ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(1)

 先日、抗仏蜂起に使用する武器の調達のために、党代表として明治末期の日本へ渡って来たベトナム人革命家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の書籍のことをご紹介しました。彼は、遺された自他の書籍から窺い知るに、一件シャイのようだが人懐っこく、物おじしない性格だったようです。そのお蔭だと思いますが、いつでもどこでも沢山の人に出会い、生涯に亘って広い交友関係を築きました。

 彼は、最後の自伝書『自判』を、1928年頃から漢語で書き始めました。その後に、周囲の人々によるベトナム語訳本が、1956年南ベトナムで発刊されています。(ベトナム語はネットで公開されています。)潘佩珠の死後、それらの人々の手によって、1965年頃にこの漢語版が日本へ渡りました。受け取ったのは、内海三八郎氏という方でした。⇩

 「内海氏は、1891年生まれ、戦前は商社員、のちに外務省嘱託としてエジプトやフランス領インドシナに駐在、戦後もヴェトナムに残留し新政府(←南部ベトナム共和国のこと)の財政顧問やアメリカ経済援助局につとめ、また貿易商として1963年まで滞越した戦前期からの日本で数少ないベトナム通である。」 

 ⇧これは、内海三八郎氏著『ヴェトナム独立運動家 潘佩珠伝』の編者、千島英一・櫻井良樹両先生の巻末解説からです。内海三八郎氏がまだベトナムに滞在していた頃に本屋で探したが見つからずに、どうしても読みたい、、、と念願していた潘佩珠の自伝本。何故どうして、日本の内海氏の自宅に、突如として届いた見知らぬ名のベトナム人からの小包に入っていたかについては、こちら→独立運動家ファン・ボイ・チャウの自伝|何祐子|noteに詳しく書きましたので、良ければお読みになって下さい。

 本を受け取った内海氏は、大変なご苦労をされてこの漢語版を日本語訳しました。そして、その原稿を受け取った両先生の手によって、1999年に日本で発刊されています。この『ヴェトナム独立運動家 潘佩珠伝』は、読ませて頂きますと、純粋な完訳ではなく、所々でその当時の世界史的状況とか日本側のエピソード、或いは内海氏の所感が盛り込まれています。また、ベトナム語の原本に書かれているけれども削除されている、或いはその逆もあり、その為、内海氏はこの題名を『潘佩珠伝』とし、ご自身も単なる『著者』とされているのかと思います。けれど、潘佩珠の生涯を知る上で、特に『獄中記』以降の出来事の詳細を知る上で、非常に貴重なご本だと思います。改めて戦前の方々のご偉業と、秘めた想いに頭が下がる思いです。

 今日は、潘佩珠が自伝書に書き残してくれた、明治末期の古き良き日本をお伝えします。現代の日本人もとっくに忘れてしまったであろう、100年以上前の日本の姿です。当時、我が先人達がベトナム人の目にどのように映り、そして彼等がどのように書き残してたのか、、今改めて、特に現代日本の若い世代の方に知って貰いたいなと思います。

 1905年、ダナンから船でハイフォン、そこから北部国境の街モンカイへ出て出国した潘佩珠一行は上海に出ます。そこで、留学先の日本へ戻る途上だった湖南省出身の趙光復(ちょう・こう・ふく)という中国人留学生に出会います。⇩
 「幸い、日本語をよく話す趙君が、まめまめしく何くれとなく世話をやいてくれたので、大助かり、水上署、税関の手続きも簡単に済み、その夜(←日本到着は夜半だった。)は趙君に伴われて初めて日本旅館の畳の上にやすみ、翌日の早朝、東京行きの急行列車に乗った。潘は、趙君のその時の細かい車中の心使いを、「大国民の美徳、すべてこれ漢文媒介の賜物なり」と特に感謝している。」 『潘佩伝』より 
 このように、潘佩珠は、行く先々でいつも人に恵まれ、助けられます。思わず、『助けずにはいられない、、、』というような愛らしい性格の人だったようです。これも、天の与えた才能と強運、故に、決死の祖国脱出から、後に『東遊(ドン・ズー)運動』を促進し、国内で大きな抗仏運動の輪を広げることができたのでしょう。そしてやはり、筆談でもなんとかなるのは、しみじみ『漢字』文化の有難さを思い出させます。。。

