めました。それで、フランスが私と潘の関係を知るところとなり、フランス遊学を装うどころか即刻国外脱出する方法を講じることになったのです。」となり、クオン・デ候は、慌ててベトナムを脱出したそうです。
潘佩珠は、科挙文科の合格者でしたから実に文章が上手で、且つ生真面目な性格のお蔭でしょうか、実に沢山の著作を残しました。その数多い著作の中から、「フランス治下におけるヴェトナム民族運動を理解する上に、特に重要と思われる次の4冊を選んで、一本にまとめ」た本があります。長岡新次郎・川本邦衛両先生編による「ヴェトナム亡国史 他ー潘佩珠著」(1966)です。今ではネットで何でも入手でき、本当便利になりました。。
両先生によりますと、1,「ヴェトナム亡国史」(1905)は、中国近代史資料叢刊6「中越戦争」(中国史学会編、1955年刊)のものを底本とし、今西凱夫氏が新たに訳出したもの。2,「獄中記」は、昭和4年、雑誌「日本及び日本人」6月臨時増刊号(179号)に掲載された、南十字星による訳文が底本。3,「天乎帝乎」は、昭和7年、「南溟叢書」の一冊として上海南叢会で刊行された、南叢生氏による訳文を底本をとしたもの。4,「海外血書」(1906)は、1909年東京で秘密出版された漢文(字喃による訳を付す)原本を底本とし、川本邦衛氏が漢文に基づき訳出されたそうです。
『獄中記』は、時の広東督軍竜済光(りゅう・さい・こう)に捕えられ、広州広東の獄に入れられた潘佩珠が、フランスに引き渡されれば死刑だと観念し自分の生涯を書き残そうとした、生まれてからこの時までの『自伝書』です。しかし、運良く潘佩珠は敵の手から逃げる事が出来て、北京、杭州に滞在していましたが、1925年に上海で再度捕えられると今度は本国に送還されます。フエで軟禁生活を送っていた時にも『自判』(←書き始めたのは1928年で、完成時期は1938年頃のようです。)という自伝書を書きました。ですので、この『獄中記』と『自判』は前半部分の内容はかなり重複しています。 『天乎帝乎』は、潘佩珠が1920年前後から杭州の『浙江軍事編集所』発行の兵事雑誌で編集者として働いていた時に印刷されました。
今日は、フランス植民地支配の窮状を訴えた潘佩珠の書籍の数々から、タイトルの通り、『他国に支配されるとこんなにも悲惨ですよ!』という内容です。何となく、最近潘佩珠が天国から、「早く、日本人に教えてやれ!」と叱咤する声が聞こえるような気がします。生真面目で律儀な性格だったと評された潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)ですので、多分当時日本で受けた親切を未だに覚えていて、恩返しをしてくれようとしているのかな、とか考えたりしています。。。
『ベトナム亡国史』序文に、梁啓超(りょう・けい・ちょう)が記した、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)との出会いとやり取りはこの様なものでした。⇩
「名刺と手紙を見て、すぐさま服装をととのえて客間におもむくと、客〔潘佩珠〕は一人の従者〔曾抜虎(タン・バッ・ホー)〕を伴っていた。従者は、広東・広西のあたりを20年ほど、艱苦をなめつつ往来したので、どうにか広東語が通じるのである。客は、顔かたちこそやつれているが、その中にどことなく卓抜したところがうかがわれ、一目見て凡庸の人物でないことが感じられた。」「2日おいて、約束の場所で再開した。横浜の山の手の、太平洋に臨んだ小さな酒楼である。海も空もひろびろと晴れ渡って、陽はうららかに風はそよぎ、心よい春の部屋の内外に満ち溢れている。その中で、涙に面を濡らしている人がいようとは、誰が想像しよう。」
潘佩珠:「私の旅はというと、中国服を着て、中国籍を仮り、ヴェトナムを旅行している中国商人の雇い人に化けて、やっと脱出してきたのです。それも、一人が逃亡すれば親戚一族は皆殺しになります。私は苦しみに耐え、恨みを忍んで、母が天寿を全うするまで仕え、母が世を去ってから、妻子を片田舎の下層民のところへあずけて、ようやくのことで国外で力を尽くすことができるようになったのです。」
