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ベトナム独立を支援し続けた 第29代総理大臣犬養毅のこと その(1)

 第29代内閣総理大臣犬養毅(いぬかいつよし)のことを、詳しく知る若い方は殆どいないと思います。ネット検索しますと、「「憲政の神様」と称された戦前の政治家であり、総理大臣職にあった昭和17年、5.15事件(青年将校クーデター)で凶弾に倒れた。」と、ざっとこんな人で、それに世界史的背景、当時の日本政界と軍部の動き等、細かな説明が羅列されていて、如何にも面白くな、あ、いえ、つまらな、、いえいえ、、眠くなり、、いいえ、大変「勉強になる感じ」で書かれていますね。😂
 これでは、若い方が犬養毅子爵(以下時々敬称を省きます)のことを御存じないのも当然か、これは大変勿体ないことだなあ、と思うのです。

 「君の西南戦争の記事は評判だったぞ。尾崎行雄など絶賛しとった。」
 犬養毅が通っていた慶応義塾の卒業生、矢野文雄は、犬養毅が西南戦争の鹿児島の戦場から送った「郵便報知新聞の戦地直報」のことを褒め、要件を伝えます。「福沢先生がお呼びだ。」
 福沢とは、勿論、慶應義塾開学の祖、福沢諭吉の事です。犬養毅は塾構内にあった福沢諭吉居宅を訪ねます。犬養が挨拶すると、
 「しばらく姿を見ないと思ったら、九州の戦に行っておったと聞いたが」 
 
犬養毅は、「はい」と返事をします。
 「命知らずのバカ野郎だな」
         
 林新、堀川惠子共著「狼の義 新 犬養木堂伝」』より

 福沢諭吉に「命知らずのバカ野郎」と言われた(だろう)、我が日本の第29代総理大臣犬養毅はですね、何が凄くて痛快かというと、元祖「戦場ジャーナリスト(=戦地探偵人)」だったことです。😁😊

 「西南戦争が起きると、「東京日日新聞」や「朝野新聞」など有力紙はいち早く戦況を報じ」ましたが、「「郵便報知新聞」は、まだ学生の犬養を戦地へと放り込」みました。多くの本に書かれているように、「若手の中でも飛び抜けて文章が上手」かったからだそうです。ライバルは、「東京日日新聞の福地源一郎」、当時彼は既に花形記者でした。しかし、
 「他社の記者は危険な戦場に踏み込まず、戦況の概要を伝えるだけだ。だが犬養は戦場のど真ん中に入り込み、臨場感あふれる記事を書く。人々は、それを争うように読んだ。」
 「連載を「戦地直報」と名付けた。記事の冒頭には「犬養毅」の実名が記され、最終的に約七カ月で百回を超える大連載となる。」
         
「狼の義 新 犬養木堂伝」』より

 元々文章の上手かった犬養毅が書いた「戦地直報」は、「生き生きとした戦場物語にもなっていて、郵便報知新聞の販売部数はぐんぐん伸びた」そうです。記者・犬養毅の名と、この「戦地直報」は大評判を呼びました。
 「兵を起こして以来、八カ月の久しきにわたり、(中略)英雄の末路、遂に方向を誤り、屍を原野に晒すといえども、戊辰の偉功国民誰か之を記せさらんや」   
 
連載の最終回の締めくくりはこんな文章でした。

 慶応義塾開学の祖、福沢諭吉は、「交詢社」も主宰していました。福沢諭吉の書物は、『西洋事情』が約25万冊、『学問のすゝめ』が70万冊も売れたそうですから、当時日本の識字率から考えると、驚異的なオピニオンリーダーに間違いないです。そして、「議員内閣制」を唱えた福沢諭吉の愛弟子で、「命知らずの」犬養毅は、政治の世界を目指すようになって行きます。

 ベトナムが、仏領インドシナと呼ばれるフランス領植民地だった頃、祖国解放を求め抗仏党の統領として密航して来たのが、当時ベトナム王国の皇子、クオン・デ候です。(ここに詳しく書きましたので、ご参照お願いします。→本の登場人物・時代背景に関する補足説明(8)-ベトナム王国皇子 クオン・デ候のこと|何祐子|note )クオン・デ殿下の自伝には、勿論犬養毅のことが書かれています。
 「犬養子爵のベトナム人との馴れ初めは、明治35年(1905)から。まだ私が国許に居た時だから5月頃ですが、ベトナム光復会会主の私から委任を受けた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、兵器援助を請う為に日本へやって来ます。潘佩珠が、犬養子爵が初めて出会ったベトナム人」

 そして、この時の犬養毅の勧めで、翌年クオン・デ殿下が日本へ亡命してくることになりました。そしてクオン・デ候が日本へ再入国した1915年から、5.15事件で凶弾に倒れる1932年迄、犬養毅はクオン・デ候のベトナム革命党へ毎月の援助金を欠かしませんでした。
 「日本には数十年間も滞在したが、その間出会った最も辛く悲しい出来事は、私の庇護者であった犬養毅子爵が暗殺された事です。」
 
