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ベトナム志士義人伝シリーズ⑩ ~東遊(ドン・ズー)留学生の最期~

 1906-1908年頃に、祖国解放を志すフランス領インドシナ連邦当時のベトナムの若者が、沢山日本へ秘密渡航して来ました。これが『東遊(ドン・ズー)運動』でして、名前だけは知っている、聞いた事がある、という日本の方も多いかと思います。

 ベトナム国皇子クオン・デ候は、「私が日本に渡航して来てからというもの、ほぼ毎日の様にひっきりなしにベトナム人学生が国を脱出して日本へ留学して来ました。」自伝『クオン・デ 革命の生涯』の中でそう述べています。
 元々は、勤王党の抗仏決起に使う武器の購入援助を頼むべく渡航して来ましたが、日露戦役直後の日本にベトナム援助の体力はまだ無く、落胆はしたもののすぐに気持ちを切り替えました。
 「困難の上にまた困難。私と潘は、兵器入手問題は一旦棚上げし、先に人材育成へ全力を傾けることにしました。将来有望な人材の育成を目的に、ベトナム国内で海外留学生を広く呼び掛けることにしたのです。」
          『クオン・デ 革命の生涯』より

 クオン・デ候は『国民に告ぐ檄告文』『六省普告文』潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、『南坼父老に哀告する文』等を書いてベトナム国内へ送ったため、「1907ー1908年の頃に、東京のベトナム人留学生は200人を超えた」といいます。
 しかし、フランス側の悪質で周到な妨害に遭い、1908年10月頃、アジア留学生を受け入れていた東亜同文会に対して、『ベトナム人留学生の解散命令』が下された為に、殆どの学生は日本を離れなければならなくなりました。
 離日したベトナム人学生は、国許の両親の元に戻った者、或いは祖国へ帰らず中国へ渡った運動家も多かったです。外国に在り極貧生活を続けて結核や脚気を患う等、若くして自殺した者も数多く、孤独な彼らの葬儀はどうしたのか、位牌は、墓は、、を思うと心が痛みます。。
  「…力を尽くして戦死した者、険を冒して死んだ者、悲憤のあまり自殺した者、苦学の果てに死んだ者、その志に殉じた者…。」と、『越南(ベトナム)義烈史』の著者鄧搏鵬氏は、亡き同志の事を書き遺すに、「この本を何故作るのか。すじみちを立てて述べがたい」と心情を吐露しています。 
 
 後藤均平先生も、邦訳版出版にあたり、
 「…義烈史の著者、鄧搏鵬君流に言えば、”越南義烈史の日本語訳本をなぜ作るのか、私にはわからない。ただ、義烈史の志士たちが、夜ごと枕に立ち現れて、訳書を出せと強いるのだ…”」と言い、「訳者は、こうも「死」とつき合ってはやりきれない、としんじつ思った。つき合えば付き合うほど、こちらは身心ともに消耗する」という言葉も添えておられます。

 実は私も、此の本を読むと毎回全く同じ暗い気持ちになり、それ故、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)やクオン・デ候と違って唯の無名東遊留学生離日後の非業の死を取り上げても、興味を持つ日本人は少ないだろうと思案してました。けれど、私みたいな変わった人間(!?)が今後何時現れるか判りませんので、一度纏めて置きます。。

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*潘賚良(ファン・ライ・ルォン)君
  君もまた、乂安(ゲ・アン)省の興元(フン・グエン)県の名望家の息子である。父君は君を愛しむ余り、1908年の3月、嫁を取らせた。だが、2カ月もたたぬうちに、君は仲間15,6人と
広西の山路を抜け、香港に出て日本に渡り、東京の同文書院特別班に入学した。
 この年の冬は寒さ厳しく、日課の
軍事教練は骨身に堪えた。君は元来蒲柳の質、加えて南国育ち、日本の冬の寒さに負けて肺を病んだ。
 離日して香港に着いたとき、病状は劇化し治療も効き目がなく、この病いは治るまい、君は断じて帰らぬと言っていた。
 1910年3月、君は粤(広州)行の汽船に乗り、海中に身を投げた。人々に救い上げられ広州の医院に入るが、そこで息を引き取った。

*武君慣(ブ・クアン・クアン)君*
  広義(クアン・ガイ)平山県の人。出洋後の名は藍広忠(ラム・クアン・チュン)。一本気で、思ったことは直言する、事に直面すれば勇んで進み、怯え退くこと些かも無い人だった。
 1907年、君は22歳、日本に渡り同文書院に入った。離日後は、資金を集め香港へ。羅馬(ローマ)字学校で英文を習い、中国革命成功後に名を変えて広東籍を取り軍事学校を卒業した。
 1914年冬と翌年夏、雲南から広西の国境地形偵察に、風霜を冒しての山野抜渉、この艱苦が度を過ぎたか鼻痔を病んで、やがて脳を侵された。
 入院加療したが、治らぬ。君は嘆き、忿み、懊悩の末、遂に珠江に身を投げた。

