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「安南民族運動史」(4) 〜抗仏勤王党の結成と始動〜 (再)

 明治36年の頃になって漸く様々な中心が結成せられ、ほぼ二つの党派が均しく祖国復興を志して組織せられた。
 一には北圻勤王党でその党首は黄花探(ホアン・ホア・タム)将軍である。この将軍は阮碧公の遺鉢を継ぎ北圻すなわち北部越南及びトンキンを勢力として頑強に抵抗し、フランスも遂に屈して妥協を試み、将軍に広大な土地を与えて辛うじて事無きを得ていたのである。この党派は旧越南王国の遺臣の集まりであるだけに、中心人物の多くは支那文化に哺まれた保守思想に生きる豪傑で、その戦法も直接行動によって売国奴及びフランス官憲を毒殺し或いは暗殺するという手段を用いた。
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 黄花探(ホアン・ホア・タム)将軍の元の肩書は、「提督(デ・ドック)」ですので、別名「提探(デ・タム)」です。ホーチミン市1区の西洋人バック・パッカー街にこの名を冠した通りがありますね。。。
 もし、デ・タム将軍が現代に蘇り、自分の名がついた通りを見たら、、多分びっくりしてお墓に戻っちゃうんじゃないでしょうか。。。😵‍💫
 デ・タム将軍に関しては、内海三八郎氏が『潘佩珠伝』の中でこう伝えています。
 「黄将軍は、ハノイの北50キロ、太原省安世(アン・テー)県出身。(中略)フランス軍から「安世の虎」と仇名で呼ばれ恐ろしがられた立志伝中の英雄であった。ハノイを占領したフランス軍も、北部の山岳地帯では、たびたび彼の奇襲に遭い、その都度苦杯をなめさせられたので、利をもって懐柔しようと百方手を尽くした。」
 「たまたまフランスが鎮難関を通って中国南部に通じる侵略鉄道、越桂線(ハノイ~桂林間)の敷設工事を始めた時、ランソン、バクザン間で線路が彼の部下によってしばしば破壊、持ち去られたりしたので、フランスはほとほと手を焼き、やむなく大譲歩、一県四総の土地を彼の領地として認め、8年毎に更新するという一見不利に見える条件で講和条約を結び時間を稼いだ。」
 北部山間地方で奇襲(ゲリラ)戦を駆使したと云いますから、内海氏は、
 「この点では黄将軍はべトミン軍の先生と言っても過言ではあるまい
 と、後に北部山岳地方を根拠地としたホー・チ・ミン氏のべトミン軍のことを引き合いに出しています。
 当時のベトナムでは、知らない人は無いくらい有名な将軍でしたが、最期はフランス側に金で雇われた匪賊の者の裏切りによって、1913年2月10日に屯地を急襲され捕縛、殺害されました。 

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 二つには、進歩的な青年分子の党派である。彼等は主として明治33年の拳匪事件このかた支那から流入した新しい出版物に啓蒙せられた知識層の構成要素であった。ところが此の青年派には二つの違った色彩があった。
 第一のものは、全面的に民族解放の実現を期して日本に来朝し、我が國の力を借りてフランス勢力を越南から徹底的に駆逐しようと努めた党派であって、その首領は今日もなお越南の民衆に救世主のごとく待望されている畿外候クオン・デである。之を助けて辛酸を嘗めた事実上の指導者は有名な潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)という儒者上がりの革命家であった。党派の名を「越南光復会」という。

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日露戦争での日本の勝利の一報がベトナムにも届きました。抗仏決起の為の武器入手に頭を悩ましていたクオン・デ候ら「越南光復会」は、日本を頼って武器購入の道を拓こうと決心します。その重大な使命を帯びた使者に、満場一致で選出されたのが儒者の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と、儒者の曾抜虎(タン・バッ・ホー)と、鄧子敬(ダン・トゥ・キン)でした。

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 その第二のものは、潘周禎(ファン・チュ・チン)を指導者として結合した組織で改良主義者の集団である。叙上の「光復会」とは異なり、フランス勢力との協調を志す穏和な主張を掲げている。その直接目的は越南の近代国家としての成長を期するために、国人の知的活動を阻害して来た科挙の制を廃止し、ローマ字化した「国語」とフランス語を以てする教育方針に協力し、地方の教育機関農商工会の開設を主張し、フランスの風俗習慣を取り入れて自国の陋弊を矯正しようとした。

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 「改良主義派」
に関して、大岩誠氏が詳細を記しています。