クオン・デ候は、自身の自伝『クオン・デ 革命の生涯』(翻訳本→ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |本 | 通販 | Amazon)の中で、この犬養毅の暗殺事件と昔日の思い出を、『第16章 痛哭の出来事(5.15事件)』の中で詳細を語り、事件当日の事を本当に詳しく書き遺しています。長く犬養毅の傍にあり、真面目で誠実な性格だった殿下が語った内容を、日本人記者松林氏が書き下ろした冊子の内容は、真実に大変近いだろうと思いますのと、現代の若い人にも日本近代史の中の5.15事件を知って頂きたいと思いますので、ちょっと長いですけど、下記に抜粋したいと思います。

 「それは、昭和7年(1932)5月15日でした。未だによく覚えています。その日の午後7時頃、私が家に居ると、突然犬養毅首相が暗殺されたという噂話が聞こえました。心底から驚愕したが信じ切れず、成否を確かめようと永田町の首相官邸へ駆け付けました。官邸の門は軍兵が厳重に警備をし、駆け付けた多くの人々は中に入る事が許されず門外はごった返しています。皆が私と同じく凶報を聞いて成否を確かめに駆け付けた人達でした。犬養首相の暗殺は事実でしたが、詳しい状況は確かめることができません。皆一様に落胆し、帰って行きました。その夜私は、殆ど眠ることが出来ませんでした。 
 数日経ってから、暗殺された時の詳しい状況を尋ねることが出来ました。
15日の午後5時半頃、海軍軍服を着た青年3人が首相官邸を訪れ、犬養首相に面会を求めた。門で憲兵が名刺を尋ねると、青年の一人が拳銃を抜いて威嚇発砲をして3人は官邸内に入って行き、途中、官邸内で数人の憲兵に対し発砲して首相私邸へ踏み込んで行った。同時に、他にも5、6人が中に入って来ました。
 そろそろ夕食の時刻で、犬養首相は食堂の目の前の縁側に座って寛いでいました。嫁(犬養健夫人)と孫たちが傍らに座っていた。(犬養首相夫人は帝国ホテルで結婚式に出席、長男の犬養健氏は用事で秘書官邸に居た。)その時、突然騒がしい声が聞こえ、村田という名の若い護衛兵が、慌てて駆け入って来て叫びました。
 「大変危険です!暴漢軍人らが官邸に押し入りました。首相、どうか早く非難してください!」
 健夫人も早く隠れるよう促すが、犬養首相は、
 「いや、逃げん。彼らを入れなさい。少し話でもすれば、解るだろう。」そう答えたのです。将校らは、各部屋をあちこち見て回り食堂まで来ました。そこに座っている犬養首相を見つけると、一人の将校が直ちに拳銃を向け引き金を引くが、弾は発射しなかった。犬養首相は右手を挙げて、振り動かしながら言いました。
 「待ちなさい。撃つ事はいつでもできる。向こうの部屋に移ろう。話して聞かせたいことがある。」
 犬養首相は悠然として立ち上がり、将校達を客間に連れて行きました。多分狭い食堂では、もし撃たれた時に子供たちが巻き込まれると思ったのでしょう。子供を愛する犬養首相は、いつも幼い子らを守ることを第一に考えていました。その場にいた官邸護衛、健婦人や家政婦たちは皆、犬養首相に危険が及ぶことを察して後について行こうとしたが、将校の一人が銃を向けながら、
 「2、3言会話を交わすだけだ。ついて来てははならん。」と言ったのに対し、護衛官が聞き返しました。
 「本当か?本当に2、3言だけか?」将校は答えて、「本当だ。2、3言だけ話しすれば済む。撃ちはしないから恐れるな。」
 こうして、護衛と健夫人、家政婦は縁側で待たされました。
 食堂から客間に移る時の犬養首相は悠々として、普段客人をもてなす時と全く変わらなかったそうです。丁度官邸に来ていた耳鼻科の大野医師は、あまりに犬養首相が悠然とした態度なので、暴漢軍人たちは何処か門外にいるのだろう、この人達は当局に派遣されて警護に来た軍人だ、だから客間に案内しているのだ、そう思ったそうです。
 犬養首相は、数名の将校と一緒に客間に入り、後から何処からかもう数名駆けて来て客間に入りました。少しして外まで掛け声が聞こえると、部屋の中から幾度も銃声が発して、暴漢将校たちは昂然として立ち去って行ったのです。
 健夫人は急いで電話を掛けに行き、家政婦が客間に駆け入りました。見ると、犬養首相は、テーブルに肘をつき身じろぎもせずに座っていた。こめかみと頬が真っ赤な血で染まっている。しかし、首相は落ち着き払い、家政婦にこう言いました。
 「煙草に火をつけてくれ。」
 けれど煙草は血で濡れ、家政婦は手足が震えて火がつけられない。犬養首相は言いました。
 「彼らを呼びに行って来なさい。話して聞かせるから。」
 そう言うと、すぐに倒れ込みました。名医が幾人も駆けつけ懸命に治療しましたが、無駄でした。
 犬養首相は、その日の夜死去しました。時刻は11時26分、享年78歳でした。」         
          
