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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(3)

『フランス・スペイン連合艦隊軍14隻がダナン沖に出現』
  →「1858年、フランス軍中将‐リゴー・デ・ジェヌイイ(Rigault De Genouilly)は、仏西連合艦隊軍14隻を率いてダナン沖に現れた。兵隊3千人は、ダナン港の防塁を砲撃し上陸、安海城と尊海城を占領する。この報を受けたフエ朝廷は、南義総督‐陳弘(チャン・ホアン)と陶致(ダオ・チ)の下に友軍兵2千人を討伐軍として派兵し、続いて阮知方(グエン・チ・フン)を軍総督、朱副明(チュ・フック・ミン)を軍提督に任命した。」(『越南史略』より)

『ダナン』
  → 古い文献には『都龐(ツーラヌ Tourane)』の名称で『越南の要塞港』として度々登場します。

『1862年の講和条約』
  → フランスのボナール提督の名から『ボナール条約』とも呼ばれています。「シャネル提督から代わったボナール提督は征服事業を継続した。永い談判の挙句、1862年6月5日条約に署名した。提督は嘉定・邊和(ビエンホア)・定祥(ディントォン)3州を割譲させた。」(T.E エンニス著『印度支那』より)

『仏人商人による違法塩売行為』
  → 支那大陸では、塩売買は専売制度が長く固定化し(塩政)、この当時越南の塩は禁輸物資に指定されていたそうです。
  → 「その後のフランスの北部攻略のきっかけになったのは、1872年頃から起ったフランス人商人‐ジャン・デュピュイ(Jean Dupuis)による一連の事件である。 このフランス商人は、ベトナム北部から紅河を上って支那の雲南省へ物資を運ぶルートに目を付け、上海のフランス商人‐ミロット(Millot)と共に、フエ朝廷からの紅河通行許可を無視し、当時清国への禁輸物資であった塩などを雲南へ運搬した。また自分達の仲間が捕らえられた報復に、朝廷側官吏を捕らえ自船に監禁するなどの無法行為を続けた為、フエ朝廷はサイゴンの師撫職官に処分を願い出る。北圻侵略の機会を狙っていた南圻総督府のデュプレ(Dupre)少将は、この機に乗じて、名目上はジャン・デュピュイ処分の為として北圻へ出兵をしたが、出兵後、その理由をベトナムがフランスの交易に被害を与えた為とひっくり返し、1873年ハノイ城に向け突如発砲を開始した。」(『越南史略』より)

『阮知方(グエン・チ・フウン)』
  → 阮朝時代の名将です。ベトナム史の中で私が最も好きな人物の一人です。『越南史略』に私の特に好きな箇所があります。ご紹介します。     「不意を突かれた阮知方(グエン・チ・フゥン)と息子の阮林(グエン・ラム)は、東門側と南門側で防戦するが、小一時間あまりで城は落とされ、阮林は被弾し戦死。重傷を受けた阮知方は捉えられ、敵船へ連行される。大国難の時に3代皇帝に仕えて、南から北へ戦い続けた老将は、敵に捕えられ生き永らえることを恥とし、絶食をして命を絶った。承天(トゥアティン=フエ)都の代々廷官の家柄に生まれ、秀でた学才により出世するが、朝政の中で清貧を貫き通した。官吏でありながら炎の戦場を奔走し、父子のみならず兄弟一族悉く国事の為に逝った。古今通しても、このような忠臣の仁は決して多くいるものではない。」

『1874年講和条約』
  → (第2次)サイゴン条約、別名『フィラストル条約』とも呼ばれます。「サイゴンの土民事務監察官フィラストルは、ハノイ市参事官議長ブロリー候の命を受けて安南軍と休戦を交渉するために赴いた。フィラストル使節の成果として1874年3月15日西貢(サイゴン)条約が締結せられ、8月1日フランスは之を批准した。(安南)皇帝はフランスに対して交趾支那を割譲し、己が外交政策は、パリの方針に従わしめる旨を誓った。紅河はフランスの通商に提供せられ、領事は百名の護衛兵を従えて、王国の主要都市に駐在することになった。」 (T.E エンニス著『印度支那』より)

『支那の黄旗軍』
  → 当時の武装軍団の一つ。戦乱各地へ転戦し、太平天国の乱にも参戦した。首領の名は張楽行、河南省永城出身。

『平西殺左(ビンタイサッタ)』
  → 西(西洋)を平定し、左(キリスト教)を必殺する、という意味です。   1874年、ゲアン省で文人を中心に大きな蜂起が起こりました。   「西洋人に媚びを売りフエ朝廷は既に堕落した。我らでまず西洋人に協力するキリスト教徒共を成敗し、次に西洋人を追い出して、千年続く我らの伝統を固辞し云々」・・・檄文「平西殺左」に扇動された凡そ3千人の人々が、キリスト教徒の住む村々に火をつけて回ったと伝えられています。

『反乱平定軍の派遣』
  → 当時ベトナムと清国は朝貢関係・冊封関係です。ベトナムで反乱軍が起こった時など、宗主国の清国に対して救援要請、清国から軍隊が派遣されて来ました。

『1881年の北部攻略口実事件』
  → 「支那雲南省へ物資を運んでいたフランス商人がラオカイまで来た所で外賊に足止めをされたことを受け、ヘンリ・リビエレ(Henri Riviere)大佐は、フランス権益を守る名目で、船2隻と数百名の軍隊をハイフォン、そしてハノイに出兵、駐留させた。」 (『越南史略』より)

『仏軍大佐が戦死』
  → 「清国は、多数の軍隊をバクニン省と山西省に設営させて、リビエール大佐率いるフランス軍と対峙した。暫くして黒旗軍はレミントン銃で武装して再び勢を盛り返し、リヴィエール司令官の部隊を責め囲んだ。1883年5月19日、リヴィエールは山西(ソンタイ)で敵の攻囲戦を突破しようとして、3人の士官及び26名の兵士と共に戦死した。」(T.E エンニス著『印度支那』より)

『1883年講和条約』
  → フランス軍クールベ提督に率いられた海軍部隊がフエ河を砲撃を加え、8月21日に順安要塞がフランス軍の手中に落ちました。トンキン駐在文官だったアルマン博士が8月25日に最後通牒を送り、これによって協定を強いて設立させました。仏博士の名から『アルマン条約』と呼ばれます。   

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(4)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note

   

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