 東京へ行く趙君とは、横浜駅で別れます。「私はここで別れます。これから皆さんの事は警察に宜しくと頼んで行きますから、何でもおっしゃってください。」とあくまで親切な趙青年でしたが、彼は、中国革命党の党員でした。横浜行きの本来の目的である清国保皇派の梁啓超に会うとは言い出せず、趙君と別れた潘一行はそのまま横浜駅の改札を出ます。汽車乗る前に預けた荷物が改札辺りにあると思っていたら、荷物が見当たりませんでした。⇩
 「改札を出ると、どこにも荷物が見当たらない。かなり長い間その場に立ち止まっていると、白い帽子を被り、腰に剣を差した警官が目の前にやって来て礼儀正しく挨拶をすると、ポケットから手帳を取り出して文字を書いてくれた。「どうしてここに立ち止まっているのですか?」これに、私は答えた。「荷物が見つからないのです。」すると、その警察官は、「あなたたちに飲食店の切符を買いました。この飲食店にいけば、荷物が着いてますよ。」そうして、その警官は直ぐに人力車を呼びました。
 「この親切な警官の手招きで3台の人力車がガラガラと小砂利を踏んで走って来た。警官から何か指図を受けた車夫は、3名の客を乗せて韋駄天走り、『田中旅館』という大きな看板のあがっている家の前で梶棒を下ろした。一行がまだ部屋の中にすわるかすわらないうちに行李(荷物)が届いた。」 『潘佩珠伝』より
 この頃の日本の乗車規則について、潘佩珠はこう書き記しています。⇩
 「乗客と行李は同じ号車に乗ることが出来ない。これは4等車でも同じこと。日本政府の決めた明確な規則に則り乗客、行李、行先管理がされている。荷物がなくなることなどない。曾抜虎(タン・バッ・ホー、潘佩珠の同行者)も、汽車に荷物を置き忘れてしまったが、数日後に元の場所で見つけることが出来た。」  『自判』より
 これに関して、内海氏はこのような所感を書かれています。⇩
 「北部ヴェトナムには、仏越戦争勃発(1946年暮)まで4等車があり、野菜、魚、豚、鶏、アヒル等、何でも車内に持ち込むことが許されていたので、潘は日本にも4等車があると思い込んでいたのであろう。」
 ( しかし、私が初めてベトナムに行った1990年代は、更にもっとカオスだったような記憶がありますが。。。)
 「(潘らは)これにはすっかり感心、狐につままれたような顔をして声が出なかったという嘘のような真の話を潘は書き残している。」
 当人の潘佩珠は、この横浜での一件について、
 「この時、初めて、強国の政治とその国民の程度に恐れ入った。この一事だけでも、我が祖国との隔絶の違いがある。」と、このように当時の規律正しい日本社会の様子を褒めていますが、これに対して内海氏は、
 「欧米人の悪い面だけを摸倣、ともすれば5千年つちかわれた東洋文明の教訓を忘れようとする今日の日本を見たら、潘先生は何と言うだろう。」
 ・・・内海氏がこうおっしゃってから70年位が過ぎた今の日本は。。。あの世で内海氏に会ったら、もう何とお伝えすればいいのでしょうか、、、💦💦

