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本の登場人物・時代背景に関する 補足説明(6)

『尊室説(トン・タット・テュェット、別名:阮福説)』
  → 当時の輔政大臣。
 「この時、広東・広西長官を通して清朝廷へ救援を乞うため広東に赴くが、逆に清朝政府により韶州に軟禁されてしまった。」 
               『ヴェトナム亡国史 他』より
  → この時、同時に立ち上がった(ように見せかけた)、もう一人の官吏の名が『阮文祥(グエン・バン・トゥン)』。ファン・ボイ・チャウは、『ヴェトナム亡国史』の中でこの人物を『奸臣』と呼びこう記している。      「表面は虎狼の如く兇悪で、腹の中は狐のように卑劣な連中であった。人の意を迎え表面を飾るのに巧みで、うまく帝の心を捉えた。当時フエ朝廷の機密院大臣であったが、保身と出世欲から、以前より賄賂でフランス側と内通していた。」
 「文祥は、フランス軍の手引きをして町に導き入れた。阮福説は、阮文祥に救援の軍を依頼したが、文祥は逆に自軍の弾薬補給を絶つなど、フランスの勝利に貢献した。しかし、その忠誠心の無さに逆にフランス側に懐疑を持たれ、結局後に海へ連れ出されて殺され、そのまま海の底に沈められてしまった。」

『潘廷逢(ファン・ディン・フン)の死去』
  → 「フランス人が我々ベトナム人を縛り付けるのに用いているやり方は一族皆殺し、墓暴きです。進士潘廷逢のごときは、山に入って、義士を集めること11年、彼の父潘廷選(ファン・ディン・ティェン)、伯父潘廷通(トン)及び彼の母の墓はすべてあばかれ、彼の子潘廷迎(ギン)は晒し首になった。潘廷逢は、死後に墓をあばかれ死骸を引き出されて火炙りにされた。」                                                        『ベトナム亡国史』より

『李常傑(リ・トゥン・キェット)』
  → 「李朝代の名将。昇竜(現ハノイ城内)出身。支那の宋軍を破り、占城(チャンパ)を征し後世の南進の道を拓いた。」
                                                    『ベトナム人名人物辞典』より

『陳国瓚(チャン・クォック・トアン=陳興道(チャン・フン・ダオ))』  
       → 「陳朝代勲功第一等の人物。13世紀後期における、モンゴル元軍の侵略(元寇)を2度に渡って撃退し、国家の自由を保衛した総司令官で民族的英雄。」
                 『ベトナム人名人物辞典』より
 現ホーチミン市の一区に「チャン・フン・ダオ通り、一区のレ・バン・タム公園の近くに『チャン・クオック・トアン通り』がありますね。

『賊』
 → 「フランスは勤王軍の抵抗に苦しい目を見せられたので、懐柔策を試みるようになり、明治18年には民政を布いてポール・ベル(Paul Bert)を任命し、人心鎮撫の方策を 実行させた。ベルは(中略)官人のうちから皇帝の名によって「忠順」なるものを選ばせ、これに『経略(Kim Locキン・ロク)という官命を与えて東京(トンキン)に駐在させ、フランスに強力して人心の安定に奔走させたのであった。」  
                『安南民族運動史概説』より    
 フランスのこういった政策もあり、この頃官僚の多勢が保身と利己主義に走った結果、フランスに抵抗する同国人を『賊』と揶揄するようになっていたのですね。ファン・ボイ・チャウの著書にもこの当時の国内社会情勢に関する多くの記述・説明があります。やはり国が滅ぶときは、完全なる強力な外圧によってのみではなく、まず先には内政混乱から分裂が起こり、賄賂横行から国政の乱れ、自国民に弾圧を加え、外国勢を利するような政策が増えて来る。。。何といいますか、全然古くないですよね、この流れは。。。

