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ベトナムの皇子クオン・デ候 家族写真の謎に迫る

 この写真なんですが、戦後の日本とベトナムで、『クオン・デ候の日本の家族写真』として出回ったものらしいです。特にベトナムでは、今でも祖国を捨てたクオン・デ候が、日本で新しい妻を娶り幸せに暮らしていたために、ベトナムのことなんか忘れてしまい、とうとう帰って来なかった、などと、まだ勘違いされている傾向が強いみたいです。
 私も昔、日本のベトナム抗仏運動関連の書物にちらっと阮朝の皇子が登場し、この写真が必ず載せられているので、『日本で庇護を受けてのんびりとした貴族の暮らしを謳歌していた駄目な皇子の典型』なのかな、と説明をそのまま理解していました。それが、いや、待てよ、全然違うぞ、とびっくりしたのが、ベトナム語の古冊子『クオン・デ 革命の生涯』(1957)を読んだ時でした。
 フランス政府は、クオン・デ殿下とファン・ボイ・チャウを、革命党の両雄として追跡し続けていた。理由は、特にクオン・デ殿下のことは、当時国内の勤王党による蹶起行動に悩まされ続けていた仏印政府が、クオン・デ殿下がまだベトナム国内に居た頃、英邁の聞こえ高い殿下に皇帝就任を打診したことからも能く分かります。フランスは、『クオン・デ殿下』の聡明さを元々知り尽くしていたからでしょう。

 では、何故? フランスからは最も危険視されていたであろうクオン・デ殿下が、あんなに長い間日本に滞在することが可能だったのか?
 その疑問を解決するのが、正しく、日本の警察や内務省の調査報告書だったのかと推察します。
 「ほら、このようにふらふら遊んでますよ。」
 「心配要らないですよ、すっかりベトナムのことなんか忘れて、写真機買ったり、蜂を育てたりして遊んでますよ。」

 という報告書は、クオン・デ殿下とその支援者たちにとっては、好都合のカモフラージュだったのだと思います。そのように報告書が作成されるように、クオン・デ殿下自身も『愚昧なふり』をしていたかも知れません。しかし、戦後はこの報告書だけが残ってしまい、また殿下も早くに亡くなって、書物も書き残さなかったため、これら報告書の内容だけがそっくりそのまま捉えられて、『愚昧な皇子』のレッテルを被せられてしまった。どうも、内実はそんな経緯かと思います。

 冷静に考えて見れば、総理大臣犬養毅、大亜細亜協会の松井石根大将、玄洋社の頭山満と黒龍会、大川周明と猶存社の何盛三(=赤松盛三)、大南公司の松下光廣など並々ならぬ面々の支援を受けたクオン・デ殿下が、『愚昧な皇子』だったとは、ちょっと考えられないですよね。けれど、この『家族写真』の存在が、そういったことをうやむやにする力がありました。

 牧久氏の著書『「安南王国」の夢』に、こんな箇所があります。
 「クオン・デ殿下は、復国同盟会本部を台北に移す時、内縁の妻である安藤ちえのを同行した。」
 「ちえのは、台北でクオン・デの友人家族写真と一緒に会食した日の写真を、戦後も大事にとってあった。2組の若い夫婦と2人の子供を含めた8人の写真である。(中略)終戦間際にハノイやフエの有識者の間に「クオン・デの日本の家族の写真」として、密かに配られ、クオン・デのベトナム復帰の大きな障害となったのである。

 私は、これを読んでいたので、写真は台北で撮ったのだ、そうすると、周りの人たちは台湾在住の日本人か中国人、或いはベトナム人だ、でも後者の可能性の方が高い、顔つき、体格、鋭い眼光、、どう見ても日本人ではない、などなど考えていました。

 そして、その後に、偶然ホーチミン市一区で入手した古冊子『クオン・デ 革命の生涯』を読むことが出来ました。その中の『第17章 ベトナム復国同盟会』に、クオン・デ殿下が台湾政府の招きで台北に渡り、『台北無線電力伝送局』内に『ベトナム語放送班』を設立した経緯が語られていました。その内容が、ぴったりこの家族写真の謎を解明するに足りるかと思いますので、ここに挙げて行きたいと思います。

 まず①、「台北滞在は長引いたため、ベトナム復国同盟会の中央総務部も、一時台北に移した」のです。 
  →日本で身の回り全般から、通訳一切と住み込みで仕切っていた個人秘書の『安藤ちえの』さんも、当然台湾に行く必要がここにあったのかと思います。左隣の着物の女性は、当然安藤ちえのさんですね。

 ②「黄南雄(ホアン・ナム・フン)、杜啓完(ド・カイ・ホアン)、張英敏(チュォン・アイン・マン)、黎忠(レ・チュン)は、台湾総督府情報課の委任を得て、このベトナム語班の仕事に従事することになりました。」とありますので、
  →後ろの男性は、このうちのどなたかも知れません。或いは、「南方協会からの派遣でグエン・ジン・二ェップというベトナム人がベトナム語教師として台湾にやって来た」そうですので、この方かも。

 ③「黎堅(レ・キエン)の紹介で台北に移って来た黄平(ホアン・ビン)夫妻も、現在台北無線電力伝送局の仕事を手伝っています。
  →赤ちゃんを抱いている女性が黄平夫人で、その前の子も二人の子供かと推察します。
   
 ④「日本側の監督責任者がおり、名は牟田花子(むた はなこ)女史」 
 →30年以上ベトナム北部に暮らしていた日本人女性だといいますから、(私も同じく、、)既に日本人よりベトナム人に近い雰囲気だったと思います。そうすると、クオン・デ殿下の右隣の女性が牟田花子さんではないかと思います。或いは、上記②のうちのどなたかの奥様か。

 そうして考えて見ますと、この写真は、「台北無線電力伝送局内ベトナム語班」メンバーの記念写真ではないか、と私は考えます。
 事実を知る先人は、もう生きている方は全員いなくなってしまったと思いますので、真実は明確に出来ませんが、この写真が『台北』で撮られたものとはっきりしていますので、少なくとも『クオン・デ殿下の日本の家族写真』の可能性は1%も無いわけですから、こんな不名誉な勘違いは、特に殿下の祖国であるベトナムで、一日も早い払拭がなされることを願って止みません。



 

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