 次は、清国保皇派の梁啓超から紹介された、雲南省出身の中国人留学生に会いに、東京へ上京した時の話です。⇩
 「その翌日、潘と曾は囊中の底をはたいて得た数円の金を持ち上京、新橋駅前で人力車を呼んだ」のです。そして、雲南学生『殷承献(いん・しょう・けん)』と書いた名刺を見せると、車夫は当然悩んでしまいます。そして、近くにいる同業者を手招きします。呼ばれた別の車夫は、漢語が解りましたので、筆談が始まります。「この人は漢語がよく分からないので、私を呼んだのです。あなた方はどこへ行きたいのですか。文字を書いてください。どこへでもお連れしますから。」
 
そして、潘佩珠らは、この2人の車夫に乗せられて『振武学校』(←「明治36年に日本政府と清国公使との協定の結果、参謀本部が東京牛込区川田町に創立した学校。陸軍士官学校または陸軍戸山学校に入ろうとする清国の武学生の準備教育のために設けた学校」 『ヴェトナム亡国史 他』注釈より)に着いたのでした。
 しかし、振武学校に着いて見ると、雲南留学生の殷君は既に卒業していました。来春連隊に入隊する日まで、旅館に下宿していることが判ります。

 「2人の車夫は「これは困った」という顔付をして、互いに顔を見合わせていたが、にわかに2人を乗せたまま走り出し、しばらく行ってから静かなところに車を止め、「これから2人で殷さんのところを探して来ますから、私達の帰るまで必ずここで待っていて下さい。」と言い残すと、空車をがらがら引いて走って行ってしまった」のでした。これに対し、内海氏は、「潘はその当時を回想して、「東京は世界の大都会、旅館の数だけでも大小合わせれば数万軒を下らないところである。いくら日本の車夫が優秀でも、その中から中国の一学生の住所を探し出すことは、僥倖にあらざる限り、いかに難しいカ想像に難くない」と書いている。潘はハノイに行った時に乗った無愛想な見ずぼらしい人力車のことを思い出し、日本の車夫が余りにも親切にしてくれるので返ってうす気味が悪くなり、後で法外な車賃を要求されるのではないかと内心気が気ではなかった。」と書いています。
 そして、その後、「2人の車夫が殷君の居所を探しに行ったのは、午後2時」「…4時になり、5時も過ぎ、赤い夕日はの西の空一杯に広がって来た。その時、向こうの方から、威勢よく空車をひいて走って来た2人の車夫は、汗を拭き拭き「さあ、どうぞお乗りください、分かりましたから」と言いつつ、また走り出した。」「2台の車はひた走りに走って一時間、一軒の旅館の前でぴたっと止まった。」「潘、曾両者が玄関で靴を脱ぎ上がってみると、長い廊下の分かりやすいところに、横に長く宿泊人の名札が掛かっていた。名札には一々国籍が書いてあり、その一つに「清国雲南省留学生殷承献」の名があった。」 
 これを見た潘佩珠は、この時初めて、客人探しは難しくない事なのだと解った、と書いています。 

 「ほっとした潘が、おそるおそる親切な車夫に車賃を尋ねると、「一人25銭ずついただきます」と答えた。自分の耳を疑った潘は、再び尋ねたが25銭に違わなかった。」
 
そこで、大事にしまってあった1円札を取り出して、気持ちとして労賃を渡そうとしますが、車夫は受け取ろうとしません。車夫は筆談をします。
 「内務省の規定で、東京からここまでの車賃は決まっています。それに、お二人は外国人だ。日本の文明を慕って来てくれたお二人を歓迎します。お金を歓迎するのではありません。だから、貴方が規則以上の金を私達に払おうとするなら、それは日本を軽侮することです。」
 この車夫の文字を見た潘佩珠と曾抜虎の2人は、この車夫らに感謝を述べて別れた後、「自分たちの事を考えれば考える程恥じ入ってしまった」とこの時の思い出を書き残しています。

 当時の日本の人々の、貧しいながらも凛とした、さっぱりとした様子。同じ黒い目、黒い髪、同じ漢語を解する国からはるばるやって来た外国の人々に対して、日本の市井の人々が、どんな風に接していたのかが判りやはり嬉しくなります。

ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(2)|何祐子|note
 
 


 
 

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