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ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)

 1905年4月のある日、清国の西大后から死刑を求刑された保皇派の梁啓超(りょう・けい・ちょう)は、亡命先の横浜で一風変わった客の訪問を受けました。それが、ベトナムから武器購入の為に党の代表として日本へ渡って来た潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ, Phan Bội Châu)達です。
 潘佩珠には、2人の従者がいました。一人は歳の頃45くらいの曾抜虎(タン・バッ・ホー, Tăng Bạt Hổ)、もう一人は歳若の鄧子敬(ダン・トゥ・キン, Đặng Tử Kính)でした。
 「名刺と手紙を見て、すぐさま服装をととのえて客間におもむくと、客〔潘佩珠〕は一人の従者〔曾抜虎〕を伴っていた。この従者は、広東・広西辺りを20年ほど、艱苦をなめつつ往来したので、どうにか広東語が通じるのである。」(『ヴェトナム亡国史』より) 

 梁啓超の言う、広東語を話す従者こそ、ベトナム抗仏運動の先駆者であり、潘佩珠の初めての海外出国を補佐した、曾抜虎(タン・バッ・ホー)でした。曾抜虎が何故広東語を話せるかについては、
「曾君は、初め、劉永福の軍を助けて両広(広東・広西両省)・台湾の間を周遊し、ほぼ広東語に通じて居ります。」 

 
潘佩珠が『獄中記』でこう語っている様に、早くから祖国を出て、太平天国の乱で名を馳せた黒旗軍劉永福将軍に着いて戦地を転戦し、祖国決起の日に備えていたからでした。
 「この4月、初めて海外から帰って、今また私とともに党務に携わって出掛けるので、誠に同行者その人を得ておった次第でした。」『獄中記』より
 
 中国各地を転戦した経験と、広東語を話す曾抜虎が祖国に戻り、立ち上がったばかりの抗仏党(潘佩珠は『維新党』、クオン・デ候は『ベトナム光復会』と記載)に入党します。まだ海外へ出た事の無かった潘佩珠にとっては正に鬼に金棒、大変に心強かったに違いありません。

 クオン・デ候は、自伝書『クオン・デ 革命の生涯』の中で、
 「光復会が会主(=クオン・デ候のこと)の親書を携えて日本へ渡り、兵器扶助を請うために、(潘佩珠の)随行人は、鄧子敬と曾抜虎の2名に決まりました」
 
と、このように、フエの宮廷をこっそり抜け出し、広南(クアン・ナム)の阮誠(グエン・タイン)氏の自宅『南盛山荘』での秘密会議に出席した1904年10月、曾抜虎との初めての出会いを述懐しています。
 「曾抜虎は、以前劉永福将軍の黒旗軍に参加し、支那の広東省、広西省、台湾を転戦したので、支那往来に明るく、広東語も流暢です。日本へ渡航するには必ず支那大陸を通らねばならないから、支那の案内役兼通訳にうってつけの人物でした。」「クオン・デ 革命の生涯』より

 ここで、黒旗軍の劉永福将軍ですが、ベトナム近代史には、結構頻繁に登場します。日本では、洪秀全の『太平天国の乱』の活躍だけで歴史に登場しますが、乱世の当時、武装団を引き連れて数々の戦場を渡り歩いていた歴戦の戦闘集団の一つです。広西省出身の劉永福将軍については、別途記事を上げる予定です。

 曾抜虎は、生まれたばかりの『東遊運動』を軌道に乗せるべく裏方に徹して資金の調達に奔走します。しかし、ベトナム国内を移動中に中部フエで病に倒れ、そのまま1906年に亡くなりました。『越南義烈史』の一番初めは、曾抜虎の章で始まります。

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 我が党の同志の中でも、誠に新潮を澎湃とおこす先河(先導者)であり、新気運が爆発の導火線であった。
 字は師召(ス・チウ)、平定(ビン・ディン)省出身。天性豪邁で識見は卓越し、気魄は剛毅なれど、その一挙一動に風雅の和気をそなえ、人に親しみ人も親しむ人だった。
 その人と為りを見込んで、郷のさる富豪が、私の娘をぜひ嫁にと申し込んだが、彼は天を仰いで「国は多難、壮士身を忘るるの今日、なんで娶る気になりましょう」と断った。そして、生涯妻を迎えなかった。
 17歳の時、兄が入隊に応じない為、代わりに自分が入隊した。軍界に在って戦功を挙げ将校となり、1885年、広義(クアン・ガイ)・平定(ビン・ディン)2省の提督としてフランス軍と戦うが、武器弾薬が欠乏し軍は潰滅。フランスの追跡を潜り抜けて北部へ逃れ、救援を求めに海路で清国へ出た。しかし、混乱の最中にある清国にベトナム援助は出来ない。シャム(泰)、それから海防(ハイ・フォン)に潜入し、北から南、全国くまなく同志を求め遊訪して、時節到来を待った。

