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ベトナム革命家と孫文(そん・ぶん)

 中国の革命家、孫文(そん・ぶん)は、日本の学校で、『中国革命の父』と世界史で習いますね。。。私は学生の頃は歴史が大の苦手で、当然これ⇧くらいの知識しかありませんでしたが、💦 ベトナムの抗仏運動史を調べて行くと意外にこの孫中山先生が登場するので、今では親近感を持っています。😅😅

 ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウは、1905年に日本にやって来ましたが、渡日後間もなく東京であの車夫と出会った数日後に、犬養毅から孫文(そん・ぶん)を紹介されたことが自伝書『自判』に書いてあります。

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 「その数日後、犬養毅先生からお呼び出しがあった。お宅に伺うと、中国革命党の大首領、孫逸(孫文のこと)先生をご紹介頂けるという。
 孫氏は、この頃丁度アメリカから日本へ戻ったばかりで、中国同盟会を組織するために横浜に長逗留していた。」

 犬養毅は、潘佩珠にこう言いました。
 「貴国の独立のことだが、中国革命成功後になろうかと思う。彼等の党と其方たちは、「同病相憐」(=同病相い憐れむ)関係にあるのだから、後日の為にも今から知合っておいた方が良かろう。」

 こうして、犬養毅から名刺と紹介状を貰った潘佩珠は、孫文を訪ねました。
 「翌日の夜8時頃に横浜の『致和(ちわ)堂』という所を訪ね、孫氏に謁見した。紙を取り出して筆談するに、孫氏は私の書いた『ベトナム亡国史』を読んでいたので、私の頭がまだ『君主思想』から踏み出せていないことを知っていた。その為だろう、孫氏は懸命に『立憲君主主義』の危険性を説き、そして結論的にはベトナムの党員を全部中国革命党に入党させたい考えだった。
 中国革命が成功したら、戦力を全てアジア各国の植民地へ移し、独立を成さしめるだろう、その一番はじめに援助する国がベトナムだという。」
                  
『自判』より

 
孫文は、『亜細亜主義』の先駆者ですから、共に手を取り合って西洋植民地主義をアジア地域から撲滅しよう、そのためにはベトナム党員がまず中国革命に参加して欲しい、という意図だったと思いますが、これに対し潘佩珠はこう答えたそうです。
 「『民主共和』は素晴らしい思想だと認めますが、まず中国革命党が先にベトナムを援助してベトナムを先に独立させたらどうでしょうか。ベトナムが独立したら、ベトナム北部を中国の党が根拠地として使って両広(広東・広西)を押さえれば、中原(華北平原一帯)を取ることは容易でしょう。」

 お互い自論を譲らずに話は白熱し、とうとう夜の11時になったところで潘佩珠は席を立つと、孫文は後日第2回目の会談を約したそうです。

 「翌日、再度『致和堂』を訪ねて、もう一度前日の私の考えを伝えたが、結局意見は一致しなかった。奇妙なことは、私が中国革命党がどんな党なのか何も知らないし、孫氏もベトナム革命党の実態を知らなかった。お互いが隣の芝生が青く見えるだけという話。しかし、精神的な部分ではお互いに強く相通じるものがあった。
 この後我が党の困難な時期に、彼等の党から多くの援助を受けることになったのも、あの2日間の会談のお蔭でもあった。
 後に肝臓病で北京で死去した孫先生を偲んで、対句を詠んだ。

   志在三民 道在三民 憶横津致和堂両度握談
   卓有真神胎後死 憂以天下 楽以天下 
            被帝国主義者多年圧迫 痛分余涙泣先生   」

 「丙午年(越南の成泰8年(1906))から戌申(1908)年の秋頃までの3年間が、自分の人生大得意の時期だった」と、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は逮捕後に軟禁されていたフエで自伝書『自判』を書いた1928年頃にそう振り返っています。

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 クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』にも、孫文と中国同盟会とのエピソードが書いてあります。

 「支那革命党の前身である中国同盟会は、元々日本に活動根拠地を置いていたので、私と潘佩珠は、日本にいる頃に孫文や黄興(こう・こう)ら党幹部と面識がありました。」
         『クオン・デ 革命の生涯』より

 短い日本滞在期間でしたが、日本で築いたアジア革命家同志のネットワークは、日本退去後のベトナム人活動家にあらゆる場面で役に立ちました。
 1910年頃に香港に滞在していたクオン・デ候も、興味深い話を自伝に遺しています。
 
 「私が広州から移って来た1910年初め頃は、香港の根城はもう満員状態で、取敢えず私一人で家を借りました。我々の香港グループの根城は西環盤地区の2階家で、その1階を居住用、2階は倉庫にして銃器弾薬を既に6、7か月保管していました。己酉(1909)4月頃、武器を購入して国に送ってくれと乂静(ゲティン)省の同志たちから潘佩珠へ連絡があり、買い付け資金が送金されて来たのです。潘佩珠は、鄧子敏と鄧午生の2人を日本へ派遣し、 日本が先の日露戦争に使用した旧式銃を1挺7円で3百挺と銃弾を買い付け、秘かに香港へ持ち込みここで保管していたのです。」