潘佩珠からベトナムの悲惨な現状を聞いた梁啓超は、尋ねます。「本当にお気の毒です。しかし、(中略)誰も彼も、フランス人の奴隷となって、どうやら息をつないで満足しているのでしょうか?」
⇧この質問に対して潘佩珠は、明確な分析の上で、「我々の国の人間は、数え上げてみれば5つの等級に分けることが出来ましょう。」と、説明します。この5つ等級の内訳は、1,王家の譜代の臣。その中には高貴な心を保ち続けているもの皆無ではないが、高位に目がくらんで主君を変えた者もいる。頼れるのは、20人に1人。2,かつて朝廷や地方の官にあったもの。既に勤王の詔に応じて蹶起を起し、今は弾圧のもとに身を屈しているが、烈しい意気込みは死んでも挫けない。こういったもの、国中に10人に2人。3,困窮し、流浪の民となり嘆き悲しみ、呼びかければたちどころに応じるもの。10人に5人。4,学問を受け継ぐもの。国家と共に悲しみ嘆き、東西に奔走し、血をすすり、涙をのみ、国と運命を共にしようとする立派なもの。百人に1,2人。以上の4種類が国民の8割を占める、と言っています。このほかに、「敵に魂を売り、あるいはその手先になった卑劣な連中が、10人に1人が2人の割合でおります。ただ目の前の利益にくらまされて駆けずり廻っているだけで、何の才能も智慧もありません。」 潘佩珠は、こういった「手下に成り下がった連中」が、「鳥が狩り尽されると、用のなくなった弓はしまわれて」しまうのに、「フランス人が彼らを見る目は、一般の奴隷を見るのと少しも変わりはない」のに、どうして気が付かないのか?と不思議がっています。
梁啓超は、聞きました。「フランス人はいったいどういう手を使って、自分は悠然と落着きながら、40万のヴェトナム兵をおとなしく命令に従わせることができるのですか。」(←仏印軍の内実は、殆どが現地雇用のベトナム人兵で編成された為) これに、潘佩珠は答えます。
「我々ベトナム人を縛り付けるのに用いているやり方というのは、ほかでもありません。一族、皆殺しです。墓暴きです。進士潘廷逢(ファン・ディン・フン)などは、父、伯父、母の墓はあばかれ、子は晒し首、彼の死骸は火炙りになりました。」 これに驚いた梁啓超は、「あなた方志士は、自分達の力で独立するという計画を考えたことはなかったのですか?」と聞きますが、潘佩珠はこう続けます。「わがヴェトナムの今の法律では、一家の親族でない者が4人一つの部屋に集まっていると、たちまち兵隊がやってくる」し、「国内にあって、ある者はほかの省へ行くにも政府の許可を乞わねばならず、舟から車に移り、車から舟に移るにも、その都度許可書を変えてそれを通行券としなければならず」、もし規則に従わない場合は、「スパイとして告発されます。」 ←こ、怖い話です。。集まって会食したりできないとか、自由に旅行できない、とか、許可書が必要とか、、、ええっ、これ百年以上前の話ですが。。。
当時の阮(グエン)王朝は、まず南部をもぎ取られます。南部を足場に北部も攻撃され、北部も占領されます。その後、中部に『皇室』を残したまま、南-中-北と3分割されて厳しい監視下での支配が始まります。ベトナムのように縦に細長い形の国ですと、南部と北部を獲られてしまったら、もうどうにもならないでしょう。。。そんな形の国があったら、気を付けろと言ってあげたいですね。。。
又、この、『中部に皇室を残すこと』が重要ポイントのようでして、潘佩珠は、これについても説明しています。⇩