*高竹海(カオ・チュック・ハイ)君*
  君は乂安省の人。聡慧で勤敏、少年でフランス語の学校に入り、3年後フランス医学院を受験、合格した。7年学んで卒業した君は、同志の間でフランス語にかけては右に出る者なし。在日雲南留学生の発行した『雲南雑誌』の法文訳は、殆ど君がした。
 1906年の冬、河内(ハノイ)で君に会った。共に日本へ渡った。君は、学校に入る前から日本語の習得に励んだ。一年が経ち、天然痘に罹り、横浜の寓舎で志を抱いて、空しく没した。時に26歳だった。

*范振淹(ファム・チャン・イェム)君*
  河内(ハノイ)出身の君は、少年でフランス語学校に学び、卒業すると通訳に就いた。1908年出洋し、日本で同文書院に入学したが、学資が届かず日本を離れ、香港に向かった。
 君の兄は、熱誠溢れる愛国者で、君の出洋を力を込めて助けた。しかし、惜しくも君は香港で病いに倒れ、25歳で病死した。君の夭折を悲しむ兄君の嘆きはいかばかりか。

*黎求精(レ・カウ・ティン)君*
  乂安(ゲ・アン)省真禄(チャン・ロック)出身。同志と共に出洋し、1908年5月東京同文書院に入ったが、わずか一年で学資途絶え、香港へ返った。
 君は寛和温厚、長者の風格、加えて誰よりも優れた独創力と集注力があった。幼い頃に猟銃を見てすぐに模造し猟具に使った。周囲の大人どもは舌を捲いたという。香港でも君は、
日本の明治30年式小銃を手に入れ、真似て一挺の銅製小銃を造ったという。
 君は、日本で寒さに堪えたか脚気に罹った。治りきらぬまま、1909年私と共にタイへ。脚気が昂じて衝心にすすんで、通院一カ月、今度はチフスに侵された。劇しい死の床で、君は気力を振り絞り、同志に訣別の筆を握った。もう手足はままならず、筆を投げて、そして逝った。時に28歳。

*丁允済(ディン・ゾアン・テ)君*
  君は河静(ハ・ティン)省香山(フォンソン)県の人。沈着剛毅で寡黙、まことに君子の風格だった。
 1908年、
東京同文書院に入学した。学資が続かず、日本を捨ててタイのバンコックへ行き、ここで脚気に罹った。
 1910年の春、乂静(ゲ・ティン)辺境で挙兵する為、私と同志は山越えの為バンコックに着いた。君は我らに同道を申し出るが、脚気では無理だ、自重して本復を待てと言えども、承知しない。同行し、山渓を歩き、林に眠り、泉で飲み、マラリヤの地を進んで一カ月、君の病いが劇発した。
 君は我らと別れがたく、目を瞑りまた甦けては徘徊し、行かん想いを示したという。床からの譫言は、ただ狂おしく同志の名を呼び、そしてフランスを殺せ、殺せ、と叫んでいたという。
 5日経ち、同志が床に見舞うと、君は喜び精神が立ち直って、起きて座って談ること6時間、忽然と逝った。時に26歳だった。

*范当仁(ファム・ドゥン・ニャン)君*
  河静省徳寿(ドック・ト)府泰河(タイ・ハ)社の人である。6歳で漢文を読んだ、誠に聡明な質だった。
 実兄が崑崙島に流された時、君は日本に渡り東京同文書院で学んでいた。やがて日本を離れ、タイへ行った。
 辛酸を甞めて1912年、中国へ。1914年君は変名して保定軍官学校予科を受験して合格、2年後に優等の成績で卒業した。しかし、その結果が喀血を招いた。加えて華北の冬の寒さは厳しく、暖国生まれの身体に適さなかったのか、遂に重症となってその年秋に没した。30歳だった。

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 上海での初版発行が1918年。これ以後に積み重なる沢山の『死』は、もう知ることが出来ません。
 縁あって明治日本を頼り、遥々海を渡って来た東遊ベトナム人留学生達のその後と最期。時が経っても、忘れ去らない日本人でいたいです。それらを全く顧みなくなり、自国他国の先人の犠牲を軽んじる日本人が多勢を占めるなら、その時の日本はもう日本で無くなっているような気がするからです。



 
 
 
 


 

  

 

 

 

 






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