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『安南民族運動史』(10) ~ベトナム人を覚醒した日露戦役-日本の勝利~

  安南民族運動史|何祐子|note
『安南民族運動史』(9)~仏印進駐の頃のベトナム~|何祐子|note

 フランス人の無理解と強圧政治によって、ベトナム人は祖国回復の志を次第に固めたが、各所に寄って勤王攘夷の旗を翻した。
 潘廷公の旧部下を始めとして勤王の遺臣はそれぞれ縁を求めてベトナムの全土に事を謀っていたが、何れも散在孤立していて、その間何等の連絡もなかった。ところが、明治36年の頃になって漸く様々な中心が結成せられ、ほぼ2つの党派が均しく祖国復興を志して組織せられた。

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 私の翻訳本にも、『フランスのベトナム侵略』項をチャン・チョン・キム氏編『ベトナム史略』から抜粋して纏めてあります。
 フランスに対するベトナム勤王軍の激しい抵抗は簡単に止みませんでした。フランスは兵隊、武器弾薬を大量に投入し、賄賂でベトナム官人・山岳地方匪賊を買収して義軍陣地を急襲し、根気よく各地義軍を潰滅して行きました。
 上記で言う、「何れも散在孤立していて、その間何等の連絡もなかった」期間、要するにフランスがやっと一息付けたのは、第7代咸宜(ハム・ギ)帝の勅を奉じて蜂起した忠臣潘廷逢(ファン・ディン・フン)が病死し、義軍が離散してからです。

 「天津条約締結の年、第7代咸宜(ハム・ギ)帝へ謁見の為、フランスからド・クル シィ(De Courcy)将軍と仏兵5百人が中部フエを訪れた。
 宴会が終了した直後、まだ12歳だっ た幼帝を戴いた抗仏義軍の狼煙が突如として上がった。帝は広平(クアンビン)省へ落ち、ここから勤王の檄を各 地へ発布した。これに呼応して、ビントゥァン省以北殆ど全ての各省で続々と士民が抗仏蜂起を起こしたのである。
 しかし、最期は結局仲間の裏切りによって遂に咸宜帝は捕らえられ、仏領植民地北アフリカのアルジェリアへ流刑にされてしまった (1888)。
 この頃、最も激しくフランスの支配に抵抗した勤王志士がいる。その名を潘廷逢(ファン・ディン・フン)。ハティン省出身の宮廷官吏であったが、皇位をめぐる政変で職を追われ、故郷に帰り抗仏戦争の先頭に立っ た。野に下って後、軍組織に希有な才能を見せた彼は屯田地を設営して、支那やタイに仲間を派遣し鉄砲・火薬の鋳造方法を学ばせて兵器を自家製造し、徹底抗戦を構えた。
 フエ朝廷は、潘廷逢軍殲滅の為に追討軍を派遣したが、潘廷逢 は老身に長年の苦労が祟ったのか既に病死していた。フランス側配下の阮紳(グエ ン・タン)が、潘廷逢の屍をフエに持ち帰り葬ったことで残党はバラバラとなり、 その後抗仏蜂起は徐々に下火となって行った。」

          『クオン・デ 革命の生涯』より

 これで一時は静かだった抵抗運動は、クオン・デ候や阮誠(グエン・タイン)曾抜虎(タン・バッ・ホー)そして潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)達への世代交代によって、再び一斉に行動を起こしたのです。

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 これら2党派、詳しく言えば3派は目的も手段も多少異なったが、一般に専制政治に反対し抵抗する点では一致していた。
 明治38年を一紀元としてかような戦が激化したのは、言うまでもなく、日露戦役における日本の大勝がベトナム人は勿論アジアの民の総べてのものを奮起させたからである。

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 この「これら2党派、詳しく言えば3派」とは、先の記事-その(4)に詳しく書きましたが、簡単に言えば、古武将らが率いた義軍の武闘派と、クオン・デ候らによる革命進歩派、そして潘周禎(ファン・チュ・チン)等の知識人による改良派です。

 何れにせよ、義将潘廷逢(ファン・ディン・フン)の死後、国内の抵抗運動は一時下火となっていたところへ降って湧いた『日本、ロシアに勝利!』の報。この報が、『諦めるな!!もう一度、起ち上れ!!』とベトナム義人たちの耳に響いたと言っても過言ではありません。。
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 ベトナムの民は、世界に驚くべき事実が起こったことを知った。ベトナムの村々を流して歩く小唄歌いや講釈師たちは、アジアの小国日本が自他共に許した白人の強国ロシアを打倒した経緯を面白可笑しく聞かせた。ベトナム人は日本が自分達と同じ黄色人種であり、且つ同じ文化に育まれた国民であるのを想うと、『どんな冷淡な心の持ち主も電撃を受けたように感じた。…ベトナム人はミカドの国民がロシアを倒したように、自分たちもフランスを撃攘する力があるのだという自覚を呼び起こした』のである。