 1904年、日露戦争での日本の勝利の報が、中華志士の著作論文、新聞雑誌によってもたらされると、膝をたたき喜んだ。「抱懐の計を試す時が来た。欧州の潮勢がアジアで挫折した今こそ、日本に往って武器援助の路を開かん」
 海防を立ち南義(広南・広義)勤王運動以来の盟友・阮誠(グエン・タイン)を訪ね、蹶起の為の武器購入を話し合った。この時、曾抜虎は請け負った。「報国大事は今この時です。寒さ暑さは苦にしません。粤・桂(広東・広西)でも台湾島でも、天津・青島・上海をも駆け抜けましょう。」
 1905年、南盛山荘での秘密会議に於て、南北より集まった諸同志が並み居る席で阮誠が言った。「曾君は、海外に在留久しく、旅程に詳しい。また広東語・広西語に堪能で、外国事情に通じている。従者の任に堪えうる人物だ。」
 そして、満場一致で使節の潘佩珠に同行し日本へ行くことになった。

 同年12月、潘佩珠一行は海防(ハイフォン)からフランスの蒸気船で出洋した。上海で日本行の船にのり、東海・瀬戸内海を越えて4月下旬に横浜に着き、その足で山下町の新民叢報社に清国の梁啓超を訪ねた。

 1906年春、会主クオン・デ候が日本へ渡り、国内の風潮は更に高まった。祖国での東遊運動促進の任務を引き受けた曾抜虎は、腹心の人物を南北各地に探し求め、多くの同志と運動促進の方略を謀った。全国の抗仏気運を更に加速させようと、阮海臣(グエン・ハイ・タン)と共にまず河内(ハノイ)へ入った時、激しい下痢に襲われた。敵の目を避ける為、雨風の中に峻険な山道を幾度も往来した長年の疲労が祟ったのか。しかし、休息をとることなく気力を振り絞って順京(フエ)に向かったが、到着するなりどっと病に倒れたのだった。
 阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)は、曾抜虎からの書簡を受け取った。 
 「フエにいる。病重し、清化(タイン・ホア)の肉桂を送って欲しい、云々…」
 直ぐに家にあった肉桂を送り、返事を待っていたが、返事がない。数か月後、戻って来た阮海臣(グエン・ハイ・タン)から、曾抜虎は死んだと告げられた。人目を避けるために、川辺に浮かべた小舟の中で、発病後たった3週間で命を絶った。これを聞いた阮尚賢は、「ああ、天なるかな、我が越南、一長城を失えり」と嘆き、曾抜虎をこう評した。
 「師召、人と為り智勇兼備、判断決断に優れ、しかも人には柔らかな態度。どこに在ってもだれからも敬愛された。かつて泊まった村の家某(あるじ)は、その死を聞いていつまでも慟哭した。」

 早くから単身海外へ出た先駆者の曾抜虎の存在なくしては、その後の東遊運動も海外革命活動も、何一つ語ることはできない。
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 潘佩珠が曾抜虎の悲報を聞いたのは、丁度再び日本に戻って来た時だった。一年が過ぎ、漸く海外での滞在費、学費、活動費の目途が立ったのも、中部と北部からの義援金によるものが大きかったが、これは全て曾抜虎が懸命に奔走してくれたお蔭だった。
 「ああ、何てことだ。私の出洋は誠にこの人のお蔭に尽きる。なのに、私はまだ何の恩返しもしていない。彼のような立派な志士が、何故に早死にしなければならないのか。」
 
 潘佩珠は、曾抜虎の早すぎる死を悲しんで、『越南義烈史』と『記念録』の2冊を上梓した。
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風塵困瘁經幾秋 (風塵、困瘁、幾秋を経たり)
傷足迷陽飽遠遊 (足を痛め、路に迷いし遠遊の日々)
一朝肝膽相興披 (一朝、肝胆相い与に披き)
東向扶桑共携手 (東、扶桑に向かわんと共に手を携る)

        『越南義烈史』-弔詩の一節より- 


 

 




 
 


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