 この件は、潘佩珠著『獄中記』にも同じ記述があります。
 「己酉の年(1909)、夏4月、国内の党員が千辛万苦の結果に出来た金額が送り越されたので、私は直ちに、某国商人についてひそかに武器を買いました。(中略)すでにして、鄧子敏君らがひそかにこれを香港に運んだのは5月下旬で、(中略)私はすなわちシャム(=泰)に走って、当局の人に見え、その秘密援助を求めた」     『獄中記』より

 この鉄砲買い付けは、内海三八郎氏著『潘佩珠伝』に詳しいです。
 「潘佩珠の紹介状を持った鄧午生(ダン・ゴ・シン)と鄧子敏は、潘の知り合いの横浜の鉄砲商『山口商店』を訪ねた。明治30年式歩兵銃一百梃、帯剣、弾盒、実弾等付属品一切つき、1梃20円の合計2千円で商談をまとめた。」  『潘佩珠伝』より
 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の説明によりますとこの銃は、
 「明治30年式銃は、日本陸軍が日露戦争の時使用した5弾込長身銃だが、日露戦後に日本は全部新しい銃に取り換えた。不要となったこの旧式銃を保管してても意味がないからと、陸軍省が民間に払い下げた銃だったので、鉄砲商が非常に安い値を付けていた。」 
                 『自判』より

 そのために、現金で百梃、後払いで4百梃、合計5百梃の買い付けに成功したそうです。

 「この銃器を秘かにゲアン省まで運び 入れるにはタイを通って行くのが一番便利だから、潘は自身でタイへ行きタイ政府 に通行許可を願い出ます。潘から日本の銃器を買い付けたと聞いたタイ政府は、日本がベトナム革命を援助していると思って通過を許可しました。潘が香港に戻って、タイへ銃器を運び込もうとすると、突然にタイ政府が許可を取り消したとの報が入ったのです。私が日本を強制退去になってタイへ渡ったので、タイ政府は、日本政府がベトナム革命を援助しない政策に切り替えたと見たのでしょう。もしタイ政府単独でベトナム革命に協力していると見做されたら、タイ一国の非力ではどうあってもフランスに対応できない。そんな背景で協力を停止したのです。」              『クオン・デ 革命の生涯』より

 日本で武器の買い付けに成功した潘佩珠は、武器の運搬(密輸)、香港での保管について、中国革命党の李仲奇(り・ちゅうき)氏からアドバイスを得たそうですが、ベトナムへの密輸方法に頭を悩ませた末、タイ国親王を直接訪ねて武器通過を願い出た、という経緯があったようです。

 「潘佩珠は仕方なく、この銃器を別のルートで提探(デ・タム)軍応援の為に北圻地方へ送るべく画策したが、結局送ること叶わず、銃器はずっとそこに保管されたままでした。その頃、支那の革命党首領孫文が広西-雲南方面で挙兵するために銃器弾薬を欲しがっているという情報が入りました。私は、倉庫でいつまでも保管していれば自分たちに危険が及ぶ可能性もあるから、この際全部孫文へ援助してあげた方が良いのでは、と潘佩珠に相談しました。」
 この翌年の1911年10月10日、武昌で革命『辛亥革命』が成功しました。孫文が挙兵に使う武器を集めている、、、という情報をベトナム革命党側も事前に入手してたんですね。

 「丁度、孫文の実兄である孫眉(そん・ び)が九龍に来ていたのでこの話をすると、木製箱型弾倉の数十挺を普通の買い物でもするように即決で購入しました。彼はその銃器を北海に運び、その後で軍隊を広西に上陸させる計画でした。けれど、通常香港では輸出入製品検査をしないのだが、荷物を小舟に下した仲買人が、荷物があまりにも重いので、中身はなんだ、開けて見せろ、と言う。荷物を持ち込んだ人間は、これは万事窮す、家にカギを忘れたので取りに帰る、と口実を言ってそのまま逃げてしまったのです。怪しんだ仲買人が警察を呼び、荷物を開けてみれば中身は銃器と弾薬です。当然、全部警察に没収されました。」
         
 『クオン・デ 革命の生涯』より

 、、中々上手く行きません。。💦
 
 「貴国の独立のことだが、中国革命成功後になろうかと思う」という犬養毅の言葉は実際本当にそうなりました。
 けれど、辛亥革命を成功させた孫文が、中華民国臨時政府の総統に就任した直ぐ後に辞職したことを考えると、もしあの時、ベトナム革命党が中国同盟会へ参加していたら、その後の歴史はどうなっただろうか? などと考えたりもします。

 しかし、いずれにせよ、クオン・デ候がこの当時を振り返って総括したこの言葉に、全て集約されているのかなと思います。
 
 「しかし実際、自分たちの手中に経済力がなく、ただ外部の助けを待つだけである限り良い結果を得ることは極めて難しい。」
        
 『クオン・デ 革命の生涯』より

  



 
 

 
  

 
 

 


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