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ベトナム志士義人伝シリーズ② ~阮誠(グエン・タイン、Nguyễn Thành)~

 1903年の『ベトナム光復会』(潘佩珠の記述では『維新会』)の記念すべき結成会場となったのが、広南(クアン・ナム)の『南盛山荘(Nam thình Sơn trang)』。この家主が、阮誠(グエン・タイン)氏(別名、阮咸(グエン・ハム))です。
 
 クオン・デ候の『クオン・デ 革命の生涯』(1957)(→詳細はこちらをご覧ください。クオン・デ 革命の生涯|何祐子|note )には、「誠に実力のある男。18歳の頃から勤王蹶起の核党党員でした。時ならず蹶起に失敗した後、田舎に帰って老母の面倒を見ていたが、滾る愛国心は絶えずにいた人物」と紹介されています。
 この「勤王蹶起」というのは、1885年の『丙戊蜂起』のこと。若干12歳だった第8代咸宜(ハム・ギ)帝の詔勅に各地の勤皇志士たちが応じて立ち上がった大きな武装蜂起でした。各義軍中最年少の領将として軍を率いたのが阮誠であり、各地の義軍が潰滅していく中、最後までフランス軍に抵抗しました。その智略を惜しんだ敵将(=フランス側)阮紳(グエン・タイン)の助命により、死刑を免れて田舎へ隠棲したのです。
 阮誠氏は、この蹶起で智将、愛国者として、国内の義人の間でその名を知られるようになります。潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に、海外から帰国した曾抜虎(タン・バッ・ホー)を紹介したのも、この『南盛山荘』の家主、阮誠氏でした。
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 阮誠公、字(あざな)は南盛(ナム・ティン)、広南(クアン・ナム)の人。8歳の時、父は世を去り母に養育された。生まれつき賢い質だったが、どういう訳か八股の文(=科挙試験の文のこと)にはなじめない。15,6歳の頃から経済の学に打ち込んだ。中でも孫子の「兵法書」、諸葛孔明の「心書」を愛読し、また我が越南の地誌歴誌、国朝の実録など八方求めて読みふけった。
 咸宜乙酉の年(1885)、咸宜帝はフエを出奔し各地に勤皇の兵が起つ。広南の義会は、阮教(グエン・ヒウ)を長にして広南城に立てこもりフランスに抗することに決めた。
 在地で兵を募った阮誠は、最年少の領将。各所の義軍が広南城に殺到し、我先にと、兵糧確保に銭庫穀庫に殺到する中にあって、真っ先に弾薬庫に行き部下に命じて武器弾薬を持って城を出たのだった。
 広南城にフランス軍が到着すると、城に籠った義軍の頭の上に弾丸の雨が降り、50分で城は陥落。他の義軍が潰走する中で、阮誠の軍だけは無傷で山を目指していた。フランス軍が広南城を占領し招撫策を取っている間、山で兵を訓練し、銃弾を充足させ、山によせる敵兵をゲリラ戦法で打ち負かした。一旦逃げ散った諸領将たちも、兵を集めて阮誠(グエン・タイン)の下に馳せ参じて、勤皇党義軍は再建した。

 1888年、広南省にただ一つ、河東(ハ・ドン)の阮誠軍が残るだけとなった。遂に、フランスの狗・阮紳(グエン・タン)の暗索の手によって、阮教(グエン・ヒウ)と阮誠(グエン・タイン)は捕えられた。阮教は斬首、しかし、阮紳は阮誠を「必ず殺してはならん」とフランス人に言い、自分の管轄下に置いた。阮紳は言った。「南義の将で、軍事を識るのは阮誠だけだ。あとは小児のようなもの。」
 この時、阮誠に自決を勧めた者も居たが、阮誠は安に死を選ばず自重して時を待つことにした。
 家に戻った阮誠は、家事耕作にいそしんだ。阮紳の探りにも、罪は出ない。けれど、阮誠に心服する者は日に日に増えていき、外見はどう見ても田舎の翁、だがその山荘に亡人捕客剣士が密かに訪れぬ日は無かった。

 1903年、広南の「南盛山荘」を訪れた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に、阮誠(グエン・タイン)は語った。
 「国が亡べば王室も王位も亡ぶ、これが慣習だ。だが今のわが国はそうでは無い。国士は在る、君主も居る、人民が皇室を愛し推戴く心情は少しも変っておらぬ。その人心から言うならば、三軍を主宰いて国土を恢復する人は、皇族中の誰かでなければならぬ。でなければ同胞を結集し衆望を満たすことはできぬ。」
 「天地の道理で言えば、東宮の子孫こそ我らと共に祖国再興を担うべし、東宮の子孫を求むべし。」
 こうして、阮誠の助言を受けた潘佩珠はフエへ行き、始祖嘉隆(ザー・ロン)帝の嫡男、東宮景(カイン)皇太子の子孫、畿外候クオン・デに面会。そして、この時のクオン・デ候の印象を「獄中記」に記した。
 「候は人と為り沈毅公明、賢を礼し、士を愛し、新進気鋭、愛国思想に富み、すでに齢13、4歳の頃から討賊救民の志を抱いておられた。」

 1904年日露戦争の日本勝利の報に沸いた光復会は、蹶起に使う武器の購入の活路を日本と決めた。会の代表として日本渡航する者は、満場一致で潘佩珠、同行人は曾抜虎と鄧子敬(ダン・トゥ・キン)が選ばれた。けれど、1903年から1908年の間、国内での党務計画、国外に向けての援助手段、募金活動その他の画策は、ほとんど阮誠(グエン・タイン)から出たのだった。フランス側は、それを掴んで居ながらも、証拠がつかめず歯ぎしりをしていた。
 そんな中、1908年民衆による「抗租事件」が広南省から発して中部地方一体が動乱化した。時至れりとしたフランスに、事件の首謀者は阮誠だと名指しされ、明郷(ミン・フウン=明から帰化した人のこと)の朱書同(チュ・トゥ・ドン)と共に逮捕され、崑崙島(=コンダオ島)に投獄されてしまった。在島有余年、かの島で終焉した。没年49歳だった。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、つねづね人にこう語っていた。
 「私が交わった人物で、実務に優れた方がたは少なくないが、変化に応じて神速、転機に当って霊妙、火急の際に顔色変えず狂声ひとつ立てなかったのは、南盛(=阮誠のこと)公だけだ、南盛公だけ。」

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ベトナム志士義人伝シリーズ ~序~ |何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)|何祐子|note
 

 


 
 
 


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