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仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(1)

 去年から、ここ”NOTE”で記事を投稿させて頂いてから早半年が経ちます。主に以前『仏領印度支那(インドシナ)連邦』と呼ばれたベトナムに関する古い書籍の記述を元に色々纏めています。
 1951年に亡命先の日本でお亡くなりになった旧ベトナム国の皇子、クオン・デ候の自伝冊子『クオン・デ 革命の生涯』の内容を軸に興味を広げ古書探索をし、その時代のベトナムに直接・間接、或いは大なり小なり関係があった日本人についてあれこれ書いて来ましたが、今日はとうとう、掲題の『大南(ダイ・ナム)公司』の『松下光廣氏』です。

 本当はもっと早く書くつもりだったのですが、最重要人物過ぎるにも拘わらず史料が断片的で且つ少なく、😅😅 後回しにしてました。。取敢えず、今回主に牧久氏著の『安南王国の夢』(2012)と、松下光廣自伝とも云える『天草海外発展史』(1985)、その他神谷美保子氏『ベトナム1945』(2005)から纏めようと思います。

 小松清氏著『ヴェトナム』(1955)の中の、1951年に危篤状態に陥った病床のクオン・デ候を書いた文章に、
 「…それでも、日本人の知人としては最も古くからの知り合いであるD公司のM氏などと話していると、相手がM氏であることを意識してであろう、越南語で話ながら、その合間に日本語を使うことがあった。」 
          小松清著『ヴェトナム』より 

 この「D公司のM氏」が、大南公司の松下光廣氏で、「インドシナではD王国とまでいわれたほど手広く商売をしていた」というこの会社が、戦前のベトナムでは非常によく知られた存在の「インドシナ半島からシンガポールに至るまで東南アジアに根を張った日本商社『大南公司』」です。 
 若くしてベトナムへ渡り、現地で企業して大成功した松下氏は、「若くしてベトナムに渡り」の部分だけ私と同じで、親しみを感じます。。😅

 1896年生まれの松下氏は、「長崎県天草郡大江村字里(現・天草市天草町大江字里)」に生まれ育ち、仏印で日本雑貨店を経営していた縁戚が商用で帰郷した折に色々な珍しい話を聞き、「15歳で、仏印のハノイに渡ることを決意」して、志を立てました。
 「日本人はすべからく島国根性を脱却し、世界の全人類と手を携えて平和に進まなくてはならない。そのためには、まず先進国の文化に触れる必要がある。」
     北野典夫著『天草海外発展史』(1985)より

 縁戚とは、実姉の嫁ぎ先『橋口家』の義姉で、橋口性は元は幕末に鹿児島県甑(こしき)島から天理教布教活動のため大江村に移住してきたそうです。 
 ところで、天草と言えば日本史上『天草四郎時貞』の『天草・島原の乱(1637年)』で知られ、原城に籠城したキリシタン信徒一万人以上が犠牲になったと伝えられています。この乱の後に天草は天領とされ、禁教・棄教の強要にあっても隠れキリシタンが最も多かった土地だそうですが、光廣氏の長男光興氏によれば、「いつの頃からかわかりませんが、松下家は天理教」だったそうです。
 ここで、『天理(てんり)教』ですが、
 「開祖は奈良県の中山みきという女性で神道の一派」明治時代から日本人が集団移民した地域のアメリカ西海岸、ハワイ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、それに台湾、満州、朝鮮、東南アジアなどへ世界各国に進出、「海外布教に乗り出すため語学専門学校を設立、それが今の天理大学になった」そうです。。。

 「父、光廣は信仰心は強かったが、宗派にはこだわりませんでした。私と妹はクリスチャンですし、東京の自宅には仏壇も神棚もしつらえ、毎日、手を合わせ拝まされましたからね。」とは、ご長男光興氏の談。こうして考えると、松下光廣氏が、ベトナムの高台(カオ・ダイ)教ベトナム皇家阮(グエン)家クオン・デ候の強力な支援者だった背景も少し理解できる気がします。
 
 おばさんと一緒に仏印に渡りたいという光廣少年の希望は叶えられ、1912年1月に大江村から長崎へ。ここで旅券の交付を受け、オーストラリア航路の「熊野丸」に乗船します。香港で中国船に乗り換え22日の朝に仏印の海防(ハイ・フォン)に到着、汽車でハノイへ入りました。
 「ハノイで列車を乗り換え南下して、日暮れ前に北部仏印の古都、南定(ナム・ディン)に着いた。(中略)セキ(=おばさん)はこの町で、フランス人向けの日本土産品雑貨の小売店を出していた。セキの家は2件続きの長屋。片方ではフランス人がカフェを経営していた。」
             
『安南王国の夢』より
 今から100年以上前ですけど…、なんだか現在と殆ど変わらないベトナムの街の様子が思い浮かびます。

 ベトナムに着いた松下氏はまずフランス語とべトナム語を猛勉強し、現地のフランス公学校へ入学して、両方とも不自由なく使えるようになります。日本の早稲田大学から商業、法律講義録などを取り寄せて独学で勉強を続けました。そして、洗濯屋さんのアルバイトでフランス人家庭へ御用聞きをしていた光廣青年の元へ、地元のベトナム人や独立運動家の青年らが訪ねて来るようになったそうです。
 「私がただ日本人というだけで、信頼してやってきたのです。その時から私は、訪ねて来た志士たちの独立と自由への切々たる悲願に魂の底で共鳴し、古くは中国の弾圧に苦しみ、さらにヨーロッパ植民地主義の圧政に呷吟苦悩しているベトナム民族に同情の念を強くするとともに、その桎梏を打破すべく、命をかけて抗争している革命家たちの言動に深く感動したものです。」       『天草海外発展史』より

