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ベトナム志士義人伝シリーズ④ ~陳東風(チャン・ドン・フォン,Trần Đông Phong)~

 1908年の5月頃、東京の同文書院に留学していた陳東風(チャン・ドン・フゥン)というベトナム人学生が、小石川の東峯寺の大樹で首をつり自殺しました。小石川の東峯寺というのは、「東豊山新長谷寺、通称目白不動産」だそうです。場所は小石川(文京区)関口目白坂。当時、この関口台の高田老松町に在日ベトナム人留学生が寄宿していたそうです。

 死後に、部屋の行筐(こおり)の中で遺書が発見されました。
 「 実家は金持ちなのに、最近の仕送りは南部からのみ。国事に援助をして欲しいと、何度も父へ手紙を書いたが、父は返事を寄越さない。金持ちの息子なのに頼らざるを得ない自分が、皆に対し情けなく恥ずかしい。皆に対する私の志の証明には、自殺するしかない。」
 
 
東遊運動はベトナム国内で大きな輪になって、国を捨て日本を目指す若者が続出しました。そのため、フランスは周到な用意をして東遊運動潰滅作戦を開始しました。その第一手が、ベトナムからの送金を妨害するという策だったのです。
 「フランス政府は巨額の費用を支出して売国奴を買収し、国内の密偵は国外留学生の数に倍するくらいで、わが党がひそかに運び出す金銭書信の道は、如何なる細道もことごとくこれを偵知して破壊し、父兄親族は逮捕されて獄中に呻吟し、悪探偵、凶巡査が国境に咆哮睥睨するという有様」
 
 潘佩珠が『獄中記』にこう書いているように、陳東風が送った手紙というのも、きっと実家には届いていなかったのでしょう。フランスに送金を妨害された東遊運動留学生たちが貧困と空腹に喘ぐのを見るのは、金持ちの息子の陳東風には耐えがたいものだったのかと思います。
 陳東風の葬式は、北・中・南圻出身の全学生と中国人留学生、そして、東京同文書院の軍事主任丹波予備陸軍中佐と、当時衆議院議員の柏原文太郎が参列しました。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ、→ ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(1)|何祐子|note)らが党の代表として日本に渡る時も、ベトナムに戻って来た時にも、いつも惜しげ無く金銭を援助してくれた陳東風でしたから、クオン・デ殿下は彼の死を悼み、東京雑司ヶ谷の都立霊園の一角を購入し墓を建ててあげました。暮石には「同胞志士陳東風亗墓」の文字が刻まれています。この墓は現在でも東京雑司ヶ谷の霊園内の元の場所にあり、今も時々在日ベトナム人留学生が訪れて、墓前に線香と花束が置かれています。
 余談ですが、クオン・デ殿下が1951年に日本医科大学第一附属病院でお亡くなりなると、その5年後に、ベトナムから遺族が遺骨を引き取りにやって来ました。その時、同居していた安藤ちえのさんは、クオン・デ殿下の遺骨の一部をこの雑司ヶ谷霊園の陳東風の墓の敷地に埋めたそうです。その事もあり、クオン・デ候の御子孫、今のNguyễn Phước (阮福)家、家族会代表のLiên Quốc(リエン・クオック)氏も、2020年5月にこの雑司ヶ谷霊園を訪れて墓前で法要を行いました。
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 陳東風は乂安(ゲアン)省南塘(ナム・ドゥン)県出身。父君は蓄財の励みが県下に聞こえる随一の大富豪。しかし彼は、生まれながらに奔放で、任侠の徒と交わり、ひとたび権力の者に附いて利を得る者、奴隷の身を詡って恥じぬ者を見れば、心に口に賤しい奴等だと憤った。
 潘巣南公(=潘佩珠のこと)の出洋計画を知った彼は、数百金を、渡航費にと贈った。出立の別れの席で、巣南に後事を託されると、皆が党の運営費、行動費にと求めるに応じて、少しも嫌な顔をせずに、懐中が空になると父君の金庫から取って援助をした。
 1907年、フランス官吏に捕えられて獄に入るが、同志が役人に金銭を渡したお陰で脱獄し、北部へ走った。そして、黄花探(ホアン・ホア・タム)将軍の屯に入る。中部からの亡命者を受け入れようと、有り金をはたいて別の屯を作ったが資金が続かず、幾度も父へ手紙を書いて送金を求めても返事が無かった。 

 「国の恥を雪ぐため、家財を投げうつのは当然ではないか…。」そう憤る日々が続いていたが、1908年次々と日本に渡る党員と共に、自分も日本へ渡ったのだ。
 そして在日半年で見たのは、百を数える同志諸君が、百万手を尽くしても金に苦しみ、みな進退窮まり艱んでいる姿だった。
 我が家は有り余る金を持ちながら、国が亡び党が苦しんでも、助けようとしない。これでは男子の面目が立たない。己の死を持って我が父を動かしてみせる、と、遺書をしたため、行筐(こおり)に入れて、皆が授業に出たすきをうかがい、ひとり小石川の東峯寺で首をくくった。
 年わずかに21歳。

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 故郷を救いたい一心で、20世紀初頭多くのベトナムの若者が着のみ着のまま命をかけて祖国を脱出、日本にやって来ました。
 仲間が学校で勉強に励んでる間に、一人寺の大木に通した縄に首を掛けた陳東風(チャン・ドン・フォン)。恐怖が無かった筈は無いですし、祖国の為敵に一矢報いるまで辛抱し、勉強を続ける選択肢もあった筈です。しかし、彼は自死を選びました。
 返す返す思う事は、当時のベトナム人達は、既にもうギリギリの生存条件しか与えられず、強固な奴隷支配と言う植民地支配下にあったのだろうと思います。

 亡国、と一口に言っても、それは突然やってくるものではなく、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が遺してくれた書籍で再三訴えているように、 (こちらを宜しければご一読お願いします。→ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1)|何祐子|note)、はっきりとは気がつかれない様に、かなり以前から極めて計画的に、包括的に、国の内側に入り込んで潜み、刻を得て、恰も母体を食い破り内側から産まれ出るが如く、気が付いたらもう抜け出せません。

 ベトナムの場合は、国の政治家の表面にその売国の兆しが顕著になって来てからは、坂道を転げるように数十年の内に南部地方を奪われ、それから北部地方を奪われて、上下挟まれる様にして中部に皇室を残し、皇室を人質に取られたまま全国民がその後何十年間も奴属状態に置かれる事になりました。。。
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平生侠気天終日 (平生(生得)の侠気 天に白げ終わり)
独立雄心地忍埋 (独立の雄心を 忍えつつ地に埋める)

     ~『越南義烈史』弔詩の一篇より~

ベトナム志士義人伝シリーズ ~序~ |何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)|何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ② ~阮誠(グエン・タイン、Nguyễn Thành)~|何祐子|note
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