「クオン・デ 革命の生涯」より

 この頃の国際情勢は、1929年に発生した世界恐慌による同時不況下にですね、前年は柳条湖事件、そして満州建国して翌年は国連脱退です。1931年から3月事件、10月事件と、軍によるクーデター未遂事件や、右翼団体などによる政治家への殺傷事件も多発していた頃ですから、国運を担い生命を掛けていた当時の緊迫感が伝わりますね。(現在の世襲の政治屋貴族政治とはエライ違いだぁ。。。(笑)😭😭😭)

 クオン・デ候は、「(ベトナム革命党への)資金援助は16年間続きました」と、犬養毅からの資金援助に言及していますが、この援助は何のためかと言いますと、政治家ですから、何と言っても一番は祖国日本の国益の為ですよね。。。当たり前ですよね。。。
 「犬養邸には、中国人の他、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボースやベトナム皇子のクオン・デ候ら、多くの亡命者が匿われた。(中略)だがそれは、慈善活動ではない。当然、政治家として冷徹に計算を働かせている。」      『狼の義 新 犬養木堂伝』より

 世界地図を見てみるとよく解るんですが、ベトナムは世界の『臍』に当るような位置にあるんですね。東西の交通の要衝で中継地点として陸路海路に於いても、経済的にも軍事的にも戦略上非常な重要地点に当ります。それを知ってか知らずか、フランスは、仏領インドシナ・ベトナムを占領当初から極端な鎖国状態に置きました。当時の日本は対ソ防衛・満蒙問題が最重要課題で、関東軍の石原莞爾なども南方進出には長い間反対の立場にあったそうですし、別に西洋列強・フランスをわざわざ敵に廻してまでベトナムに手を出す立場に無い、というのが当時の識者の大方の意見だったようです。第一次世界大戦参加で「東洋の優等生」として「準一等国」の「栄誉」を西洋国から得ましたから、それ以上は高望みせず、、、凡人の私なら絶対そうです、だって怖いし。。(笑)
 しかし、西洋列強の顔色を見つつ満州投資に没頭していた日本が、何故か「虎の尾を踏んだ」と云われるのが、仏印進駐なんですよね。特に南部仏印進駐を合図に、突如として対日攻撃を開始したアメリカを考えると、「ベトナム」が西洋列強の「虎の尾」だったのだ、と、結果が出た今日から分析すれば判りますが、当時は判らなかったでしょう。そしてやはり、アメリカは「ベトナム戦争」へ向かいました。結局、このある意味ワンパターンの構図は、実はべトナムに長く住んだ私から見れば今でも殆ど変わってないように思えます。しかし、この構図が見えている日本のメディア識者の方は案外いないのかなぁ、、と、最近ますます感じます。。。💦

 犬養毅は、渋沢栄一らと共に1915年『南洋協会』を立ち上げました。南方進出で得る経済的軍事的効果も背景だったでしょうが、それだけではない筈です。1905年に命からがら祖国を脱出してきたベトナム抗仏党の使者潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)一行と面会した犬養毅は、直接フランス植民地下の残虐な悪政の現状を聞いた、当時日本に於ける初めて且つ唯一の証人です。「西洋植民地主義」が、南方の海を隔てたすぐ傍まで来てる。戦慄が走ったと思います。当時は何と言っても『弱肉強食』時代。うっかりしていては、確実に日本も危険に晒される、その事を即座に理解した政治家。クオン・デ候にとっては、大変心強い理解者であり真っ当な政治家、それが犬養毅だったのではないでしょうか。
 
 時は丁度、欧州大戦(=第一次世界大戦)が勃発した頃(1914ー1918年)ですし、あんなに狭い土地で西洋人がお互いに殺し合いをしたのですから、正に世界は世紀末の様相です。もしその大戦でフランスが負ければ、日本は必ず国としてベトナムを援助し、フランスから独立させる。犬養毅はベトナムのクオン・デ候にそう約束しました。けれど、フランスは大戦に勝ち、この時約束は叶いませんでした。しかし、次回に来るチャンスにこそ、とずっとベトナム抗仏党とクオン・デ候への援助を続けてくれました。
 ベトナムが西洋植民地から解放され独立し、自主国家として親日政権が樹立されれば、相互扶助が得られ、何より日本の安全保障が確立します。犬養毅は、日本の政治家として信念を持って、祖国の国益・国防に備えていた。それがベトナム支援の核の目的だったのだと思います。

 その(2)ベトナム独立を支援し続けた 第29代総理大臣犬養毅のこと その(2)|何祐子|note に続きます。


 
  

 

 
 

 
 
 
  
 



 
 
 

 
 


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