『阮誠(グエン・タイン)』 → 
 「字は南盛(ナム・ディン)、小羅(テウ・ラ)とも呼ばれた。広南の人。8歳の時に父は世を去り母に養育された。ハムギ帝出奔し、各地に義軍を募った時、18歳で義挙に応じた。各地義兵副将の中で最年少だった。」     
 「国内での党務計画、国外に向けての援助手段、募金運動そのほかの画策は、ほとんど阮誠公から」という、独立革命の立役者とも言える人物である。
                  『越南義烈史』より

『鄧蔡紳(ダン・タイ・タン)』
 → 「字は魚海(グ・ハイ)、乂安(ゲアン)省真禄(チャン・ロック)県の人で、鄧子敬(ダン・トゥ・キン)の侄(おい)。潘佩珠の高弟。性質は沈毅、言動は謹厳、人と交われば穏やかで誠意そのもの、付き合う程に親しみを益す、そんな人柄であった。1910年2月フランス兵の急襲に遭い、べトナム人傭兵を見て、同族相殺し合うを潔しとせず、短銃を喉に当て、自殺した。」                                  
                『ヴェトナム亡国史』 
 「大胆で心大きく、沈着剛毅で、私(=ファン・ボイ・チャウ)とは十余年来師友の交わりをした人でした。  『獄中記』

『黎瑀(レ・ヴォ)』
  → 「将家の生まれ。4人の兄は皆国難に殉じて、末弟の彼だけ一人生き残っていた。阮誠氏の旧知の仲。」 『越南義烈史 』

『陳春撰(チャン・スアン・ソアン)』
  → 「嗣徳帝代の武官。北部出身。咸宜帝を護衛してフエ城を脱出し、援軍を求め清国に向うが、そのまま帰国することが叶わなかった。」
           『ベトナム人名人物辞典』

『ベトナム光復会』
  → 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の「自判」では、この時結成したのは『維新会』で、後の1912年に広東省で『ベトナム光復会』を再結成した、とある。要するに、ファン・ボイ・チャウが『自判』で『維新会』と呼んでいる会と、ここで言う『光復会』は同じ会だと思います。

『阮述(グエン・トァット)』
  → 当時フエ宮廷吏部大臣

『陶進(ダオ・ティェン)』
  → 当時のフエ宮廷工部大臣

『フランス理事長官が借問し』
  → 「フエ駐在のフランス欽使オリヴィエ(後インドシナ総督)が成泰帝を廃位せんとして、クオン・デ候を帝位につけようと画策した時のこと。」 
                       『獄中記』
  → 「尤も明治35年前後に帝位に即いていた成泰帝は前に述べたようにフランスのために廃せられたほどの人物で、フランスの頤使に甘んじない気骨があったため、彼等白人支配者は、帝を廃するに先立って、後継者として強デに目をつけ秘かに事を謀った事があった。ところが畿外候は帝に劣らぬ愛国者であったので、順化に駐在したフランスの大使オリヴィエが奨めを   郤け(中略)要するに候は、賢明高邁にして能く事理を辨え、敢えてフランスの傀儡たるを潔しとしなかったのである。」
                   『安南民族運動史概説』 

『提探(デ・タム=黄花探(ホアン・ホア・タム)』
  → 「北部北江県安世村出身。フランスの植民地支配が、ほぼ完了した1883‐1913年の間、フランス当局に抵抗して救国運動に尽瘁した「勤王(Cần Vương)」党の傑士。最期は華僑の友人の裏切りにあい、1913年隠れ家を急襲され射殺された。」  
               『ベトナム人物人名辞典』
  → 「この(北圻勤王党)将軍は、阮碧公の遺鉢を継ぎ北圻すなわち北部越南及びトンキンを勢力範囲として頑強に抵抗し、フランスも遂に屈して妥協を試み、将軍に広大な土地を与えて辛うじて事なきを得ていたのである。」
                『安南民族運動史概説』
 現ホーチミン市一区のバックパッカー街がある通りの名前になっていますね。フランス軍には『安世の虎』と呼ばれて恐れられた猛将軍でした。。。

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(7)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note


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