 「ところが、フランス当局は、この『平和』な紳士たちの結合すること自体を恐れた。ベトナム人を分裂させ抗争させて支配することを国策としたのである。ゆえに小さな事件が起こってこれを利用し得れば、徹底的な掃蕩工作をしたいと狙っていた。恰も明治38年ごろ平定(ビン・ディン)の市場で、集税人が原因不明の動機から殺害された。これが改良主義派に対する武力弾圧の合図となったのである。」
 「総督府の手はベトナム人のあらゆる社会層に伸びた。(中略)拘禁、閉門、懲役、流刑に処せられたものは数千人を数える。」
 「潘周禎(ファン・チュ・チン)などの著名の文人80名も極刑に処せられ、崑崙島に流刑となった。これら文人のほかに多くの知識人は、その作る詩文に謀反を煽動する字があると「認定」されて訴追され、今日でも反動的な保守派の諸新聞なども一斉に激しい弾圧を受けたのである。」
 「かくて改良主義派の甘夢は、冷酷な現実に痛ましくも破れ去り、「越南史に血をもって書かれた悲痛極まる事件」は、越南人の不満を今や再び憤激にまで昂め上げた。」
 
 改良主義派の代表だった潘周禎氏は、その後フランスに渡ってパリで活動していました。クオン・デ候が欧州滞在中に送った使者をフランスの密偵と勘違いしてフランス当局に差し出したことで、逆に当局に逮捕され悪名高いパリの『サンテ監獄』に収容されてしまいます。その時に著しく健康を害し、1926年3月にサイゴンで亡くなりました。

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 これら2派、詳しく言えば3派は目的も手段も多少異なったが、一般に専制政治に反対し抵抗する点では一致していた。故に全国至るところで殆ど同時に蜂起し、重税に抗議を申し立て、林中秘かに会合して議を練り盛んに毒殺を行い、フランスが治めて以来初めて見る大規模な民族戦争を展開した。  
 徹底的にフランスの勢力を駆逐しようとする党派は2つの流れを持っていたが、日本の対露戦争の勝報に喚び覚まされて団結して一党を結成し、日本に接触して其の援助の下に独立を実現する方向に進んだ。
 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は字を是漢、また巣南子と号する儒者であって、早くから独立運動に志して奔走したが、明治36年旧2月、同志黎璃(レ・ヴォ)を得て祖国復興の具体策を協議し、大義名分を明らかにして義軍を糾合する方針を立て、軍の頭領として越南帝室嫡流の皇族たる畿外候を戴き、国内に散在して相互の連絡をよく同志を集めるために、その頭領の下に北圻の勤王軍の中心に広く憂国の志士を募って事を起こす決意を固めた。
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この辺りの経緯は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の『獄中記』『自判』、クオン・デ候の『クオン・デ 革命の生涯』に詳しいです。
 私の翻訳本から、少し抜粋してみます。⇩
 
 「ベトナム革命の話を語る時、潘佩珠に言及しないことはできないでしょう。潘氏は、私にとっての初めての参謀であり、共に光復会を結成し、私の日本渡航手配をしてくれた人物なのです。潘佩珠氏は、乂安(ゲアン)省南檀(ナムダン)県出身、その頃既に文士、愛国者として名高い人物でした。彼は、科挙試験に合格しますが宮廷仕官はせず、当時決起運動に身を投じる者を揶揄する朝廷内での呼び名、「賊」となるに微塵の迷いもない人でした。」
 「既に私の救国献身の意思は固く、どこかに補佐となる有能な人物はいないものかと常日頃から考えていましたから、潘佩珠のような人物に出会えたことは正に水を得た魚の諺通りの出来事でした。彼の救国計画を聞かされ、私にその統領になってほしいとの請願を聞いた時、即座にこれを了承したのは当然のことでした。」
 「それから数か月後、「南盛山荘」と呼ばれていた阮誠氏の広南省の自宅で、私、潘佩珠、阮誠一派が一同に会し、既に事前打ち合わせ済みだった計画通りに、「ベトナム光復会 」結成会議を開きました。」

 2人の運命の出会いは、このようなものでした。

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 畿外候クオン・デは、現越南帝室の世祖嘉隆(ザ―・ロン)帝の皇太子景(カイン)の直系4代の子孫であって、明命(ミン・マン)帝の血を承ける現皇帝よりも正しい帝位継承権を享有している皇族である。その遠祖たる景(カイン)はフランスから帰国したのち、父嘉隆帝が越南を反徒の手から救って帝位に即して間もなく21歳を一期として世を去った。
 明治35年前後に帝位に即いていた成泰(タイン・タイ)帝は、フランスの頤使に甘んじない気骨があったため、彼等白人支配者は帝を廃するに先立って、後継者としてクオン・デに目を付け秘かに事を謀ったことがあった。ところが畿外候は帝に劣らぬ愛国者であったので、フエに駐在したフランスの大使オリヴィエが奨め、候は正当の帝位後継者であると知って帝位に押そうという。その友情は有難いが、現帝の罪過が明らかでないのに之を恣に廃する行為に左袒するわけには行かない。天下の大法は私意によって ぐべからざるものであると言って、大使の策謀に乗じられなかったという経緯もある。要するに候は、賢明高邁にして能く事理を弁え、敢えてフランスの傀儡たるを潔しとしなかったのである。潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)がその同志と謀って候を首領と仰ぎ、国内の愛国者を団結させて祖国を復興しようとしたのも候の高風を慕うもの天下に満ちる実状を察したからである。

