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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(10)

『辮髪(べんぱつ)』
  → 後頭部を除く頭髪を剃り上げ、残した毛髪を長く伸ばして編み背中に垂らす、アジア北方諸民族の男性特有の髪型。満州族が建国した清国では、漢人にもこの髪型を徹底し、違反者を厳しく罰した。

『黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)』
  → 乂安(ゲアン)省真禄県出身。本名阮徳功(グエン・ドック・コン)。東遊運動で、1908年4月に日本へ留学して来た。香港でタイ行きの船を待っていた時にフランスに捕えられ、1915年ハノイの白梅刑場で銃殺されてしまった。                  『越南義烈史』

『陳有力(チャン・フゥ・ルック)』
  → 別名阮式唐(グエン・トック・ドゥン)。乂安(ゲアン)省真禄県の人。1908年日本へ渡航し、東亜文書院に入学した。上海に渡り中国語を学んで広西の陸軍幹部学校に中国人として入学し卒業。広西人として中隊長になる。1915年タイで工作活動中に捕縛、ハノイへ移送されて白梅刑場で銃殺された。                   『越南義烈史』

西関黄沙の周師女史』
  → 潘佩珠の「自判」に、この周師女史のことが詳しく書かれている。「広東省香山県出身の支那人寡婦で、ベトナム革命志士を長年に渡り親身に援助してくれた。 漢文の素養が深く義侠心の強い女丈夫であった。」

『周女史のご子息鍾(しょう)氏』
  → 『潘佩珠伝』には『周俠生』と書かれている。

『阿片(アヘン)戦争』
  → 1840年アヘン(阿片=大麻)の密輸を巡って清国とイギリスの間に起った戦争。紅茶や絹製品の輸入超過を解消しようと、イギリスが清国へインド産アヘンを密輸したため、清国内でアヘン中毒が蔓延した。またこの決済の為に銀が大量に流失したため、清国はアヘン禁止令を出すが、これを不服としたイギリスが、清国に対し戦争を仕掛けた。この戦争で敗北した清国は、南京条約を締結。それ以後の混乱と、西洋による反植民地化の第一歩となった。

『先の日露戦争に使用した旧式銃』
  → ファン・ボイ・チャウは、「横浜の鉄砲商山口商店から、明治30年式歩兵銃一百挺、帯剣、弾盒、実弾等附属品一切つき、一挺20円合計二千円(五百挺)で商談を纏めた。」と書き残している。

『孫眉(そん・び)』
  → 「シンガポールに旧知の章炳麟を訪ね、紹介状をもらって、支那革命党の巨頭を訪ねた、とある。多分、この孫眉(孫寿屛)のことであろう。」 
                『ヴェトナム亡国史 他』
「500挺のうち20挺を残して孫眉の代理に引き渡した」『潘佩珠伝』

『タイで畑業計画』
  → 「潘佩珠が日本を去るとき、大隈重信が当時タイ法律顧問をしていた佐藤博士に紹介状を書いてくれた。博士の口添えで、タイの国王に謁見が許された。親王より集団農場経営の許可を得た。」
                     『潘佩珠伝』

『潘佩珠も広州からタイへ』
  → 「1911年、私は復暹羅に行きました。磐谷(バンコック)に赴き、更に伴忱(バン・チン)の田舎に行って櫛風沐雨、聊か少年達と辛苦を共にして、仮に髀肉徒らに肥ゆるの嘆を消しながら、凡そ八カ月を過ごしたのでした。」                 『獄中記』

『越僑(えつきょう, Việt Kiệu)』
  → 海外に移住したベトナム人のこと。

『昆崙(コンロン)島』
  → フランス統治時代はプロ・コンドール島と呼ばれた流刑の島。現在のコンダオ島。

『中国湖北地方の武昌で革命』
  → 1911(辛亥)年、武昌蜂起を発端として各省軍隊がこれに呼応した。『辛亥革命』とも呼ばれる。翌年、南京に中華民国臨時革命政府成立、孫文が臨時大統領になった。

『黎元洪(れい・げんこう)尊師』
  → (1868-1928)湖北省出身。字は宋卿。北洋水師学堂卒業。清の軍人、政治家。父も太平天国の乱鎮圧にあたった清朝の軍人であった。ドイツ留学を経て湖北進軍を訓練した。

『孫文や黄興ら党幹部と面識があった』
  → この頃の潘佩珠は、中国革命党と日本の平民党の間を奔走し、東亜諸民族大同団結運動の為、「東亜同盟会」を結成した。この会には、中国側は章炳麟、張継、朝鮮は趙素昂、インド同志、フィピリン同志らがいた。日本人は、大杉栄、境利彦、宮崎滔天などが加わったという。」                             
                    『潘佩珠伝』

『陳其美(ちん・きび)』(1877-1916)
  → 清末、民国初期の革命家。浙江省出身。日本に留学して中国同盟会に加入。辛亥革命の時上海都督、工商総員となる。第二革命で日本亡命。後帰国して討袁運動画策中、上海で暗殺された。
                  『ヴェトナム亡国史 他』
  →「潘は広東に帰る前に南京から上海に出て新都督陳其美に会い、潘とは東京以来親しい友人爾汝の間柄であったから、(中略)その場で四千元と爆弾30個を送った。」      
                   『潘佩珠伝』
  *この時の爆弾が、この直ぐ後ベトナム全土で実行された『爆弾投下事件』の爆弾。

『宋教仁(そう・きょうじん)』
  → 湖南省出身の政治家。日本に渡り中国同盟会に参加し、機関紙「民報」の編集にあたった。辛亥革命後、臨時政府の要職に就くが袁世凱と対立し、1913年暗殺された。

『軍用票』
  → ファン・ボイ・チャウの『獄中記』に『ヴェトナム光復軍軍票』の事が書かれている。

 『 支那社会党の劉師復(りゅう・じふく)』
  → ファン・ボイ・チャウ『獄中記』に「広東の社会党が我が党を助け、云々」という記述があります。
  → 「心社の劉師復先生から二百元の贈与を受けた。先生は、心社という秘密結社を創立、共産主義の実行を目的とする極左の社会主義者であった。」                  『潘佩珠伝』

『胡漢民(こ・かんみん)』(1886-1936)
  → 広東省出身の政治家。日本の法政大学に留学し、孫文と知古となり、辛亥革命ののち広東都督となる。第二革命の失敗後日本へ亡命。1916年帰国。孫文亡き後国民党の領袖の一人として要職にあったが、終始蔣介石と抗争和解を繰り返した。          『獄中記』

『阮海臣(グエン・ハイ・タン=武海秋(ブ・ハイ・トゥ)』
  → 「阮錦江(グエン・カム・ザン)とも名乗った。1915年越支国境の仏軍駐屯地を襲撃し、祖国を出奔する。50年以上に亘り独立運動に奔走した。」             『ベトナム人物人名辞典』

  → 「1913年2月阮海臣を、桂辺(広西辺境)の光復会支部長に任命した。」『獄中記』

『ハノイ、フエでの爆弾投下計画』
  → 内海三八郎氏著『潘佩珠伝』P.177に詳細が記されています。

『袁世凱総統』
  → 「清国の軍人、政治家。李鴻章死後の清国最大の実力者だった。河南省出身。孫文らが辛亥革命成功の翌年、早くも1912年3月に袁世凱が北京で臨時大総統に就任して、孫文派と対立。武力抗争が起こり、所謂第二革命へ突入した。」            
                 『ヴェトナム亡国史 他』

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(11)|何祐子|note 
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note       

      


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