「ヴェトナムの現在の王は、成泰(タイン・タイ)帝といわれる。フランス人は、内殿をその住まいとしてとどめ、皇帝という名をその称号として残してはいるが、宮殿の門はフランス兵ですべて固められ、その出入りは一人一人フランス兵によって管理されている。」「国内の一切の政令も・詔勅も、まずフランス人に伺いをたて、その応諾を得て初めて施行される。」「そして皇帝は両手を拱いたままただうなずくだけで、一言も口をさしはさむことができないのである。」 ←と、このような状態で、当然潘佩珠も、「こういうものが国王であるくらいならば、もう国王など廃してしまって、フランス人が公然と自らを大フランス・大ヴェトナム両国の皇帝であると称したところで、誰がとがめだてしよう。いっそ、それの方がさっぱりしているのではないか。」と言っています。。本当そうだな、と思うのですが、これにはこのような背景があるそうです⇩ 「しかしフランス人は、わざとこの飾りものを虚位にとどめておき、(中略)「これは、お前達ヴェトナムの君臣がそうしたいと願った事だ」「これは、お前達ヴェトナムの君臣が喜んで受け入れた事だ」と布告し、外国に対してもそう称しているのである。」
潘佩珠は、「公論が無いと思っているのか?こんなまやかしで誰が騙されるのか、全く馬鹿にしてる!」という意味のことを記しています。。。しかし、、、宮殿ごと丸ごと皇室を人質に取られてる訳ですから、どうにもなりませんよね。。。
それでは、フランス国が、怒涛の如くに急に攻め入って、一気に皇室をかっさらっていったのか、と言うと、これはどうも違います。古今東西、栄枯盛衰、いつもそれは内部の腐敗・裏切りが始めにあり、またそれは偶然ではなく、早くから密かに巧みに浸食されています。⇩
「「器は一杯になると傾く」という言葉があるが、その時にあたってヴェトナム人は、みずから満ち足りたと考え、豊かな財産を抱いてあたりを見下し(←1802年嘉隆(ザーロン)帝の南北統一のこと)、井の中の蛙が天を知らないがごとく、文官は地位に甘んじ、武官は平和に慣れ、こうした状態は一日一日とひどくなっていった。その間にも政治や人民の教導に腐敗が積み重なり、(中略)文人は古い書物にしがみつき、低俗な学問で取り繕いながら」、しかもそんな状態で満足し誇り顔だ、と批判します。また、「最も良くないのは、人民の権利を抑圧し、世論を自分たちの都合のいいように利用したことであって、およそ国家の大事が計られる際には、民間の党はいっさい関与ができず、ただかたわらで嘆くより他なかった。」そうです。。。。そういうの、『非民主的』? でも、『民主国家』を標榜しても民間の意見かなんか一切取り入れない、『自称・民主国家』なんか、世の中いっぱいありますよね?。。
それでも、「もしヴェトナムがこの時、(中略)備えを十分にしたならば、それでもまだ遅すぎはしなかった。」 ところが、「ヴェトナムは、眠たげな眼をぼんやりと見開いた手足のきかない病人のごとく、王党が幅をきかせて民権は抑えられ、無用の文章や規則が尊ばれて武人は卑しまれ」ていた国情を、ああ、なんと危ういことではないか、、、と嘆いています。1862年にフランスが軍隊を派遣し、ベトナムに条約を結べと脅しをかけて来た時に、この交渉にあたった勅命大使(←特命外務大使にあたりますかね。。)はどうだったかというと、「しかるに、何とも残念なことには、そのとき勅命大使となった潘清簡・林維義の2人は、肝っ玉は羊か豚のごとく、その外交手腕は狐か鼠のごとく、フランス人を人目見ただけで恐れ入り、震えあがってしまって、汗びっしょりになるという情けない連中であった。」ということです。。。一番大事な時に、一番行ってはいけない人が行く。。。。いやー、まさか、、と思えど、あるあるなのが、辛いところです。。。 そして、この「不吉なあるある現象」は、坂道を転がるようにこの後も続いてしまいます。。。。
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ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(3)|何祐子|note
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