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 「ベトナム志士義人伝」でご紹介したベトナム志士、曾抜虎(タン・バッ・ホー)は、『日露戦、日本の勝利!』の一報を聞き喜びました。
 
 「1904年、日露戦争での日本の勝利の報が、中華志士の著作論文、新聞雑誌によってもたらされると、膝をたたき喜んだ。”抱懐の計を試す時が来た。欧州の潮勢がアジアで挫折した今こそ、日本に往って武器援助の路を開かん”」     
 『ベトナム義烈史』より

 クオン・デ候も、潘佩珠のフエ訪問を「正に『水を得た魚』の諺通りの出来事」と表現し新党の首領就任要請を快く引き受けました。けれど、新しく結成された『ベトナム光復会』には大きな悩みがありました。

 「どうしても解決できない悩み、それは兵器をどこで買うのか、誰に頼んだらいいのかという問題です。どうすればよいものかと頭を悩ませていた時に、不意に希望の光が差し込んだのです。それは、1904年頭に勃発した日露戦争の日本 勝利の一報でした。その当時の日本の連勝に次ぐ連勝のニュースは、ベトナム人の 心にどれ程の喜びを齎したか。」

 クオン・デ候達の『光復会』は、「ロシアは敗北し日本が全面勝利する。だからもし、ベトナムが日本へ救援を頼んだら、 日本は必ず援助してくれるだろう。何と言っても、日本とベトナムは同文同種の民族だ。私たちは、そう信じて疑わなかった。それに、日本はいたく道義を重んじる国柄だ、まだ力及ばすと云うならまだしも、力を得た今なら必ず援助してくれる。」
         
 『クオン・デ 革命の生涯』より

 兵器の購入は、日本へ代表人を送って解決を図ることに決定しました。
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 その自覚は人も知るように全アジア人の何れを見るも同じであった。彼等は、上に述べた『光復会』の潘佩珠の言ったように、東風一陣、旅順遼東の砲撃は海波を逐うて来たり、人をして爽快の想を抱かせ、今や日本はロシアに勝って『全アジアを振興する志を伸べるに違いない』と確信させた。この自覚と確信は西はアラビアの沙漠から南はフィリピン、インドネシアの僻遠の地まで広がり、時を同じうして国民解放運動は、それぞれの植民地支配者たる英・仏・蘭・米等々の列国当局者を悩ませたのである。

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 当時の状況は想像するしかないですが、やはり、白人人種によるアジア植民地支配が何百年間も続いていた世界に於いて、アジア人で黄色人種の小国日本が白人国家の大国ロシアに勝ったことは、近隣アジア国家に正に『衝撃(ショック)』を与えたんですね。この感動を、クオン・デ候も自伝中で繰り返しています。

 「…私も同じくこの学校(東京の振武学校)で学ぶことにします。幼い頃から漢語を勉強していたせいか日本語の上達は早く、長く掛からず日本語新聞や書籍が読めるようになりました。特に興味を持って読んだのは明治維新と日露戦争。最も崇拝する 日本の名将軍は旅順攻略の乃木希典大将と、そして、対馬沖海戦勝利の東郷平八郎海軍大将です。日本海軍を撃滅するべくロシア海軍バルチック艦隊が対馬沖に現れた時は間一髪、東郷平八郎大将の秀でた指揮統率が無ければ、この海戦はロシアの勝利だった。もしそうなっていたら、今日の様な東アジアの胎動はなかった事を思えば、日本一国にとってのみ為らず、東アジア各地に多大な希望を与えた東郷大将の功績は誠に大きい。 」
 折角学校に入学したが、「趣味の読書に夢中になり学校の勉強を後回しにしていたので、振武学校の成績はいつも下の方」だったとクオン・デ候は正直に白状してます。。😅😅😊

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 この日本の興起によって得た深い印象は、未だにアジアの民の心に刻み込まれている。1,2の礼を挙げれば、今もなおヒマラヤの北に横たわるタクラマカンの無人のゴビ沙漠を貫く昔ながらの通商幹線、古えの『絹の通路(シルク・ロード)」一帯の地に住む民は、東から海を渡って来る異国人を見ると、その皮膚の黄白・褐いづれの色たるとを問わず、統べて『日本人』と呼んでいる。また其の通路の見ずぼらしい旅籠屋の土壁には日露戦争の絵が掲げられているという。これらの事実は日本の躍進がどんなにかアジアの民の心に電撃を与え、その関心を昂め、アジアのもつ力を自覚させているかについての明らかな証拠となるのである。

