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クオン・デ 革命の生涯

 1957年、旧ベトナム共和国(南ベトナム)で掲題のタイトルの冊子が発刊されました。その冊子の原本は、元々日本で作成された日本語の冊子でしたが、戦後の日本では全く見かけることが出来ません。その為、1957年に旧サイゴン(=現在のベトナムホーチミン市)で発刊されたベトナム語訳本(現在ではインターネットに公開されています)から、再度日本語に翻訳しまして、先日やっとアマゾンからオンデマンド出版しました。→ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |本 | 通販 | Amazon

 現在のベトナム社会主義共和国は、1945年までは阮(グエン)王朝納める『王国』だったことを知る日本人もだんだんと少なくなってきました。当時は、フランスの植民地の一つで、仏領インドシナと呼ばれたベトナムでしたが、その阮朝の皇子のクオン・デ殿下とベトナム抗仏志士達が、日露戦争後明治末日本へ渡航し、植民地解放闘争を闘い抜いたこと、大日本帝国当時に沢山の日本人が彼等を陰日向に応援したこと、日本人の子孫として永遠に忘れてはいけないことではないかと思っています。

 そう思い続けて来た私でしたが、やっと子育てもひと段落して来たので、古いベトナム語の本の翻訳や、史料の整理を数年前から始めました。他の古本は、この後も翻訳が形になり次第徐々にオンデマンドで発刊して行きたいと思いますが、それ以外に細かい史実や参考資料、歴史エピソードなど、本の中に盛り込めないものを、これからのんびりこの場に載せて行きたいと思っています。

 私が翻訳した「クオン・デ 革命の生涯」は、邦題を『ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 』としました。

 クオン・デ候という名前は、戦後は一般の日本人だけではなく、ベトナムに縁のある方にも殆ど馴染みのない名前だと思います。しかし潘佩珠(ファン・ボイ・チャウといえば、その名を知る人も多いのではないでしょうか。祖国解放を目指して日本に渡航して来たベトナム革命家のファン・ボイ・チャウと東遊(ドン・ズー)運動留学生は、日越近代史上かなり有名ですね。けれども、その詳細を知る人は非常に少ないです。

 ファン・ボイ・チャウが、初めて日本に渡航して来たのは1905年。その翌年にクオンデ殿下が、そしてその後、二人の後を追うように200名近いベトナム青年が日本に渡航して来ました。このように簡単に書けば、元々ファン・ボイ・チャウの目的がベトナム人青年の日本渡航だと勘違いしてしまいますが、経緯の詳細は異なります。
 まず前提として、当時のベトナムが『幕末期』だったことから考えないとなりません。まだ王政であり、儒教を国家正教とした当時のベトナムでは、蜂起を起こす為に王族身分の人を統領に迎えて、その統領から『詔勅』を賜って『大義名分』を整えた上で各地へ檄を飛ばし、その旗印の下に士民が武器を手に馳せ参じる、というのが常識でした。ですから、ファン・ボイ・チャウらは、阮朝の開祖、嘉隆(ザー・ロン)帝5代目の孫だったクオン・デ候に白羽の矢を立てました。そして、『ベトナム光復会』という維新会を設立し、統領にクオン・デ候が就任した、という流れになります。

 会の設立当初の目的は、あくまで『勤王抗仏蹶起』でした。そして、国内厳重な監視網が張り巡らされた彼等の悩みは、蹶起に使用する大量の武器。悩む彼等に一縷の希望を与えたのが、当時の日露戦争の日本勝利でした。同じ東洋人、同文同種の国の日本が、西洋人大国ロシアに勝ったのだから、日本を頼って武器購入を謀ろう、という結論になり、まず初めにファン・ボイ・チャウが虎口を脱し、日本へやって来たのが1905年。上海で船に乗り、横浜に到着しました。
 しかし、日露戦争をなんとか収めた当時の日本には、間接的にフランスという西洋国家に喧嘩を売ることになる、ベトナムへ武器援助の体力はまだありませんでした。武器が手に入らないと知ったベトナム光復会は意気消沈してしまいますが、日本側から人材育成の提案を受け、武器入手を一旦棚上げにして代わりに出洋遊学運動=東遊(ドン・ズー)運動を展開したのです。これに呼応したベトナム国内の愛国者や裕福な商人らが、自分の子弟を次々と日本へ送り出しました。 
 ファン・ボイ・チャウは、横浜に亡命して居た清国の梁啓超(りょう・けいちょう)から大隈重信や犬養毅らを紹介されます。蹶起を目的とした「光復会」の執る主義は『君主主義』であり、統領には王族のクオン・デ候を戴いていることを説明すると、日本側からクオン・デ候の日本渡航を勧められました。当時は王族の毒殺の危険性も高かったですし、ベトナム王族の人間が日本へ渡航する大きな意味もあり、そうして、クオン・デ候は日本へやって来たのです。
 クオン・デ候は、1951年に東京の飯田橋の病院で亡くなるまで、主に日本を活動拠点として、フランス植民地からの祖国解放闘争を闘い抜いた生涯であり、日本のクオン・デ候の周囲には、長い期間に亘って候を支え続けた大勢の日本人がいました。

ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note


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