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  クオン・デ候の直祖、景(カイン)皇太子は、1801年に天然痘で死去します。クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』(1957, Saigon) の元本の編者、日本人記者松林氏は、序文の中でこう紹介しています。

 「景皇太子は、1793年に東宮御所を立てられ、左近衛元帥を奉職の後、嘉定(ザディン)、廷慶(ズェンカイン)の防衛戦役で幾度も御父上の嘉隆帝を助け、多大な戦功を挙げた方であった。しかし、22歳の1801年に天然痘の為若くして遺去してしまう。翌年の1802年、阮王(=阮福英=嘉隆帝)は反乱軍西山(タイソン)一派を滅ぼし、ベトナム全土統一を果たす。周囲群臣の奨めを受け、阮王は皇帝に即位、元号を嘉隆と改め、越南国阮王朝の開祖となる。暫くしてから、2代目皇帝継承問題が話し合われたときに、各大臣、大将から、景皇太子の長子であり嘉隆帝の嫡孫である、應和(ウンホア)氏を後継に推す声が多かったが、国内統一をしてまだ幾年も経たず、国家基盤が盤石でない状況において、まだ幼い孫に皇位を継がせることを断念し、第4番目の皇子へ皇位を継承した。こうして2代目皇帝として即位したのが明命(ミンマン)帝であり、それ以後、明命帝の系統から皇位継承がなされていく。
 本来の嫡流である景皇太子は皇位を継承しなかった。クオン・デ殿下はこのご嫡流の王子である。」

 フランスがクオン・デ候を次期皇帝にと画策した時の様子は、『獄中記』にも見えます。

 「1903年の秋頃、フエ駐在のフランス欽使オリヴィエ(後インドシナ総督)は成泰帝と相よからず、ひそかに廃位を行なってクオン・デ候を立てようとしました。候はフランスの権力下に帝位に即くも、なんらその抱負を行うの余地無く、ただフランスの傀儡たるにすぎないから、むしろこれを避けるに如かずと考え、湾曲にフランス欽使に対して、
 ”今、欽使は自分が正統の皇位継承者たるを知って、その位に復せしめんとする御厚意は誠にかたじけないが、今は成泰帝が位にあって一国の元首である以上は、罪跡のあらわれない中にほしいままに廃止を行なえば、皇帝及び国民に対して、おそらく説明の詞がないであろう。今のところはしばらくそのままにして、後の様子次第で再び事を図るが得策であろう。”
 と答えたため、ついにその議は中止となった。」

 
 この時の事は、クオン・デ候も自伝の中でこう語っています。
 「元々から私の頭には国を救う一事のみ、自分が皇帝の座に就く事など一度も考えたことはありません。阮朝の始祖、阮淦公が莫氏追討軍を起こしたのも、黎朝を助けるという救国精神に基づいたものでしたし、また嘉隆帝が嘉定(ザーロン=旧サイゴン、現ホーチミン市辺)を平定したのも、黎朝を助け国を救うためでした。しかし、西山党を追い払って見れば、既に黎朝の子孫達は悉く衰微していましたので、民の安寧と国の安定のために嘉隆帝が皇帝についたように、私の先祖の王道は常に、外敵を撃ち払い、祖国の山河を守り通す事だったのです。ですから、フランスが成泰帝を廃して私を次の皇帝に立てようと画策し公使を派遣して私の腹の内を探って来たとき 、私はこれを断固固辞したのでしたが、この光復会結成時ばかりは、周囲の同志から会主就任要請を受けたとき、例えどんな危険や困難が待ち受けていようとも喜んで責を担う覚悟でした。」

 義人、阮誠(グエン・タイン)は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に会った時、言いました。
 「天地の道理で言えば、東宮の子孫こそ我らと共に祖国再興を担うべし、東宮の子孫を求むべし。」

 「天下に大事を成すには、まず第一に人心を掌握すること、第二に金銭が必要なこと、第3に兵器を得ることだ。人心を得ることができれば、金銭は得られる。さすれば、兵器を得ることも難しくない。現在我が国民の一般常識、知識思想から考えれば、もし人心を得て大事を成そうとするならば、必ず我らの陣頭に国家君主なければ、民はついてこない。」
 「今ただ一人、我らが君主として担ぐことができるのは、昔日の景皇太子のご嫡流である畿外候彊柢(クオンデ候)以外にはいない。もしこのようなお方を君主にお迎えできれば、大義名分として申し分ない。」  

 統領にクオン・デ候を推挙した阮誠(グエン・タイン)の目に狂いは無かった。

 


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