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 これ⇧は、私がベトナムに行った1990年代頃、バイクの事を全部ひっくるめて「HONDA(ホンダ)」と呼んでいたのに似ています。『ホンダ(バイク)で行く。』『ホンダ(バイク)修理』。。。
 また私的な話ですが、ホーチミン市には結構中東料理レストラン多く、確かアフガニスタン料理店だったか中東人店長が、私達が日本人だと判って、「日本人はエライ!」と褒め殺しに遇い、「おーい、日本人だー!」と向こうのテーブルに座っている中東人も呼んでの握手大会。同席しているベトナム人の友人には大変申し訳ない気持ちでしたが、やはり自分の祖国を褒められるのは嬉しいものです。それと、同じマンションにインド人のファミリーが住んでいて、「日本が大好き」「日本人の役に立ちたい」と、いつも夕飯のおかず(激辛🌶)を持って来てくれました。。
 永い海外生活で、戦前日本の先人の恩恵を嫌と言うほど実感しました。こんなに時間が経ってもまだまだ衰えない凄い威力。。。
 しかし果たして、戦後私達世代の行いは、将来曾孫世代にこの威光・偉業を継承できるかどうか、、、一抹の不安を感じる今日この頃。。💦💦

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 日露戦役の成果は、日本自身の考え及ばざる程深刻な影響を近親民族に与えている。然るに日本人は今日まで之を十分に知ることができなかった。極めて最近になって、漸く再評価されて来たに過ぎない。
 日露戦役このかた日英同盟を大道具とする英国の必死の努力によって、強く西洋殊に民主主義諸国の影響を受け、物事の考え方が総べて英米流の世界観によって行われ、日本の立場を忘れさせられ、一方アジアの民の動きは彼等欧米諸国の秘密主義政策によって、些かも日本に伝えられず、日本人の多くは毫も之を怪しまず、近いアジアを忘れて徒らに遠く欧米の天地にのみ関心を惹き付けさせる欧米諸国の政策に、完全に乗ぜられていたために外ならない。

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 この上⇧のですね、「日英同盟」「日米同盟」に入れ替えると、、あら不思議!!😅😂😂 『令和4年』へ早変わりに。。。大岩誠氏著の『安南民族運動史概説』は、昭和16年(1941)発刊ですけど。
 不思議です!?(笑)

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 国力の充実は国民の自覚を喚び起こす。
 …さて、かような意義を持つ日露戦役における日本の勝利は、ベトナム人の心を其の奥底から揺り動かし、前に述べた2つのベトナム解放運動独立運動の党派は、時を同じくして活発な活動を開始したのである。

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 各地の義軍が潰滅状態になり、建て直しに苦心していたベトナム志士たちを覚醒させ、再びの奮起、躍動を促した「日露戦役-日本勝利」の報。
 同文同種の国『日本』を頼るべく、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が日本横浜にやって来た1905年が、ベトナムを次のステージへ切り開かせた年だったと言って過言ではないと思います。
 この事実は、普段から別段恩着せがましくベトナム人に対して口にする必要はないと思います。しかし、もし将来ですね、何かの力でベクトルが動いてベトナムが『反日』に傾き、『仏印進駐』を『仏印侵略』と言い換えたり、誤った情報が跋扈する事態になれば、それは日越両国友好の最大の危機到来です。その為、東郷平八郎元帥の『勝って兜の緒を締めよ』のお言葉通り、『正しい日越関係史』の重要ポイント=『日露戦争の日本の勝利が、ベトナム独立革命運動を覚醒し、奮起させた!!』を、今日ここ(NOTE…😂😂)で明確にして置きたいと思います。。。

 同時に、大川周明先生のこの言葉も心に響きます。。。😅😅

 「…亜細亜諸国は、ロシアに対する日本の連戦連勝を吾事の如く喜び、至深の感激を以て心を日本に傾けた。」
 「然るに日支事変は、…(中略)最も悲しむべき事実は、独り支那多数の民衆のみならず、概して亜細亜諸国が吾国に対して反感を抱きつつある一事である。若し吾国の愛国者のうち、日本が民族解放の旗を翳し、白人打倒を標榜して、亜細亜に臨めば、諸民族は箪食壺漿(たんしこしょう)して吾等を迎えるであろう、と考える者ありとすれば、其人は大なる誤算を敢えてするものである。」
 「…この誤解は何處から来るか。重慶や英米の宣伝が力あるであろう。弱者に常なる強者に対する嫉妬にもよるであろう。而も日本自身に、斯かる根強き誤解を招く行動は無いか。また無かったか。日本の重大なる使命を誠実に自覚する者は、この非常の時期に於いて、大言壮語して陶酔自慰する代わりに、厳粛深刻に反省せねばならぬ。」

  東亜経済調査局発行『新亜細亜 巻頭言』(1941)
 
  


 


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