 この1915年頃は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウとクオン・デ殿下は日本退去命令により既に中国へ活動場所を移していた頃ですが、その動向はベトナム国内の青年活動家達へ逐一知らされていたでしょう。松下氏は、彼らから盟主クオン・デ候東京同文書院にいたベトナム人学生のこと、海外のベトナム人革命運動家ネットワークの存在を聞かされた筈で、松下氏とクオン・デ候の手紙のやり取りが始まったのが1921年頃、初めて台湾で直接面会したのが1928年と云われています。

 松下氏は1915年の春、港町ハイフォンの日本商社『池田洋行』に就職し、2年半後に「富茂洋行」に転職します。その後の1918年には南部コーチシナ・サイゴン(現ホーチミン市)にあった「三井物産出張所」に採用されました。
 直接肌で触れた20世紀初めのベトナムの雰囲気を、松下氏自身がこう語っています。
 「その当時は、エンテ(安世)の森=タイ・グエンを拠点としていたデ・タム(ホアン・ホア・タム)の30年にわたる活発な反仏抗争が、ベトナムの若い人々の血を湧かせ、有名なクオン・デ公の日本亡命やグエン・タイ・ホックの指導せるエン・バイ(安沛)事件などがあって、独立復国運動の気運が全土に横溢していた時代だったのです。それは、日露戦争という近代戦で日本が大国ロシアを打ち破り、アジア人として最初にヨーロッパの侵略を阻止した歴史的事実に刺激された結果によるもので、アジアの民族的覚醒期にあたっていました。」
              『天草海外発展史』より

 サイゴン「三井物産出張所」で4年間勤務した松下氏は、25歳の1922年、ハノイにあった「鮫島ホテル」を同じ天草出身の姉妹から買い取り、「松下旅館」を開店します。そして、同年5月ハノイ中心街に「大南(ダイ・ナム)公司」という貿易商社を設立しました。

 「大南公司の社長として、松下はまず、仏領インドシナ全域で産出する原材料を集め、日本やフランスに輸出することから始めた。原材料といっても、当初は農産物が中心で、主な物はウイキョウの実である。その油を生成すると香味料や薬用に使われる。また、牛皮やトウモロコシをフランスに、もち米を日本に向けてハイフォン港から船積した。
 …同時に開業したのが、ハノイ市内での日用雑貨店である。(中略)ベトナム人を対象に日常の生活必需品を取り扱う店舗を展開した。」

            『安南王国の夢』より

 この頃、同郷の大江村から日渡(ひわたし)敬治青年がハノイへ渡り、後に大南公司ハノイ支店長となります。後に松下氏の指示を受け、「印度支那産業会社」台湾拓殖会社と澤山商会(本社・長崎)ハノイ事務所の山根道一氏が設立した)に移って事務を取り仕切ることになります。
 山根道一氏とは、南洋協会の理事であり、久原鉱業にも籍を置きました。ハノイに「印度支那経済研究所」を立ち上げ、1941年10月には「南方軍参謀副長兼司令部付仏印機関長」の長勇(ちょう いさむ)少将(当時)の下で「山根機関」を引きいて、現地の人からも「ハノイの梁山泊」と呼ばれたという凄い方ですので、またいつか別途に纏めたいと思います。
 クオン・デ候の日本滞在時の影の補佐役と云われた日本人の何盛三(が もりぞう)氏=赤松盛三氏(幕臣赤松大三郎の三男)も、猶存社、久原鉱業に籍を置いた時期があり、山根道一氏とも当然接点がありますね。
(因みに私のペンネーム「何祐子(が ゆうこ)」は、ベトナム人の夫がベトナム性「Hà(ハー)=何」だからです。。。😌😌)

 大南公司は、1928年本社をハノイからサイゴンへ移し、日本製の陶磁器やガラス器の輸入事業も軌道に乗ります。1937年にフランス法人有限会社化し、現地トップクラスの大企業に成長しました。
 1940年日本軍の仏印進駐以後、事業は更に拡大し、本店はサイゴン、仏印支店はハノイ、ハイフォン、チョロン、プノンペン、これ以外に出張所が20カ所。バンコック支店、シンガポール支店、ラングーン支店、海口支店などなど、合計9支店30出張所に、最盛期には9千人の社員を雇用していたそうですから、😌😌 凄いです。

 松下氏とクオン・デ候が台湾で面会した年と、大南公司が本社をサイゴンへ移動した年が同じく1928年、『仏印平和進駐』の12年前です。5.15事件(1932)前で犬養毅氏もまだ健在。大川周明氏も入獄前。高台(カオ・ダイ)教設立2年目で、日本から『大本(おおもと)教』が渡仏印して占卦を伝授した年。松下氏の南部コーチシナ入りで、結果的にカオ・ダイ教教主范工則(ファム・コン・タック)と直接親交を深めて行くことになった年ですけど。。。
 ええと…💦💦こうなると、もう絶対に偶然じゃないですよね!?😅 
 ベトナム国民の期待を一身に背負った独立革命運動の盟主クオン・デ候候を庇護する日本、そしてクオン・デ候お墨付き日本商社『大南公司』。これでベトナム人から熱烈な支持が無い筈が無いので、大南公司のベトナムビジネスは否が応でも成功した訳です。(ベトナムに長く住んだ私は断言します!😂)
 ビジネス成功で得た潤沢な資金を、松下氏がベトナム独立革命運動とカオ・ダイ教などへ注ぎ込んだのは、至極当然の成行きで、日越(の中の或る人々…)がタッグを組んで、計画通りに進んだ様に私には思えるのです。。。😅

 その(2)に続きます!

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

  
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
                  
 

 


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